ラドクリフブラウン「社会構造について」

  • A. R. Radcliffe-Brown, 1940, "On Social Structure," Journal of the Royal Anthropological Institute 70, reprinted in: A. R. Radcliffe-Brown, 1952, Structure and Function in Primitive Society, Cohen & West, pp. 188-204

ラドクリフブラウン人類学の基本的な概念が簡潔に解説されていて、入門によいと思う。

私はこれまでことあるごとに「社会人類学の機能学派」なるものの一員だと言われてきた。その主導者、少なくとも主導者の一人だと言われることもあった。しかし、機能学派なんてものは本当は存在しないのだ。マリノフスキー教授が作った神話なのだ。彼の言葉を引用しよう。こう説明している。「人類学の機能学派という立派な名称は私が作ったものだ。ある意味自称である。私自身の無責任な性質のなせる業である。」マリノフスキー教授の無責任は不幸な結果を招くことになった。「機能主義」をめぐる深い霧のごとき不明瞭な議論が人類学の全体を覆ってしまったのだ。ローウィ教授によると、19世紀における機能主義の主唱者、少なくともその一人はフランツ・ボアズ教授だという。私がボアズ教授の後継者で、マリノフスキー教授の先行者であるなどという言い方には、時間軸上の順番ということを除けば何の意味もないと思う。私が「機能主義者」だという命題がなにか有意味なことを言っているようには私には聞こえないのだ。
(p. 188)

現実に存在する具体的な現実であり直接的な観察の対象となるのが構造であるのに対し、フィールドワーカーが記述するのが構造形式である。この重要な区別をもっと明確にするために、社会構造の通時的な連続性について一つ考えてみよう。この連続性は、建物の連続性のような静態的な連続性ではなく、生体の有機的構造の連続性のような動態的な連続性である。有機体はその一生を通じて、つねにその構造を更新していく。社会的生命の場合もこれと同じで、社会構造をつねに更新していく。現実に存在する人と人との関係、集団と集団との関係は、毎年、あるいは毎日、変化していく。出産によって、また移民として、共同体に新しい成員が加わる。他方、死によって、また移民として、共同体から成員が出て行く。結婚があり離婚がある。友人が敵になることもあれば、敵と和解して友人になることもある。しかし現実の構造がこのように変化していく一方で、一般的な構造形式は通時的にもそれほど変化しない。相対的に安定した共同体があって、そこを訪問した10年後、また訪問したとしよう。その間に、多くの成員が死に、また多くの成員が生まれている。死んでいない人たちも10歳年をとり、その人たちの間の関係も多くの点で変化してしまっているだろう。それでも、観察される関係の種類自体は10年前と較べてほとんど違いがないことにきづくだろう。構造形式はほとんど変化しないのである。
(pp. 192-193)

AさんとBさんの関係が〈構造〉。Bさんが死んだらこの〈構造〉はなくなる。かわりにAさんとCさんの間に同種の関係ができる。新しい〈構造〉ができたことになる。でも人が入れ替わっただけなので、〈構造形式〉は変わっていない。――あんまり見ない用語法ですな。

以上簡単に述べてきた観点からいうと、社会制度、つまり標準化した行動様式という意味だが、これは社会構造、つまり社会関係のネットワークがその存続を維持するための機構を構成するといえる。ここで「機能」という言葉を使うのには抵抗がある。近年この言葉は非常に様々な、しかも曖昧な意味で濫用されているからだ。本来科学の言葉というのは区別を明確にするために使われるべきものであるのに、現在この言葉は、本来区別されるべきものを混同するために用いられている。「用途」、「目的」、「意味」と普通に言えばいいところでわざわざ使われることが多いのである。機能などという言葉は使わずに、斧や掘り棒の用途、言葉や象徴の意味、立法行為の目的、といったほうが便利だしわかりやすいし、なにより学問っぽいと思うのだ。「機能」という言葉は生理学では非常に有用な専門用語として使われてきたし、生理学での用法のアナロジーで使うなら、社会科学の重要概念を表現するのにも非常に便利な手段となるだろうとは思う。これまで私が使ってきた用法はデュルケムらの用法に倣ったもので、ある社会的に標準化した行動様式・思考様式の社会的機能とは、それらの様式が社会構造の存続に何らかの貢献をするという関係のことである、というように定義される。これは、生物有機体において心臓の鼓動や胃液の分泌の生理学的機能とは、それらが有機体の構造の存続に貢献するという関係のことだ、という定義のアナロジーである。こういう意味でなら、私も、犯罪を処罰することの社会的機能とか、オーストラリアの諸部族のトーテム儀礼の社会的機能とか、アンダマン島民の葬儀の社会的機能といったものに関心がある。しかしこれは、マリノフスキー教授やローウィ教授がいう機能人類学と同じものではない。
(pp. 200-201)