人文総合演習B 第9回 山脇由貴子『友だち不信社会』
- 作者: 山脇由貴子
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2010/03/16
- メディア: 新書
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もちろん、報告者にしろ、コメンテータにしろ、ここまで単純な議論をしているわけではありませんが、どうしても、不快⇒悪⇒不正⇒禁止⇒罰という連想が、あまりにもするするとスムーズに流れていってしまっているような印象を受けました。道徳哲学的には、と大層なことをいう必要はありませんが、もう少し、各段階で、ごつごつとひっかかってほしい気もしますので、今回は、こういう倫理学的な、それから法哲学的なことについて、ちょっとコメントしておきたいと思います。
不快⇒悪について。本人にとって嫌なこと、不快なことが、必ずしも、本人にとって悪いことなわけではないことは、たとえば、泣き叫ぶ子どもに注射をするお医者さんのご苦労を思い浮かべればすぐ理解できるかと思います。
悪⇒不正について。「悪」という言葉、「善悪」という区別を、上の続きとして、ここではその人にとって悪いこと、という意味で使います。これに対して、「不正」という言葉、正不正という区別は、誰にとってということのない、客観的な道徳的判断として使うことにします。そうすると、ある人にとって「悪い」ことが、客観的にも「不正」であるとは限らないことは、何かの大会とかでたくさんのライバルを破って自分が優勝、という事例を考えれば、これまた明らかでしょう。自分にとって優勝が「善い」ことである反面、敗退した人たちにとってそれは悪いことでしょうが、だからといって頑張って優勝した自分が「不正」だと言われたら困りますよね。
不正⇒禁止について。不正なことはしてはいけないというのは、自明に思えるかもしれませんが、倫理学的には必ずしも自明ではありません。これは「why be moral」問題と呼ばれますが、極端に過激な言い方をすると、「なぜしてはいけないからといってしてはいけないのか」という問題です。ただこの問いについては、ほとんどセンスの問題、というか、たまたまこの問いが理解できた人にとってのみ問題になるというような種類の問題な気もしますので、ここではさらっと飛ばします。
禁止⇒罰について。実のところ、この両者をきちんと区別することが、学部生レベルでは一番大切だと思っています。大学生ともなれば、この両者は絶対に分けて考えなければいけません。なぜなら、何かが「してはならない」と禁止されているだけでなく、この禁止に違反したら罰を与えるということになれば、そこに、今まで登場しなかった「罰を与える人」が突然現れるからです。
禁止だけなら、それは「してはならない」という観念とその人だけの問題ですが、処罰となると、その禁止/違反関係の外部から突然「罰を与える人」が出てくることになるのです。天罰があれば問題ありませんが、残念なことにそんなものはなく、人間の社会では必ず、罰があるということは、罰を与える権力をもった人間が存在するということを意味します。そして、罰もまた人の行為ですから、実は、その罰を与えるという行為の正不正が、禁止された行為の不正性とは別に問われなければならないはずなのです。
(なお、法律や条例のレベルでも、禁止されてはいるが違反しても罰のないきまりというのはいくらでもあります。たとえば、新潟県の青少年健全育成条例では、「何人も、青少年に対し、みだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない」(20条1項)と禁止事項を設け、その「規定に違反した者は、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」(29条1項)と罰則を設けている一方で、「この条例の罰則は、青少年に対しては適用しない」(31条)として、青少年を罰則の適用から除外しています。ということは、青少年同士で「みだらな性行為」をしても上記の罰則は与えられないということになりますが、しかし禁止されていることには変わりありません。)
ちょっと難しい話になりましたが、とりあえずは、それぞれの移行段階に、ある程度のでこぼこがあってスムーズには移行できないという感じをもっていただければよいかと思います。あとは、事例に応じて、自分で考えることです。
なお、以上の説明は、これでもものすごく単純化したものです。ある行為とか状態に対する(我々が日常的にやっている)道徳的評価というのは、善いか悪いか、正しいか正しくないか、みたいな二項対立には還元できません。しなければならない、したほうがいい、してもしなくてもどっちでもいい、してもいいけどしないほうがいい、してはいけない、といった言葉づかいの違いに見られるニュアンスの差に思いをいたしていただければ、事態の複雑さがよくわかるかと思います。
以下、出席者のコメント。
- 本の中では、ひどいいじめの事例が紹介されていたので、ウワサ=悪いのかなと思ったこともありましたが、議論の中でウワサ自体は悪くないのではないのかなと思いました。そもそも悪いウワサのせいで友だちが離れていったのならば、その人との関係はそれまでだったと思うべきであると思いました。
- 自分がやったときも悪かったかもしれませんが、特に、報告者、コメンテーターの方々にはもうすこし聞きとりやすく話をしてもらいたかったです。/今日すごく楽しかったです。友だちとかやっぱり身近なことに関連することだったので考えやすかったし、本も読みやすくてたすかりました。もっと時間かけてみんなで話をしたい内容でした。
- ウワサを話すこと自体は悪くないと思うが、何を話すか、誰に話すかは自分が責任を持つべきだと思う。
- すごく身近な話題で議論が盛り上がった気がする。ウワサがいじめなどに発展することはもちろん悪いことではあると思うが、ウワサ話をすること自体をいけないことだとされてしまうと、これから友だちと何を話そうかと考えてしまう。ウワサ話をせずに友だちと会話を続けていくことは私には難しいと思う。
- 今回は議論の流れの中できちんと発言することができて良かった。次回もきちんと発言して議論に貢献できるようにしたい。
- そもそもウワサが何たるかがあいまいな部分があって、ウワサが何なのかわからないといいともわるいとも言えないと思う。
- ウワサそのものが悪いというより、いじめの手段の1つとして使われるからウワサ=悪みたいになっているのではないかなあと思った。罰則がウワサの抑止について効果があるかは、疑問が残った。ウワサへの抑止は、ウワサ自体がなくなることはないと思うので、あまり意味がないんじゃないかと思った。
- 人間関係というものはとても困難です。「人の気持になって考えろ」と言われてもそんな事はなかなか出来ません。まずは相手というものを理解し、受け入れること。これが大事です。ミもフタもないことばかりですいません。
- うわさとか友情とか、目に見えないものの善悪や重要性は、一人一人の意識による価値基準に委ねられる部分が大きい。うわさ話を受け取る側の姿勢がその後の結末を変えていくから彼らの姿勢が重要だと思う。
- 当事者にとってのいい・わるいと噂する人にとってのいい・わるいと社会にとってのいい・わるいは同じにはならないのでは、と思った。私たちのする日常の会話から噂を除くと、もはやあいさつくらいしか残らないように思う。噂はあって当然だし、良し悪しも決められないと考えた。他人の間でどんな噂がされようと自分は自分、というような確固たる自己をもつというのも、噂にふりまわされないためのひとつの手段かもしれないと思った。
- より良い関係を築くのは簡単ではないとは思う。だが実際問題、罰則が機能するような現状とは思えない。だから、人とのつき合いをうまくできるようになれば、いじめや悪口はなくなるだろう。・・・小学生にはまだむずかしいかも。
- 報告者の感想 ウワサは絶対にいけないことだと思っていましたが、今日みんなで議論して、絶対にいけないウワサというものがあるのか、自分でも疑問に思いました。自分の考えをもっとしっかりもって話したいです。
- 報告者の感想 初めての報告だったけど、自分の考えがうまくまとまっていなかったと思う。次回の報告では、自分の考えをしっかり持ちたいと思う。うまく答えられなかったけど、だんだん討論が楽しくなってきた。
- コメンテータの感想 今回はウワサについての議論であったが、自分はいじめや誹謗中傷へとつながるウワサの抑止のためには罰則が必要と考えたが議論を通して、規定を設けて罰を与えるのも難しいことだと感じた。なかなか良い対策がないこともいじめが拡大する原因の1つであると感じた。
- コメンテータの感想 ウワサの意味が広く、どれか1つに対して論じるか全体について論じるかでも自分の意見が変わってきて、自分の中でもどんどん考えがあいまいになってしまって大変だった。
- 司会者の感想 今日はいろいろ考えるべき話題がでたが、けっきょくどれも解決というか、はっきりせずに、まとまらずに終わってしまった。やってみると、やっぱり難しかった。私も、一般の人になったとき、意見をパッと言える人になれたらいいなと思います。今日は助かりました。