人文総合演習B 第8回 加藤隆『歴史の中の『新約聖書』』
- 作者: 加藤隆
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/09/08
- メディア: 新書
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どうやら、「キリスト教」、あるいはもうすこし一般的に「宗教」という対象について、生活上の実感のある人がいなかったようで、報告者たちは苦労したみたいです。もっとも、かくいう私自身が、宗教団体や宗教活動とは無縁な生活をしていて、宗教というカテゴリーで括られる社会的活動が実際にどんなものなのか、実感としてはほとんど知りません。
他方で、ある対象について論じるというとき、その対象の内部にわけいって詳細を調べるということだけが、唯一の方法なわけではありません。対象の詳細は思い切って切り捨てた上で、その対象の何か一面にだけ着目し、そこから別の対象へと向かう、という議論のやり方もあります。それが、「比較」です。
比較という方法は、抽象(抽出)から始まります。抽象によって、別の対象が議論のなかに入ってこれるようになるからです。
たとえば、宗教にはエクスタシー、つまり忘我的な体験がつきものだ、ということを聞きかじったとします。宗教的忘我体験がどんなものかについて、さらに詳しく調べていくというやり方はもちろんありますが、比較という観点からは、むしろ、報告者がよく知っている社会的領域のなかに、宗教的ではないけれども忘我的な体験をもたらすものがないだろうか、と探してみることが大切です。セックスや恋愛はどうだろう? ゲームに夢中になって一日中やってたみたいなのは? 音楽は? アルコールや麻薬は? という感じです。
あるいは、宗教には聖書やコーランのような「正典」がある、ということから出発して、宗教ではないけれども「正典」のようなものがある領域はないだろうか、法律業界で憲法はそういう位置づけではないか? ガンヲタがいつまでもファーストガンダムの話ばかりするのは、あれは正典扱いということでは? みたいな感じの方向性もありでしょう。
このように、抽象と探索によって、ある点について共通した異なる複数の対象が得られます。たとえば、宗教と恋愛は忘我体験を伴うという点で共通だ、と。さてここから、「だから恋愛も宗教だ」みたいな議論も、ありといえばありです。しかし、忘我体験は共通でも、宗教にはある正典が、恋愛にはありませんから、それでも「恋愛も宗教だ」といえるためには、忘我体験があることは宗教の本質であるが、正典があることは本質ではない、という前提条件が必要です。つまり、「宗教(の本質)とはなにか」という大変難しい議論に入っていかなければならなくなります。これは、はっきり言って無理筋です。
他方で、「宗教は宗教、恋愛は恋愛で別もの」ということは維持した上で、しかし「忘我体験という共通点がある」というのにとどまるなら、上のような困難は生じません。でもこれだけでは、あまり「発見」的な感じがしないのも事実です。つまり、「比較」というのは「共通点の発見」で終わってはおもしろくないのです。おもしろくなるのはむしろここから、「共通点の発見」を出発点とした「相違の探索」です。
宗教と恋愛にはどちらも忘我体験があるとして、しかしそれを引き起こす要因、それに対する意味づけ、それが内外に引き起こす問題、等々はかなり異なっているはずです。この違いを列挙するだけで十分に発見としての価値がありますし、またこの作業を通じて、宗教的な現象としての忘我体験の詳細も、恋愛との差異によって明らかになっていくわけです。
共通点と相違点がセットになって、はじめて比較は完成します。今回の報告者の議論は、一方はキリスト教に親和的な民族そうでない民族(特に日本人)のあいだの相違点を、両者の共通点を軸に設定しないまま指摘し、他方はキリスト教の権威化と現代の環境問題の権威化の共通点を指摘するに留まっていました。いいことがいえそうなのに、どう進んでいいのかわからなくなるのは、上に述べてきた「比較」の基本形式がとれていないからだろうと思います。逆にいうと、比較というのは、対象についてよく知らなくても発見を導くことができる、優れた方法だということです。特に、あらかじめ対象について知識をもっていることの少ない社会科学では有効な方法だといえるでしょう。
長くなりましたのでこのくらいで。
以下、出席者のコメント。
- キリスト教の信仰と環境問題の類似性については、あまりよく理解できなかった。しかし、最後の方の議論で、キリスト教徒による他人種?の迫害と、環境保護の延長で起こる過剰な行動と類似しているのではという考え方をきいて、そこの部分をもっと考えたいと思った。
- 環境保護と新約聖書の共通点には未だにひっかかりがある。やはり背景にある政治的な意図が問題なのではないか。新約聖書は、一国を統制するのを優位にするために「権威」を与えられた。一方、環境保護の意義は、それを唱えることで国際的地位を確保する地位を確保することにあると思う。例えば鳩山さんが“CO2 25%削減”とか言っていたように。確かに、環境保護は正統な主張だけど、実際はあやまって機能している気がする。
- 環境問題が大きくとりあげられるようになったのは、お金が絡んでいるような気もします。二酸化炭素を敵にして地球温暖化を絶対化することで、電化製品や車などお金が回るようになるからではないでしょうか。1990年以降はバブルが崩壊した後なので、何かしら関係しているのではないかと思います。あくまでも憶測ですが。/キリスト教の家に生まれると生まれたときからキリスト教色に育てられるので、価値感も宗教によって左右される気がします。宗教にうるさくない家に生まれれば他宗教に対しても寛容になったりすると思います。
- 私は一学期に、“日本人と無宗教”というテーマで発表しました。そこで、宗教について調べているうちに、このテーマ失敗した!と思ってしまったほど、宗教って難しいものだと感じました。今回も、キリスト教についてのものでしたが、改めて難しさを感じました。その中で、環境問題とキリスト教の類似性についての議論は、すごく考えさせられました。
- 今日の議論になかなかついていくことができませんでした。話の論点からずれてしまうことがあるので気をつけたいと思いました。
- 普段宗教を意識する場面がほとんどなく、その宗教を象徴するものについて考えるのは難しかった。「本」が権威をもち、それが人々の信条となっているということにあまり現実味を感じられない。
- 宗教を信仰するかどうかというのは、周りの環境によるものだと思った。先生も言ったように、イスラム教はあまりあいまい性がないと思えるので、あいまいさはキリスト教の広がりに影響していないんではないかと思った。
- 宗教の話は苦手です。議論になかなか参加できず申し訳ありませんでした。結局、司会の方に指名されないと言えませんでしたすみません。
- 報告者の感想 環境問題と新約聖書は、どちらも社会の中で大きく強調されるようになり絶対的な価値を持つようになった過程が類似していると考える。
- 報告者の感想 自分の意見をはっきりさせ、それをつき通すことは難しいと感じました。
- コメンテータの感想 発表が難しいのを身をもって実感した。自分以外の意見がたくさんあるのが面白いと改めて感じた。次の発表のときはもう少し自分の意見をはっきり述べられるようにしたい。
- コメンテータの感想 環境問題との類似性についてはよくわからなかったので、あえてコメントは避けたけれど、今回の議論を聞いて、色々と考える材料にはなった。キリスト教徒の人がもし中にいたら、また違った意見が聞けたかもしれないと思った。
- 司会者の感想 司会とは大変なものだと実感した。常に頭をフル回転していないといけないのはつらかった。