チャタレー事件判例


主文

本件各上告を棄却する。


理由

被告人B、同A両名の弁護人正木旲、同環直彌、同環昌一の各上告趣意は後記のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。


一、「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳出版と刑法175条

「チヤタレー夫人の恋人」は英文学界において名前が通つているCの長編小説であり、芸術的観点からして相当高く評価されている作品である。それは小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめるものがある。次にこの小説は思想、文明批評等に関する諸問題を含んでいる。これらの点において著者は一般的にいえば伝統的な、ことに英国において支配的な観念に対し反抗的革新的な自己の理想を卒直に表明している。
話の発端は第一次大戦において負傷し、性的機能を失つた若い貴族のクリツフオードとその妻コニーとの、中部イングランドラグビー邸における彼女にとつて不自然で退屈な生活である。そのうちにコニーとクリツフオードの雇人で、その領地内に住んでいる、妻と別居していたメラーズという森番の男との間に恋愛および肉体的関係が発生、発展し終に両人ともに社会的拘束をふり切り、離婚によつて不自然と思われる婚姻を清算して恋愛を基礎とする新生活に入ろうとする。これがこの小説の構造のあらましである。そしてこの構造は思想的、社会的、経済的の主題によつて肉附がなされているのである。それらは貴族階級の雰囲気に対する批判、工業化による美しい自然の破壊、農村の民衆の生活に及ぼす影響、鉱業労働者の悲惨な境遇、人心の荒廃、非人間化等の事実を指摘し、また著者自身が真に価値のある生活と認めるものおよび著者のもつ社会理想を暗示している。そしてその主題の中で全篇を一貫する最も重要なものは、性的欲望の完全な満足を第一義的のものとし、恋愛において人生の意義と人間の完成を認めるかのような人生哲学である。
かような人生哲学からして著者は彼の祖国のみならず他の国々においてもあまねく承認されているところの、性に関する伝統的な、彼のいわゆる清教的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新な倫理と秩序を提唱しているものであること本書の内容、著者自身の序文、その他の著書および原判決において引用するCの書翰からして推知できるのである。この点から見て本書がいわゆる春本とは類を異にするところの芸術的作品であることは、第一審判決および原判決も認めているところである。しかしながらCの提唱するような性秩序や世界観を肯定するか否かは、これ道徳、哲学、宗教、教育等の範域に属する問題であり、それが反道徳的、非教育的だという結論に到達したにしても、それだけを理由として現行法上その頒布、販売を処罰することはできない。これは言論および出版の自由の範囲内に属するものと認むべきである。問題は本書の中に刑法175条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれているかどうかにかかつている。もしそれが肯定されるならば、本書の頒布、販売行為は刑法175条が定めている犯罪に該当することになるのである。
しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。従来の大審院判例は「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており(例えば大正7年(れ)第1465号同年6月10日刑事第二部判決)、また最高裁判所の判決は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている(第一小法廷判決、最高裁判所刑事判例集5巻6号1026頁以下)。そして原審判決は右大審院および最高裁判所判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。
要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。
およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。
羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人聞または特定の社会において缺けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法175条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
しからば本被告事件において問題となつている「チヤタレー夫人の恋人」が刑法175条の猥褻文書に該当するか否か。これについて前提問題としてまず明瞭にしておかなければならないことは、この判断が法解釈すなわち法的価値判断に関係しており事実認定の問題でないということである。
本件において前掲著作の頒布、販売や翻訳者の協力の事実、発行の部数、態様、頒布販売の動機等は、あるいは犯罪の構成要件に、あるいはその情状に関係があるので証人調に適しているし、また著者の文学界における地位や著作の文学的評価については鑑定人の意見をきくのが有益または必要である。しかし著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である、問題の著作は現存しており、裁判所はただ法の解釈、適用をすればよいのである。このことは刑法各本条の個々の犯罪の構成要件に関する規定の解釈の場合と異るところがない。この故にこの著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。社会における個々の人について、また各審級の裁判官、同一審級における合議体を構成する各裁判官の間に必ずしも意見の一致が存すると限らない事実は、他の法解釈の場合と同材である。これは猥褻文書であるかどうかの判断の場合のみではなく、これを以て裁判所が社会通念の何たるかを判断する権限をもつことを否定し得ないのである。従つて本著作が猥褻文書にあたるかどうかの判断が一部の国民の見解と一致しないことがあつても止むを得ないところである。この場合に裁判官が良識に従い社会通念が何であるかを決定しなければならぬことは、すべての法解釈の場合と異るところがない。これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。これらの場合に裁判所が具体的の事件に直面して判断をなし、その集積が判例法となるのである。
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである。
さて本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。要するに本訳書の性的場面の描写は、社会通念上認容された限界を超えているものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法175条の猥褻文書と判定したことは正当であり、上告趣意が裁判所が社会通念を無視し、裁判官の独断によつて判定したものと攻撃するのは当を得ない。
次に本訳書の猥褻性の判定に関し2、3の点に立ち入つて説明する。
本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることは上述のごとくである。本書の芸術性はその全部についてばかりでなく、検察官が指摘した12箇所に及ぶ性的描写の部分についても認め得られないではない。しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。猥褻なものは真の芸術といえないというならば、また真の芸術は猥褻であり得ないというならば、それは概念の問題に帰着する。これは我々が悪法は法と認めることができるかどうかの問題と類似している。実定法の内容が倫理的に悪であり得るごとく、我々が普通に芸術的作品と認めるところのものでも猥褻性を有する場合があるのである。いわゆる春本の類はおおむねかような芸術性を欠いているから、芸術性を備えている本件訳書はこれを春本と認めることができないこと第一審以来判定されてきたところである。しかしそれが春本ではなく芸術的作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。何となれば芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではないからである。我々は作品の芸術性のみを強調して、これに関する道徳的、法的の観点からの批判を拒否するような芸術至上主義に賛成することができない。高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使命の遂行において、羞恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。
芸術性に関し以上述べたとほぼ同様のことは性に関する科学書や教育書に関しても認められ得る。しかし芸術的作品は客観的、冷静に記述されている科学書とことなつて、感覚や感情に訴えることが強いから、それが芸術的であることによつて猥褻性が解消しないのみか、かえつてこれにもとずく刺戟や興奮の程度を強めることがないとはいえない。
猥褻性の存否は純客観的に、つまり作品自体からして判断されなければならず、作者の主観的意図によつて影響さるべきものではない。弁護人は猥褻文書とは「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ未成年者をして恢復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」と定義し本件訳書が誠実性をもつていることを理由として、原判決を非難する。しかしこの定義によれば、いやしくも芸術的、学問的その他の意図を有する文書は極端に猥褻なものといえども猥褻文書から除外され、猥褻文書はいわゆる春本の類に限局されることになる。作品の誠実性必ずしもその猥褻性を解消するものとは限らない。従つてこの上告論旨は採用することができない。
次に論旨は本件訳書の出版が「警世的意図」に出たことを主張して、被告人等の犯意の成立を否定し以て原判決を攻撃する。
しかし刑法175条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものでない。かりに主観的には刑法175条の猥褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観的に猥褻性を有するならば、法律の錯誤として犯意を阻却しないものといわなければならない。猥褻性に関し完全な認識があつたか、未必の認識があつたのにとどまつていたか、または全く認識がなかつたかは刑法38条3項但書の情状の問題にすぎず、犯意の成立には関係がない。従つてこの趣旨を認める原判決は正当であり、論旨はこれを採ることを得ない。
論旨は猥褻文書たるためには未熟な未成年者のみの好奇心に触れるもので、未成年者に恢復しがたい心身の損失を招かしめるものであることを要するものとしている。猥褻文書の普及は未成年者の心身に悪影響を及ぼすから、その禁止は未成年者にとつて極めて重要な意義を有することもちろんである。しかし何が猥褻文書なるかの判定については、一定の読者層に対する影響のみを考えるべきでなく、広く社会一般の読者を対象として考慮に入れるべきである。論旨が読者層を未成年者のみに限局して論じているのは独断であつて採用することができない。


二、刑法一七五条と憲法二一条

上告趣意(弁護人環昌一)は次のように主張する。憲法21条の表現の自由の保障は無制限に近いものであり、かりに「公共の福祉」の名の下に制限できるにしても許否の判断の基礎が事前に明白でなければならない。従つて検閲制度が禁止された新憲法の下では「公共の福祉」に反するか否かは各人の自主的判断に委ねられなければならない。ところが原判決は本件訳書に対する自主的判断の誤を取り上げて被告人等を処罰したから、憲法21条に違反する、と。しかし本件訳書の許否についての判断の基礎は一般社会において行われている良識または社会通念として存在しているから、事前に不明白であるとはいい得ない。また公共の福祉に反するか否かは、客観的に判断すべきものであり、各人の自主的判断に委ねられるべきものではない。この故に論旨はこれを採用することができない。
上告趣意(弁護人環直彌)は、憲法21条の保障する表現の自由が他の基本的人権に関する憲法22条、29条の場合のように制限の可能性が明示されていないから、絶対無制限であり、公共の福祉によつても制限できないものと主張する。しかしながら憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法12条、13条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである(昭和22年(れ)第19号同23年3月12日大法廷判決、昭和23年(れ)第743号同年12月27日大法廷判決、昭和24年新(れ)第423号同25年10月11日大法廷判決、とくに憲法21条に関するものとしては昭和23年(れ)第1308号同24年5月18日大法廷判決、昭和24年(れ)第2591号同25年9月27日大法廷判決、昭和25年(ク)第141号同26年4月4日大法廷判決、昭和24年(れ)第498号同27年1月9日大法廷判決、昭和25年(あ)第2505号同27年8月6日大法廷判決)。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。そして性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当であり、論旨は理由がない。また論旨は、右に述べた立場から、刑法175条の適用を受ける場合があるとするならば、あらゆる立場から見て有害無益な場合例えば春本類に限るべきものとするが、その理由がないこと前に述べたごとくである。
上告趣意(弁護人正木旲)は、基本的人権の尊重の面のみから公共の福祉を観念し、また本書が性の問題を真面目に取り扱つているから公共の福祉に適合するものとなし、これについて刑法175条の罪の成立を認めた原判決を攻撃する。しかしこれは基本的人権が無制限でなく、公共の福祉によつて制限されることに関し前掲判例と異つた独自の見解に立つものである。また本件訳書が誠実性を備え、内容的に見て公共の福祉に適合するものをもつていても、それは猥褻性を相殺解消するものではない。この故に論旨は理由がない。
上告趣意(弁護人正木旲)は旧憲法下における出版法が廃止され、同法27条の「風俗を壊乱する文書、図画」が現在処罰の対象となつていないことを援用して原判決を非難する。上告趣意の主張のごとく、以前には出版法が存在し、風俗壊乱文書を処罰し、そしてその中にふくまれる猥褻文書の出版に関しては出版法に準拠し、刑法175条の適用が排除されていたことはこれを認めることができる。それは猥褻文書に関してこの二法が特別法と普通法の関係にあることによるものである。しかし特別法たる出版法が廃止されている現在の状態の下では猥褻文書の出版は刑法175条の適用を受けるにいたつたものと認めなければならない。従つて論旨は理由がない。
上告趣意(弁護人環昌一)は憲法21条が検閲を禁止していることを援用して、何が公共の福祉の名の下に許されないかは事前に知ることができず、被告人等の自主的判断に委ねられているのに、その判断の誤りを取り上げて被告人等を処罰した原判決は憲法21条に違反するものと主張する。しかし憲法によつて事前の検閲が禁止されることになつたからといつて、猥褻文書の頒布販売もまた禁止できなくなつたと推論することはできない。猥褻文書の禁止が公共の福祉に適合するものであること明かであることおよび何が猥褻文書であるかについても社会通念で判断できるものである以上、原判決には所論のごとき憲法違反は存在しない。


三、憲法76条3項と原判決

上告趣意(弁護入正木旲)は原判決理由が故意に論理の法則を無視逸脱してなされた不正な判断にもとずく非良心的のものであるとして、原判決の憲法76条3項違反を主張する。しかし同条の裁判官が良心に従うというのは裁判官が有形無形の外部の圧迫ないし誘惑に屈しないで自己の内心の良識と道徳感に従う意味であることは判例(昭和22年(れ)第337号同23年11月17日大法廷判決)の認めているところである。所論は結局原判決が弁護人の見解と異るものがあることを以て、原審裁判官を非良心的と非難するに帰着する。従つて所論憲法76条3項違反の主張はもとより、これを前提としたその他の違憲の主張もすべて理由のないものといわなければならない。
よつて刑訴408条により主文のとおり判決する。
この判決は裁判官真野毅、同小林俊三の後記各意見のあるほか裁判官全員一致の意見である。



本件に関する裁判官真野毅の意見は、つぎのとおりである。
第一 Bの上告に関する多数意見の結論及び左記を除く理由にも大体賛成である。
本件では、本訳書が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかが、最も主要な問題となつている。わたくしは、本来猥褻であるかどうかは、絶対的なものでもなく、不変不動のものでもなく、時代と民族と社会の風俗、習慣、伝統、道徳、民族意識、民族感情、宗教、教育等の相違によつて異なり、また次第に歴史的の変化を重ねていくものであると考える。裁判上からいつてもそれは結局、裁判官が社会通念と認めるところに従つて判定しなければならぬ問題であり、そしてその社会通念は基盤たる社会の推移変遷によつて変化せざるをえないものである。それ故、猥褻であるかどうかは、その必然の結果として時と所とによつて異り、流動し変転すべき概念であることは、多言を要しないはずのものである。しかるに、多数意見は恰も時と所とにより変化する猥褻と時と所を超越して変化することのない猥褻の二段階ないし二類型があるかのような表現をし、その上本訳書の描写はその後者に属するかのような表現をしている点は、非科学的であつて、とうてい賛同することができない。
わが国の古典である古事記日本書紀万葉集風土記等に現われる上代結婚の風俗習慣として、男女が配偶者を選ぶ方法は、はなはだ自由なものであつて、後代封建制度の下における堅苦しい選定の様式とは全く相反するのであつた。ことにその上代の歌垣またはかがいという習俗においては、多数の青年男女の集団が手を携えて平常神聖視している山などに登り、そこでは飲食、歌舞、音曲を共にし、歓楽の興趣きわまるところ、性行為の実行が公然としかも集団的に行われエクスタシーの境に入つたということである。この行事には未婚の男女ばかりでなく既婚の男女も参加したという。万葉集では歌垣について「かがふかがひに人妻に吾も交らむ。わが妻に人も言問え。」とまで歌われている。だがこれは、聖域において神に許されたものとして行われる春秋などの行事であつて、今日の単なるエロとか猥褻とかの感覚で律すべきものではなく、これを超えた当時の集団感情・集団意識にもとづく結婚習俗の一端を示すと共に、他面において宗教感情的農業的祭典の色彩が濃厚であるように思われる。ことごとしく諸外国の事例を挙げるまでもなく、ただこの一事によつても、多数意見のごとく時代と民族を超越した絶対的の猥褻の限界を設けようとする考え方は、厳然たる歴史的事実を無視した観念論たるのそしりを免れえざるものである。のみならず、それは本件の判断には全く必要のない議論といわなければならぬ。わたくしの見解では、猥褻であるかどうかは、常にその社会のその時代における相対的な社会通念を規準として判断すべきものと考えるのである。米国における同種の事件において、ハンド判事は、羞恥心が末永く、人間性の最も大事で美しい面を十分描写することを妨げるだろうなどということは、実際ありうべからざることの様に思われるといつているのは注目の値いがある。
1923年9月12日ジユネーブにおいて締結された猥褻出版物の流布及び取引の禁止のための国際条約を、修正する1947年11月12日附議定書によれば、猥褻なる字句の定義を国際的に定めるかどうかが問題となつたが、各国の風俗、道徳標準、民族意識等の相違により猥褻の定義を国際的に定めることを困難かつ不必要であるとした。これによつても時代と民族と社会を超越した固定不動な猥褻はありえないことを理解する一助となるであろう。
総じて性に関する考え方、思想、感覚、感情等は、外部社会の変動につれ個人的にも社会的にも変化を生ずる。その変化は、あるいは急転歩に、あるいは徐々に運ばれるが、固定するものではない。ことに世界が狭くなり、また一層そうなつていく傾向にある現代においては、異る民族・社会の習俗が相触れ相交渉し互に影響し合う機会が著しくしげくなると共に、性に関する科学等の探究は日進月歩に行われているのであるから、性に関する社会的変化は、歴史的見地からいつて昔の時代とは比較にならない短かい年月の間にも実現され得る可能性があるように考えられる。
次に、本件におけるようないわゆる文芸訴訟(リテラツール・プロチエス)において、文学的・芸術的の主張、思想、価値、誠実性がある場合においては、猥褻性が減殺され、浄化され、醇化され、払拭されることがありうるのであつて、考慮すべき重要な因子とは認められるが、常に決定的にそうあるべきわけのものではない。そこで、本訳書のいわゆるホツト・パートである性交の場面の描写表現の程度は、性的感覚の露出が過度であつてわが国現時の社会通念に照らして判断すると、これをも寛容に包容し得る社会の現状とは認められず、猥褻の法解釈たる定義に掲ぐる事柄に該当し、本訳書は猥褻文書と判断するを相当とする。
なお、多数意見に賛成しがたい2、3の点について述べる必要を感ずる。
多数意見は、「しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていづれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。」と説く。そして、その前に述べたというのは、羞恥感情は、「人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも、性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。」といつているに過ぎない。だから、いうところの「性行為の非公然性」とは、性行為を公然と実行しないというだけの意義を有するに過ぎないものである。「性行為の非公然性の原則」というといかにもいかめしく聞えるが、その中味はただこれだけのことである。多数意見は、一方において性一般に関する社会通念は、「時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷がある」ことを認めつつ、他方において社会通念の変化では「超ゆべからざる限界」として、時代と民族と社会を超越した普遍の規範たる「性行為の非公然性の原則」があるというのである。
そしてこの前提に立つて多数意見は、「本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する12箇所に及ぶ性的場面の描写は、……相当大胆、微細、かつ写実的である。それは性行為の非公然性の原則に反し」たものであるとしている。しかし、わたくしをして言わしむれば、かような判断は、前後を弁まえない極めて非論理的なもの以外の何物でもない。
多数意見が前提として説いている「性行為の非公然性の原則」とは、すでに触れたように性行為を公然と実行しないというだけの意義に過ぎないから、性行為の非公然性の原則に反するとは、性行為を公然と実行するということに帰着する。(本訳書はもとより生き物ではないから、公然であろうと秘密であろうと、訳書そのものが性行為を実行することはありえないことである。)本訳書の性的場面の描写は、性行為を公然と実行している場面をえがいたものではない。この意味においてはどこにも、性行為の非公然性の原則に反すかどはないはずである。
また多数意見は前段において、性行為の非公然性の原則は、時と所と社会によつて変化することのない普遍の規範だというのであるから、本訳書の性的場面の描写が性行為の非公然性の原則に反するということは、とりもなおさず時と所と社会によつて変化することのない普遍の規範に反するということになる。一体そんな極端なことがどうして言えるのか、わたくしには全く理解することができない。現にフランスでは、原著やその完訳が出版されており、またイタリヤでは原著が、ドイツではその完訳が出版されておる。手近い話が、本件の第一審で証人となつたD、E、F、G、H、I、J、K、L、Mの10人は、猥褻文書でないとし、N、O、P、Q、R、Sの6人は、猥褻文書であるかどうか明らかでないとし、T、U、V、W、X、Y、Z、Aaの8人は、猥褻文書であるとしている程度のものである。わたくしは、多数意見が本訳書の描写をもつて時代と民族を超えて変化することのない猥褻性をもつかのごとき表現をしている部分は削除すべきであると考える。
次に多数意見は、「著作自体が刑法175条の猥褻文書にあたるかどうかの判断は、当該著作についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である」と言いその後にも数箇所で法解釈と言つて言るが、これもはなはだ耳障りな表現である。
本件に即していえば、刑法175条は「猥褻ノ文書……ヲ財売シ……タル者」を処罰するのである。そして本件では「猥褻」の意義が当面の問題となり、判決では、同条の猥褻とは、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」として、その意義内容を明らかにしている。ここまでが法解釈の問題である。
そこで著作の描写自体が、かように法解釈で明らかにされた事柄に該当するかどうかを判断し、従つて猥褻文書に該当するかどうかを判断するには、証人その他の証拠によることを要せず、裁判官の法的価値判断によつてなさるべきものである。それ故、著作自体が猥褻文書にあたるかどうかの判断は、具体的事実に法律を当てはめる法律適用の問題であつて、多数意見のように法解釈の問題というべき性質のものではない。法律解釈と法律適用とは、裁判上の作用として性質を異にし、両者を区別することは大切である(民訴394条、刑訴405条1号、406条参照)。ただ法律解釈と法律適用とは互に関連する作用であるから、時に両者を包括して広義において法律適用という場合がある。例えば刑訴380条において「法令の適用に誤があつて」というのは、法令の解釈または狭義の法令の適用に誤がある両者を含んでいる。しかし、その反対に法律解釈という言葉の中に法律適用をも含ましめることはあり得ないことであるし、またないのである。また「法令の違背」または「法令の違反」という言葉を用いて、法令の解釈または法令の適用の誤の両者を含ましめている場合がある(民訴394条、刑訴458条、旧刑訴409条、520条参照)。非常上告の場合にも「法令の違反」という言葉を用いており、これについて法律解釈の誤りだけであつて法令適用の誤は含まないと解した大法廷判決がある(判例集6巻4号685頁)。わたくしは、当時少数意見として詳細にその不当なることを述べ、その後多くの支持を得たが、かかる事例に徴しても、法律の解釈と法律の適用とについて常に明確な認識をもつことが必要であると考える。それ故、前述のように本件で法解釈の問題とした多数意見をそのまま承認することは出来ない。
一般的にいつて、猥褻の法律上の意義内容を明らかにする正確な解釈を打ち立てることは、はなはだ困難な仕事であるが、それをいかように定義を定めてみたところで、さて問題となつた具体的の描写が、その定義として解釈された事柄に該当するかどうかの第二次の判断は、裁判官に負わされた一層困難な仕事である。というのは、裁判官が個人としての純主観によつて判断すべきものではなくして、正常の健全な社会人の良識という立場にたつ社会通念によつて客観性をもつて裁判官が判断すべきものである。純主観性でもなく、純客観性(事実認定におけるがごとく)でもなく、裁判官のいわば主観的客観性によつて判断さるべき事柄である。多数意見は、「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。」といつている。これは一つの本事件に関するばかりでなく、すべての事件に通ずる裁判の使命ないし裁判官の心構えに触れている点においてすこぶる重要な意義がある。法律上真に猥褻と認められるものに対し、裁判上猥褻なものとして処理することは当然すぎるほど当然な事柄であるが、それ以外の「社会を道徳的頽廃から守らなければならない」とか、「病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬ」とかいつた物の考え方は、裁判の道としては邪道である、とわたくしは常日頃思い巡らしている。裁判官は、ただ法を忠実に、冷静に、公正に解釈・適用することを使命とする。これが裁判官として採るべき最も重要な本格的の態度である。憲法で、裁判官は法律に拘束されるといつているのはこのことである。しかるに、前記のごとく道徳ないし良風美俗の守護者をもつて任ずるような妙に気負つた心組で裁判をすることになれば、本来裁判のような客観性を尊重すべき多くの場合に法以外の目的観からする個人的の偏つた独断や安易の直観により、個人差の多い純主観性ないし強度の主観性をもつて、事件を処理する結果に陥り易い弊害を伴うに至るであろう。思想・道徳・風俗に関連をもつ事件においてことに然りであることを痛感することがある。またこの邪道は、被告人の基本的人権の擁護に万全の配慮をしなければならぬ刑事事件において、却つて取締の必要を強調して法を運用しようとし、時に罪刑法定主義の原則を無視ないし軽視するに至る他の邪道にも通ずることを篤と留意しなければならぬ(判例集4巻1988頁、同7巻7号1591頁以下参照)。
第二 Aの上告に関しては多数意見の結論に反対である。同人に関する原判決には左記の重大な違法があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反することが明らかであるから、職権をもつて刑訴411条1号により原判決を破棄し、上告趣意を判断するまでもなく原審に差し戻すを相当とする。
第一審判決が犯罪事実の存在を確定せず、犯罪の証明なしとして無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が右判決を破棄し、何等事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴400条但書の解釈として許されないところである。そしてこれは、すでに大法廷判決が数次にわたり示したところのものである(昭和31年7月18日判決、判例集10巻7号1147頁、同年9月26日判決、判例集10巻9号1393頁)。この判例の理由とするところは、起訴の罪責なしとした第一審の「判決に対し検察官から控訴の申立があり、事件が控訴審に係属しても被告人等は、憲法31条、37条の保障する権利は有しており、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用を受けるものといわなければならない。従つて被告人等は公開の法廷において、その面前で、適法な証拠調の手続が行われ、被告人等がこれに対する意見弁解を述べる機会を与えられた上でなければ、犯罪事実を確定され有罪の判決を言渡されることのない権利を有するものといわなければならない。それゆえ本件の如く第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言渡した場合に、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、訴訟記録並びに第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、直ちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、被告人の前記憲法上の権利を害し、直接審理主義、口頭弁論主義の原則を害することになるから、かかる場合には刑訴400条但書の規定によることは許されないものと解さなければならない」というにある。
そして同判決においては、その結びにおいてわざわざ「そして刑訴400条但書に関する従来の判例は右解釈に反する限度においてこれを変更するものである」と断わつている。この刑訴400条但書の解釈と憲法31条等との関係は、随分以前から話題になつていた問題であるが、例のAb事件を契機としてその後においても一層深い考察が加えられ、その結果控訴審における新らしき犯罪事実の認定については、従来の判例態度を変更して前記のような大法廷の判例が確立されるに至つたのである。
ところで本件においてAは、第一審では無罪とせられ同人に対して有罪事実の認定はなかつた。第一審判決の事実認定の中には、「Bは……Cの著作なる「チヤタレー夫人の恋人」の翻訳出版を企図し、Aに之れが翻訳を依頼しその日本訳を得た」旨の記載はあるが、原判決では翻訳者の協力の態様は種々のものがあり、協力の程度いかんによつては幇助犯が成立する場合もあり、共同正犯の成立する場合もありとした。そして原判決は、何等事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで、Aに共同正犯の成立する事実認定をしたものである。この点において本件は、まさにぴつたりと前記大法廷判決の場合と同様であつて、刑訴400条但書に違反する違法があるから、原判決はこの点において破棄さるべきものである。
さらに、Aは第一審においては無罪、第二審においては罰金10万円に処せられたことは明らかであるから、左記理由によりても原判決は破棄さるべきである。
わたくしは、一審よりも重い刑を新らしく量定する場合についても、前記大法廷の判決と全く同様の理由によつて、同様の結論に達すべきものと思う。すなわち、控訴裁判所が第一審判決を破棄し、何等の事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠だけで直ちに被告事件について第一審の刑よりも重い刑を言い渡すことは、刑訴400条但書の解釈として許されないものと考える。
しかるに、同じ7月18日に言渡された別件の大法廷判決(判例集10巻7号1177頁)における多数意見は、第一審の執行猶予の判決を破棄して控訴審実刑を科した事件につき、「控訴審が検察官からの第一審判決の量刑は不当であるとの控訴趣意に基き第一審判決の量刑の当不当を審査するにあたつては、常に控訴審自ら事実の取調をしなければならないものではなく、訴訟記録及び第一審に於て取り調べた証拠によつてその量刑の不当なことが認められるときは、控訴審は自ら事実の取調をしないで、第一審判決の刑より重い刑を言渡しても刑訴400条但書の解釈を誤つたものということはできない」と判示している。冒頭にかかげた新らしい有罪事実の認定に関する大法廷判決は、詳細に理由を述べているのに反し、量刑に関するこの判決はこのように極めて簡単であつて、何故に有罪事実の認定と刑の量定について取扱を異にしなければならないかの理由に関しては、黙して何も語つていない。だから格別取り押さえどころはない。がわたくしは、この判決は前者の判決に詳細に語られている理由そのものと明らかに矛盾する大きな欠陥があると考える。
冒頭の有罪事実の認定に関する判決の理由は、要約すると控訴審においても被告人は憲法31条、37条の権利を有し、その審判は第一審の場合と同様の公判廷における直接審理主義、口頭弁論主義の原則の適用をうけるというにある。憲法31条は「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めている。同条は科刑に関し適正手続すなわち現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義等による審理手続を保障したものである。言いかえると、この保障は科刑(ペナルテイ)に対して与えられたものである。そこで裁判上「刑罰を科する」には、一面において有罪事実を認定し、他面において刑を量定することが必要である。この事実認定と量刑とは、科刑の両翼をなすものであつて、その一方だけで科刑ということは有りえない。(稀には判決において有罪事実の認定がなされておりながら、量刑がなされていない場合がある。これは真の科刑というものではない。例えば、かのAc事件の第二審判決は、有罪事実を認定した上で、大赦を理由として被告人を免訴している、判例集2巻6号607頁。)憲法31条は、明文の示すとおり科刑に対する保障である以上、科刑の両翼たる事実認定と量刑とは共に、同条の保障を受けるが当然である。されば事実認定について同条の保障あることを詳しく説明した冒頭判決の理由は、量刑についても妥当するものといわなければならぬ。
あるいは、事実認定の問題は重いが、量刑の問題は軽いと考えるものがあるかも知れない。なるほど有罪事実の認定がまずなされて、次に刑の量定の必要が起つて来る。有罪事実の認定がなければ、量刑の問題は起らない。ただこのことから、事実認定の方は重要であつて憲法31条の保障をうけるが、量刑の方は軽いから同条の保障をうけないと速断して差別的取扱をすべきものではない。これは全く観念論的な物の考え方である。よくつぶさに脚下を照らしてあまねく現実を見るがよい。有罪となる被告人は、無罪となる被告人に比しいかに圧倒的に多いか、また公判廷において起訴事実を素直に認める被告人は、これを否認して争う被告人に比しいかに多数であるかは、東西の司法統計資料が常に極めて雄弁に物語つているところである。これによつても被告人の大多数のものにとつて裁判上の重大関心事は、事実認定の問題ではなく、実はむしろ量刑の問題に帰するのである。だから、量刑の問題こそは、裁判の実際において最も多く考慮が払われなければならぬのが現実というものである。この現実に立てば、事実認定が憲法31条の保障をうけるだけで、量刑が同様の保障をうけないような片翼的な偏つた司法の運営では、国民の基本的人権は十分に保護されるとは言いえない。例えば、スリの犯罪事実を控訴審で新たに認定するには書面審理では許されないが、Ab事件のように一審の無期懲役控訴審で死刑に変更するには書面審理だけで許されるというのであつては、すこぶる不権衡な取扱方であつて、人権の保障にははなはだ事欠ける憾みがあるといわなければならぬ。
ここにまた、事実認定と量刑の取扱に差別をおく理由づけとして、事実認定は、真実の探究であつて裁量の余地のない事柄であるが、量刑は裁量が広く許される事柄であるとする見解があるが、これには賛同できない。この見解には二つの点の欠陥がある。(一)一つは、事実認定は裁量の余地のない事柄だとする点であり、(二)他の一つは、量刑は裁量であるから常に違法の問題は生じないと考える点である。
しかし、(イ)事実認定もまた裁量によるものであり、(ロ)量刑は裁量ではあるが、二審で重く科刑する場合には憲法31条の要請によつて直接審理主義、口頭弁論主義の手続を通して量刑の裁量がなされることを要し、これに違反すればその裁量のやり方が違法となるわけである。この関係をすこし詳しく述べてみたい。犯罪事実の認定は、歴史的事実としての真実の探究・発見にあることはもちろんであるが、このことから直ちに事実認定は、「裁量の余地のない事柄」であると速断することはできない。科学的な正確な方法で例えば精密機械の操作によつて過去(一定の近い過去でもよいが)の歴史的事実を的確・自由に再現しうるよう人知が進歩しない限り、そして現行の裁判官による証拠裁判の手続でいく限り、人的証拠であれ物的証拠であれ証拠能力の問題は別として、その証拠価値は価値判断の対象として結局(経験則違反の問題を生じない場合には)裁判官の裁量にまかされることとならざるをえない。かように証拠の価値判断が裁判官の裁量にまかされている以上、いわゆる証拠裁判すなわち証拠の価値判断に基づき証拠の取捨選択をすることによつて真実として発見される事実認定そのものもまた究極において裁判官の裁量にまかされているのである。一般に事実の認定は、事実審裁判官の専権に属するといわれているのは、この意義を有するものである。事実の認定は、真実の探究であつて裁量の余地のない事柄であるという見解は、目的と手段を混同した議論である。事実の認定は、真実の発見を第一義の目的とする。しかし、この目的を達成するための手段としては、証拠によることを要し、証拠を取捨選択するには証拠の価値判断をすることを要し、証拠の価値判断は結局裁判官の裁量によることを要する。現時の証拠裁判制の下においては、証拠能力の法規と経験則に反せざる限り、事実認定は、すべて裁判官の裁量にまかされていることは明白である。
次に、刑の量定もまた同様に、原則として裁判官の裁量にまかされている。事実の認定と刑の量定はもとより目標を異にするが、手段として裁量によることは同一であるのみならず、その裁量は証拠の価値判断を基本とすることも同様である。(ただ現行刑訴法の上では有罪事実認定の証拠は判決にかかげることを要するが、量刑の証拠はその必要がないとされている差があるだけのことである。)そして事実の認定についても、刑の量定についても、裁判官の裁量は、現代刑事訴訟の基本原則である口頭弁論主義、直接審理主義をとおしての上の証拠の価値判断を基本とすべきものであつて、原則として単なる書面審理による証拠の価値判断を基本として裁量することは許されていない。憲法31条は、まさにこの意義を含むものであつて、人類多年の努力と経験によつて確立せられた現代刑事訴訟の基本原則である直接審理主義、口頭弁論主義は憲法においても保障するところであり、かかる適正手続によらなければ刑罰を科せられないことが基本的人権として保障されているものと解すべきである。直接審理主義、口頭弁論主義による証拠の価値判断と単なる書面審理によるそれとは往々にして異る。一例をあげれば、直接審理主義、口頭弁論主義をとおして証人尋問をした裁判官は、証言の内容の外に証人の顔色、目色、音声、表情の変化、発言の態度などについても直接仔細に観察することができる立場にあつて、これらを総合して陳述内容の価値判断をするのであるから、いかに証言の内容が秩序整然として外観上一糸乱れぬものであつても、端的に偽証を観破しその証言の証拠価値を認めないこともあるであろう。またこれと反対に、証言の内容は、尋問に応じ幾変転しているが、それは当初の記憶の不明確なことによるものであつて、尋問の進め方で徐々に記憶を喚びさまし、最後の陳述が真実に合するものとしてこれに十分な証拠価値を認めることもあるであろう。この場合裁判官は生きた証言を聞いて心証を形成することになる。ところが、控訴審で書面審理だけで証拠の価値判断をするとしたら、裁判官は紙の上の死んだ証言を眺めて心証を形成する外はないから、前者の調書上秩序整然たるものに証拠価値を認め、後者の調書上供述の変転したものに証拠価値を認めないこともあるであろう。ここに人類の知恵として裁判殊に刑事裁判における直接審理主義、口頭弁論主義の必要性が強調せらるべき根本理由が存するわけである。



裁判官小林俊三の補足意見は次のとおりである。
私は多数意見に同調するものであるが、ただ私は、原審の審判手続に違法の部分があると信ずるところ、前記判示にはなんらこの点にふれるところがなく、誤解を受けるおそれがあるから、私かぎりの意見を附け加えたい。
原審の審判手続は、被告人Aに関するかぎりは違法である。すなわち右被告人に対し、第一審は無罪を言い渡したのであるが、控訴審は、その審理に当り、なんら事実の取調をすることなく、被告人の意見弁解もきかないで、単にいわゆる書面審理のみにより、破棄自判の有罪判決を言い渡したのであつて、このような手続は、二審においてはじめて被告人を有罪とする審判としては、刑訴法上許されないものであり、後記の大法廷判例の趣旨にも反するものであると信ずる。しかるに上告趣意はなんらこの点に関し主張するところがない。してみれば前記多数意見がこの点にふれなかつたのは、必しも原審の手続を是認したものではなく、特に判断する必要はないと認めたのかもしれない。しかし私見によれば原審の手続には前記ような重要な違反があるから、職権(刑訴411条)でこの問題を取り上げ、結論が前記主文に帰するにせよ、その判断を示すべきであつたと考える。
まず、多数意見の含むところが、仮りに、前提として原審の手続を是認する見解に立つものとすれば、それは、本件において被告人の所為を有罪とするに足りる罪となるべき事実は、一審においてすでに客観的には確定しているから、二審がその確定した事実によつて有罪と認めるならば、いわゆる書面審理のみによつて有罪判決を言い渡すことは違法でなく、後記大法廷の判例は本件のような場合を含まないという趣旨であるかもしれない。しかし私は、一審が被告人を無罪とした場合は、その事実認定がいかなる段階に達していたとしても、刑事審判における有罪判決の最少限度の要件たる「厳格な証明」を経た「罪となるべき事実」としては確定したと見ることはできないと解するものである。仮りに、一審の無罪判決が、単に刑罰法規の解釈または適用の誤りに因つて生じ、被告人の所為は単なる一個の客観的事実にすぎないと認められるような場合は、見方によつては、一審でその「客観的事実」は確定しているといえるかも知れない。しかし私見によればかかる場合でも「罪となるべき事実」は決して確定しているものではない。人の行為は、単なる外界の事実とは異なつてすべて人の意思に関連するものであり、特に本件において原審は、一審と見解を異にする「犯意」の存在を要求しているのであるから、この事実認定には、改めて独自の厳格な証明の過程を経なければならないことは当然の理である(この点後記)。そして裁判所は、罪となるべき事実の外形的存在を認めた後も、なお違法性阻却事由等につき審理を遂げ、あらゆる駄目を押した上、最後に情状を取り調べ、ここにはじめて具体的な処断刑をもつてする有罪判決を言い渡すのであるから、本件のように一審が、すでにA被告について公訴事実の成立を否定した場合は、違法性阻却事由等についてなんら審理考究をしなかつたであろうことが当然推認される。しかるにもし二審で有罪判決をする場合にかぎり、これらの問題を一切究明することなく書面審理のみによつてなすことができると解すると、結局これらの点を究明しない刑事審判や審級の存在を是認することとなり背理なるこというをまたない。
本件において原審は、一審の見解を誤りとして否定し、本件訳書自体を刑法175条にいうわいせつ文書に当ると断定するとともに、被告人Aについて、わいせつ文書販売罪の成立を認めるに必要な犯意は、本件訳書に判示の性的描写の記載が存在すること及びこれを出版販売することの認識あるをもつて足りるとし、一審で取り調べた本件記録中に存する証拠を引用して、A被告に本件犯罪の成立に必要な犯意に欠けるところはなく、また被告人Bと共同加功の意思及び行為の分担のあつたことを認定するに妨げるものでないと判断したのである。しかし一審判決は、本件訳書は、本質上わいせつ文書とはいえないが、ある関係においてわいせつ文書となるという見解の下に、A被告について「前叙の如き環境を利用釀成して為されたことについては法律上加功しなかつたものと解すべく、刑法上共犯と目することは出来ない」としたのであるから、原審が本件犯罪の成立に必要とする犯意とは法律上その性質を異にし、従つて原審の要求する「罪となるべき事実」について事実認定を行つたものではない。もちろん当事者も客観的事実も同じであるから、事実の個々の部分に互いに競合するところのあるのは当然であるが、事は、原審が新たに要求する犯意の認定の問題であり、その存否によつて原審として独自の有罪か無罪を決定するのであるから、原審は、自ら要求する犯意の成立について独自の事実の取調を行い、その事実認定の上に立つてはじめて有罪判決を言い渡すことができるのである。一審において全く要件を異にする「罪となるべき事実」を取り調べた結果、その事実なしとして無罪を言い渡した審判の余り物ともいうべき事実を利用し、二審の有罪判決の基礎とするのは、人の行為としての罪となるべき事実を外界の事実と同一視するのそしりを免れないであろう。後記当裁判所大法廷の判例にいう第一審無罪の判決に対する第二審は、自から事実の取調をしないで破棄自判によつて有罪の判決を言い渡すことはできないとする趣旨には、本件のような場合をも含むこともちろんであつて、これを例外と解すべきなんの根拠もないと信ずる。従つて原判決は大法廷の判例の趣旨にも反するものと解すべきである。(昭和26年(あ)第2436号同31年7月18日判決、集10巻7号1147頁。昭和27年(あ)第5877号同31年9月26日判決、集10巻9号1391頁各参照)。
なお、前記のほか、原審の手続は量刑に関して否定し得ない違法を含むことを指摘して置きたい。一審は、被告人Aに関する限り、同人を無罪と認めたのであるから、被告人の情状について全く審理をしなかつたのは当然であり、またその必要はなかつたのである。しかるに原審は、わいせつ文書並にわいせつ文書販売罪の成立について一審と異なる見解をとりながら、一審で取り調べた書面上の資料のみに基いて被告人に有罪を言い渡したのであつて、二審としては、被告人の情状につきなんの事実調も行わず、被告人本人の意見弁解すらきかなかつたのである。加うるに二審は、本件訳書は本来わいせつ文書であるから、これと異なる見解に立つ一審は、すでに前提において事実誤認があると判示し、また本件訳書がわいせつ文書に当るかどうかの認識は、A被告の犯罪の成否には関係がないが、情状の軽重には関係がありとし、一審はこの点についても、結論において判決に影響を及ぼすべき事実誤認があると判示しながら、しかも自から何の事実調も行わず書面上の資料のみによつて被告人Aは、本件訳書がわいせつ文書たることにつき未必的認識を有していたという情状を重からしめる決定的な事実を認定したのである。二審で有罪判決をする場合にかぎり、情状についてこのような独断が許されると解すべき根拠は全く考えられない。そしてまた情状というものが、記録に存する資料である程度の判断をなしうることは否定しないが、もつとも重要なことは、裁判をする裁判官自身が、その耳目によつて被告人本人から直接意見弁解を聴き、現実な生な心証を形成することであつて、直接口頭審理主義の意義もここにあるのである。もし二審で有罪判決をする場合にかぎり、情状の取調は書面上の資料で足りるという見解に立つと、前示のように一審で全く情状を取り調べなかつた場合もあるから、勢いこのような二審は、なんら情状の取り調をしないで有罪判決ができるという結論になることを是認しなければなるまい。非理なること論をまたないであろう。この非理を正当とするために、あるいは二審が事後審であるという名を掲げ、あるいは二審の裁判官は、書面上の資料によつて十分に情状を判断しうるというがごときは、手続を簡易にするために刑訴の主要な原則を犠牲にすることであり、また二審の裁判官の判断力に理由なき特段の優性を擬制することであり、独善であるというのほかなく、遡れば憲法31条の保障を受けないで刑罰を科せられる刑事審判のあることを是認することにならざるを得ない。
以上のとおり原審の手続は違法であるが、前述のように被告人も弁護人も上告趣意においてなんらこの点を非難する主張をしていない。してみれば被告人はこれらの点について不服がないものと認めなければならない。私見によれば、前記の違法は、大法廷の判例にも反するから、職権(刑訴411条)をもつてこの点をとり上げ、判断を示すのを相当とするところ、右上告趣意の態度と原判決の判示するところにかんがみるときは、結論としては、原判決を破棄しないでも著しく正義に反するものとは認められないと考える。よつて上告棄却の主文に同調するものである。
なお昭和29年6月8日第三小法廷判決(判例集8巻6号821頁)。昭和30年6月22日大法廷判決(判例集9巻8号1219頁)に掲げた私の意見をここに引用する。

  昭和三二年三月一三日
     最高裁判所大法廷
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎
            裁判官    真   野       殴
            裁判官    小   谷   勝   重
            裁判官    島           保
            裁判官    斎   藤   悠   輔
            裁判官    藤   田   八   郎
            裁判官    河   村   又   介
            裁判官    小   林   俊   三
            裁判官    入   江   俊   郎
            裁判官    池   田       克
            裁判官    垂   水   克   己
 裁判官 本村善太郎は退官につき署名押印することができない。
         裁判長裁判官    田   中   耕 太 郎