ラッセルの5分前世界創造説の解釈?

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

永井さん曰く、「そもそも世界そのものが、時間そのものが五分前にできた」、「われわれが知っているつもりの過去がじつはなかっただけではなく、それとは別の本当の過去などというものも、なかったことになる」ように「ラッセルをそう解釈することもできるのだ」(p. 22)。
これを読んで、ちょっと混乱してしまう。そう解釈しないでどう解釈するのか、と(だから「宙に浮く」云々の話もいまいちわからんかった――今はわかったが)。
ラッセル曰く、

記憶信念が存在するために、そこで記憶されている出来事が実際に起こったという事実は、論理的に必要ではない。というか、過去それ自体が存在する必要すらない。世界が、5分前に、5分前の状態そのままで、また本当は存在しなかった過去を「覚えている」人々も含んで、初めてできた、というふうに仮定することが、論理的に不可能ではないのだ。ある時点の出来事と、別の時点の出来事の間に、論理的に必然的な接続関係というのは存在しないので、現在や将来の出来事は、世界が5分前に始まったという仮定の反証にはなりえない。それゆえ、過去についての知識、と呼ばれている現在の出来事は、過去とは独立の出来事である。知識というものは、現在の内容に分析し尽くすことができるのであって、過去というものがまったく存在しなかったとしても、現在あるがままの形での過去の知識というものは、理論的には存在可能なのである。
http://russell.thefreelibrary.com/The-Analysis-of-Mind/9-1

というわけで、「解釈することもできる」どころの話じゃないと思うのだけど。

だとすると、もはや、五分前につくられた贋物の記憶とだれも知らない本物の過去とが対比されるのではない。記憶と現実を含めて五分前につくられた現実世界そのものと、端的な無(あるいは時間以前の世界?)とが対比されることになる。これまたなんとすばらしい想定だろう! だが、おそらく、ラッセルはそんなすばらしいことを考えたわけでもなかった。(p. 22-23)

だから、考えたんじゃないの? よくわからんです。

追記

整理しよう。
「世界が創造された」というとき、(創造の時点から見た)「過去」が既存である/ないが区別できる。
過去が既存のとき、創造されるのは「現在における、過去の証拠(記憶を含む)」である。このとき、この創造された証拠が示す過去(記憶されている過去)と、実際の過去の内容が一致する/しないが区別できる。
このうち「一致する」というのは、永井さんが「いや、なんとすばらしい想定だろう! だが、もちろん、彼はそんなすばらしいことを考えたわけではなかった」(p. 21)と言っているもの(「彼」というのはラッセルのこと)で、想定が「宙に浮く」と言われているものだ。
「一致しない」の方は、永井さんが解釈するところの、ラッセルが解釈するところのラッセルの想定である。これは当然に「ありうる」とされている。
創造の際に、過去が既存でない場合。このときは、創造されるのが現在以降の時系列だけなのか、創造以前の過去も一緒に創造されるのか、つまり、過去が創造される/されないが区別できる。
現在以降の時系列だけが創造される場合というのは、上の引用にあるように、(私の解釈における?)ラッセルの想定の意味するものだ。これについて永井さんがどう考えているのかは不明。
現在以降の時系列だけでなく、過去も一緒に創造される場合、これまたさらに、その創造された(現在における)証拠が示す過去(記憶されている過去)と、やはり創造された過去それ自体の内容が、一致する/しないが区別できる。
現在(における記憶)も過去それ自体も創造され、かつ両者の内容が一致する場合。これは、永井さんが「正直のところ私には、これは可能な事態であるどころか、実際にもその種のことは起こっているんじゃないかと思えてしかたがない」(p. 26)と言っていることだ(と思うのだが、ちょっと不明な部分もある)。
現在(における記憶)も過去それ自体も創造されるが、両者の内容が一致しない場合。これは、永井さんが「全能の神でさえ、そんなことをすることはできない」(p. 28)と言っていることだ。
とりあえず以上のように整理できると思うのだが、いずれにしても永井さんの文章は随筆すぎるというか、ゆるすぎるというか、何のことを言っているのかわからない部分が多い。