ルーマンとデリダ・続き
' Gibt es eigentlich den Berliner Zoo noch?'. Erinnerungen an Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Uvk Univers.-Vlg Konstanz
- 発売日: 1999/11
- メディア: ペーパーバック
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前回はセミナーが始まる前の様子まででした。今回はその続きで、二人の報告内容とやり取りです。以下、ぼくの好みでreferenceは参照、operationは演算と訳していますが、それぞれ言及・準拠、および作動と読み換えてもらっても結構です。
ルーマンは最初に、批判的なコメンテータというのは、自ら盲点を用いて他人を観察するものであるが、自分はあまりそういう役割を演じる習慣がなく、自分の目標は自分が身軽に動けるシステムをつくりあげることだといいました。その上で、自己参照、区別、選択、演算構造、不安定性といった、彼のシステム理論の主要概念について解説しました。演算同士を結びつける媒体として時間概念が導入され、また演算が可能であるためには選択のメカニズムが必要であるとのことでした。システムの内部ではあらゆるものが同時に存在するため、システムには完全な自己制御が不可能です。システムに可能なのは、現在の時点と、過去の出来事や将来可能な出来事を同期化することだけです。この種の演算が可能であるためには、要素が厳密な同一性を持っているわけにはいきません。それでも、「同一性の想定」はなお可能であるが、そのためには、やはり圧縮と同定が必要であるとのことでした。
ルーマンはデリダの「差延」概念を、時点化された区別とみなすことによって自分の理論に取り込もうとしましたが、報告の最後には、普遍理論と呼ぶべき候補には二つあって、それは記号論とシステム理論だといいました。そしてシステム理論は、同一性ではなく区別に基づくものであるから、最終的には記号論と同じような考え方に行き着くことになるかもしれないともいいました。
デリダはこれに対して、自分の関心の対象は近代社会ではない、なぜなら自分には「社会」とは何のことかわからないからだ、と答えました。この言葉はデリダの語彙にはないのです! 彼はそれに続けて、「自己参照」をはじめとするシステム用語を脱構築し始め、システムを可能にする区別は、システムが閉鎖系ではありえなくする、と論じました。システムは歴史に対して開かれるのだそうです。このように、可能性の条件が同時に不可能性の条件にもなっているわけです。大理論同士の競合については、この競合を記述することのできるメタ理論は存在しえないとのことでした。どんな理論も、すべてを記述しようとし始めると、最終的にはその理論自身を含むどんな理論よりも大きくなってしまいます。この状況は閉じられないので、それゆえメタ理論や普遍理論は存在しないというわけです。デリダは、この競合はシステム理論の中に統合できるのか、とルーマンに訊ねました。
ルーマンは、システムは最初に区別のパラドクスを展開するのだ、ということは認めました。演算とは包摂と排除の差異を産出することであるが、これはシステムの内部状態としてしか生じない。観察者ならシステムと環境を区別することができるが、システム自身は自らの境界内でしか演算を行えないというわけです。ルーマンにとっては、普遍主義とは、一つの理論が他のすべての理論を構築できなければならない、という意味ではありません。そうではなく、我々は異なる複数の普遍理論をそれぞれ試用してみているのであって、そのこと自体は経験的に観察可能だといいます。形式とか区別といった概念を用いることで、これらの理論間の接続が可能になるかもしれないともいっていました。
デリダは、異なる複数の理論にとって共通の出発点となるのは、共通の記憶、つまり哲学史だといいました。システムはシステムに含意される。差異は産出されるものではない。差異は事物でも、システムが引き起こす結果でもない。システムに可能なのは、他に還元することのできない区別を写像することだけである。システムが差異を産出することもありうるが、そのとき同時に、システムが差異によって産出されていることも認めなければならない。そしてこのことが一つの差異を生むのだということでした。他人についていえば、〈他者〉というのは産出するものではなくて出会うものであり、ここから倫理、政治、正義が導かれるのだといいます。そして、これには私もすごく驚いたのですが、あの脱構築のグランドマスターがですよ、〈他者〉に出会ったときには、彼を助ける「絶対無条件の」義務を負うと論じたのです。ホームレスに出会ったら、財布だけでなく上着も差し出さなければならないというのです。このかなり衝撃的な発言の後、デリダは再びいつもの調子に戻って、「システム」とか「理論」とか「コミュニケイション」といった言葉に対しては疑念を覚える、と断じました。特に「コミュニケイション」は居心地が悪いそうです。デリダもコミュニケイションの存在を否定しているわけではない! のだそうですが、「コミュニケイション」という言葉は「言語」を表すのに最適な言葉ではないし、言語の本質でもないとのことでした。
こうして、結局両者の間に見解の一致は成り立ちませんでした。両星は出会い、そしてすれ違い、それぞれ別の目標を目指して去っていったのです。(p. 143-144)
以上で、カードーゾロースクールにおけるルーマンとデリダの邂逅についての紹介は終わりです。ただこの人の文章には他にも面白いエピソードがいくつもあるので、順次紹介していきたいと思います。ちなみに前回紹介されていた、ルーマンとデリダが一緒に演壇を動かしている写真は、この本の145頁に掲載されています。
ちなみに以上のやり取りに対するぼくの感想は、ルーマンがいろいろがんばっているところに、デリダが印象論だけでそんなの無理に決まってるじゃねーかと茶々を入れているという感じがしてデリダ卑怯だぞと思うのですが、そもそもルーマン寄りの人が書いた文章であってぼく自身がルーマン寄りの人間であることは差し引かないといけませんね。