「単純な社会的システム」第六節「同一性と抽象作用」

とりあえず訳してみた。

社会学理論が単純なシステムをうまく扱えていないのは、単純なシステムでは自己意識、境界意識がはっきりしていないということが大きい。単純なシステムの参加者は、自己や、自己以外の参加者を、人として見る。しかし自分たちが行っている相互行為の網をも、環境の中のシステムとして見るとは必ずしもいえない。別の言い方をするなら、参加者は自分たちを、人としては同定するが、必ずしも社会的システムとしては同定しないということだ。社会的システムの同一性が顕在化すれば、それを意識的な前提とすることで、システムの選択の方向性を制御することができるようにはなる。しかし、だからといって、知覚過程や言語的コミュニケイションの過程が成立するのにそれがどうしても必要だというわけではない。参加者による反省作用としての意識的システム同定が必要になるのは、抽象作用を秩序化する必要が出てきたときに限られると思われる。
システム同定が必要になるのは抽象作用が必要なときだとして、ではどんなときに抽象作用が必要になるのかというと、それにはいくつかの場合がありうる。よく知られているのは、二人関係が、参加者が三人以上のシステムへと移行する場合だ。このとき、システムの同一性が抽象的な水準で固定されるなら、一つのシステムの内部で、連携する相手を変えることが可能になる。つまり、対立可能性と協力可能性の分化が可能になるわけだ。これに対してあまり気付かれていないのが、システムの過程が時間的に中断することによって、反省作用が必要になるという場合の方である。単純なシステムというのは、基本的には状況依存的なシステムなのであって、参加者が離れ離れになってしまえばその時点でもう存在しなくなる。相互行為が少しの間中断しただけで、システムは消滅の危機に瀕することになる。相互行為を長期的に存続させるという観点のもとでのみ、システムが、連続性の中断によって連続性を得るというパラドクス的な作用を遂行する必要が生じてくる。臨在者たちはいつまでも一緒にいるわけにはいかず、それゆえいつかは別れなければならない。だから、相互行為を長期的に存続させるためには、別れ際に再会を約束する必要がある。ここで、Parsonsが「潜在的パターン維持」と呼んだ問題が発生するため、これを解決してやる必要がある。つまり、たまたま会っていただけ、というのではだめで、会合の意味を反省し、いつどこで誰がこの会合を継続するのかを取り決め、さらにその理由も与えてやらなければならない。本稿の用語法では、中断を含むからといって、単純なシステムでなくなるわけではないが、中断を含むためには抽象作用が必要になる。そしてこの抽象作用によって、システムは新しい構造的組織化の水準に移行することになる。つまり、システムは、歴史に加えて未来をも有するようになり、参加者に対しては、それに応じた拘束力を獲得する必要が出てくる。社会的システムの同一性が意識化されるようになる契機としては、おそらくこの、時間的不連続性の問題が最も重要である。中断を含んで存続するシステムだけが、コミュニケイション可能な我々意識を持ち、独自の行動規則をつくり、新たな成員を受け入れるか否かについてのコミュニケイションによって参加者受入過程を制御することができるのだ。
ただ、このようにして中断を含んで存続することができるようになったとしても、それによって単純なシステムに行為する能力が備わるわけではない。行為能力は、社会的システムの概念には含まれない。むしろ、高度の内部秩序をもったシステムでないと、行為能力を有することはできない。「これは(参加者である人格システムの行為ではなく)社会的システムの行為だ」、という言い方が許されるのは、選択作用の帰属が、個人だけにとどまらず、社会的システムに対しても可能になっている場合だけである。この点においても、単純なシステムの通常の構造のあり方では無理な話だ。単純なシステムでは、通常、選択作用は人に帰属されるようになっていて、だからこそ参加者は発言を動機づけられ、また自らの発言に責任を負うわけだが、システムが行為能力を得るためには、外部に対する効果を社会的システム全体に帰属させる必要がある。システム全体に帰属させるということは、個々の行為について、全参加者に義務や権利を与えなければならないということだが、それには指導構造ができ、システム内で選択作用を伝達するためのメディア、つまり権力が成立し、外部・内部に対する効果を伴う代表制度と配分過程の正統化がなされ、そして、個人帰属は軽減されつつも、個人の動機づけと責任は保持されるような仕組みが成立することが必要である。これらの条件がすべて満たされるなら、参加者にとってシステムの同定可能性は不可避の結果である。システムが同定可能でない限り、システムへの行為帰属など想定すら不可能であって、確実に期待できることなどありえない。以上の分析で、我々は単純なシステムの秩序化原理の限界に突き当たっている。単純なシステムの秩序化原理、つまりその構造選択の種類と様式は、社会的システムの構造として唯一可能なものだというわけではない。組織化した社会的システムは、臨在性の代わりに成員資格を用いるし、社会システムは、臨在性の代わりにコミュニケイションの到達可能性、つまり相互行為可能性それ自体を用いる。社会が進化する中で、これら三つの異なるシステム形成形式は分化の度合いを増し、また同時に、両立可能性の問題を抱えつつ、互いに関係を取り結んでいくのであり、それぞれのシステム類型は、それぞれ独自の構造と派生問題を有するのである。
だとすれば、社会学理論もそれ相応の複雑さを備えていなければならないはずだ。社会学理論の対象領域は、19世紀の社会理論や20世紀の方法論主導型の単純化とは異なり、個々の性質の単純集計としてはとらえられない。また、社会とその部分システムが対象だ、という単純な話でもない。なぜなら、組織にしても単純なシステムにしても、社会システムの部分システムではないからだ。社会の部分システムというのは、政治システムとか経済システムとか家族とかのことで、それが果たす機能が全体社会にとって必要不可欠なシステムでなければならない。組織とか単純なシステムというのは、社会システムの機能分化によって成立したのではないような種類の、社会的システム形成の形式なのだ。だから社会理論だけではだめで、特定のシステム類型に対応しないような、社会的システムの一般理論が必要である。そして、単純なシステムの理論は、この一般システム理論からカテゴリーと問題設定は受け継ぎつつも、しかし社会理論とは異なった形で独自に作り上げられなければならないのだ。