山口節郎『社会と意味』

第六章「社会の超越論的理論」だけ。
学部時代に読んで、よくわからなかったのを、もうわかるかな(笑)と思って読んでみたが、結局わかったのは、文と文の間の論理的なつながりが不明で、(おそらく裏にあるのであろう)言いたいことがうまく表現できていないということ。結局、ハーバーマスっぽいこと言っておけば大丈夫、という油断の中で書かれた感じがすごくする。あと引用が多すぎる。解釈の誤りを正そうと思ったけれど、きりがないのでやめた。ただ、この文章それ自体の意義はともかくとして、レファレンスとしてはとても参考になった。
というわけで、一箇所だけ、これはひどいと(学部のときも)思ったところを。

ルーマンによれば、フォーマルな社会システムはシステムの意思決定によって成員の出入りを規定する。そのさい、成員の交代が当事者にどのような犠牲を課すか、あるいはその交代が自由意思に基づくか否か、ということは「二次的な区別」にすぎない。「システムからの排除は除名によっても行ないうるし、電気椅子を用いても行ないうる。こうした場合、個人の運命にとっては、しばしば悲劇的な相違が待ちうけているであろう。しかしながら、成員であることと規範の承認との相関関係の問題としてみれば、つまり社会システムの安定性ということからみれば、ここで問題になるのは機能的に等価な解決法なのである」(FFO. 44)。〈システムの安定性〉という点からみれば「除名」と「電気椅子」とは〈機能的に等価〉!なのであり、個人の運命などは二の次なのである。〈システム合理性〉の名による個の抹殺が、こうして正当化される、と考えるのは、あまりにも〈イデオロギー〉的すぎる解釈であろうか。(pp. 258-9)

等価機能主義についての紹介はかなり精確で、当時にしてはすごいと思って読んでいたら、最後にこれでずっこけた。「除名」と「電気椅子」が〈機能的に等価〉でない(「電気椅子」の方が完全だ!)方がやばいのでは?
などと書いていたら一つだけ重要な指摘ができそうな気がしてきた。等価機能主義において、「AとBはXにおいて等価である」という命題が提出された場合、ルーマンが何度も強調しているように(そして山口も多分わかっているはずなのだが)、この命題の妥当性は、Xという機能的参照観点の偶然的選択に依存した相対的なものにすぎず、かつ、「等価である」ということからは、どっちがいいということは導かれないのであるから、この命題を受け取った側の、事柄に即した正しい反応は、「だから何?」でしかありえない。
結局、そこに「個の抹殺」が「正当化される」といったことを読み取るのは、読み取る方の問題であり、読み取る方の複雑性の低さが露呈しているだけである。とはいえ他方で、では等価機能分析による発見をどう使えばいいのか、という指針を、ルーマンの側が明示できているかといえば、黙るしかない。機能主義という方法論からはそれは出てこない。ではシステム理論から出てくるのか、といえば、システム理論は機能分析に対して「問題を提供するだけ」だというのだから、なかなか無理筋っぽい感じもする。
そこでやはり、合理性の話を、機能的方法ともシステム理論とも独立に詰めなければならない。それが私の課題だが、これが独立の課題だということ自体は、ルーマン自身が当初から認めている。最後にそれを引用しよう。「機能的方法とシステム理論」の第二節の末尾である。

この理論的アプローチは一般的な適用可能性を持っている。当然であるが、これは、すべての社会的現象をその完全な具体性において捉えることができるという意味ではありえない。どんな理論にも言えることだが、この理論も扱うべき事柄と扱わない事柄を選り分けるのである。ではその選択はどのような原理に基づいてなされるのか。これは理論それ自体からただちに導かれるものではないし、また機能的方法も、何を選べばよいかを直接指示するわけではない。システム理論と機能的方法は、その背後に共通の考え方を持っていて、それに基づいて考えることによって初めて、両者を組み合わせるべき本当の理由が明らかになるのである。両者を結び付けているのは次の共通仮定である。すなわち、人間の行動というものは、それを合理化する可能性という観点から解明し理解しなければならない。これは、当人自身が自分の行動の合理化可能性について意識していない場合でも、というかそういう場合にこそ、適用されるべき仮定である。