システムが存在する

ルーマン先生曰く

 システム一般という言い方をするには、対象が持っている性質の中で、それがないとその対象をシステムと呼べなくなるようなものを見つければよい。時々その種の性質の全体を指してシステムと呼ぶこともあるが、その種の言葉遣いをしていると、一般システム理論がいつの間にか一般システムの理論になってしまう。この問題は、順々に限定を加えていくことでできあがる具体化の各段階でも同じように生じる。さて本書ではその種の言葉遣いはしない。つまり、あるシステムを表す概念(あるいはモデル)を再びシステムと名づけるようなことはしない。本書では、有機体を表す概念(あるいはモデル)を有機体と呼んだり、機械を表す概念(あるいはモデル)を機械と呼んだり、社会を表す概念(あるいはモデル)を社会と呼んだりするつもりはないからである。別の言い方をすると、理論の抽象度をどんなに高くしても、認識のための手段にすぎないもの(概念、モデル、等)を、対象を表す言葉で呼ぶことは許されないということだ。その種の用語法は、より具体的な研究領域ではどうせすぐに使い物にならなくなるのである。というわけで、「システムが存在する」という命題の意味は、システム概念の適用を正当化するような性質を示す研究対象が存在する、という以上のことではない。逆からいうと、システム概念を適用できるもの同士を、またシステム概念を適用できるものとできないものについて、どこが同じでどこが違うかという点から比較できるようにすることが、システム概念の役割だということである。(Soziale Systeme, pp. 15-16)

 ここでルーマンはシステム理論の使い方についてたいへん重要なことを言っている。要するに、システム概念を使って、対象領域の中に「システム」という(「システム」としか呼ばれえないような)新たな存在者、新たな単位を見つけることはできない、と言っている。対象の単位、その対象が有する性質、対象の分布、といったことはシステム理論にとっては所与、データなのだ。システム概念は「これこれの性質を持っている対象はシステムだ」と定めるだけであり、システム論者は対象領域を見回して、その性質を持った対象単位を見つけ、それをシステムとして〈認定〉するだけである。段落の最後の文は、システム概念が等価機能主義における比較観点の役割を果たすことを述べている。等価機能主義の方法論というのはまさしく、すでにある対象領域を前提とし、そこにパースペクティヴを組み込むことで当該領域の新たな見方を示すものだったことを思い出そう。
 このように理解することで、有名な次の箇所の意味も難なくわかる。

 本書の議論では、システムが存在することは前提である。つまり最初に認識論的な懐疑を持ってくるようなことはしない。かといって従来の議論のように、システム理論には「分析的な意味しかない」と思っているわけでもない。そういう、システム理論というのは現実を分析するための方法でしかない、といった狭い解釈は何よりもまず避けねばならないとすら思っている。もちろん命題とそれが表す対象を一緒にしてしまってはいけない。命題は命題以上のものではなく、科学的命題だって科学的命題以上のものではない。この点には注意しておく必要がある。しかし少なくともシステム理論の命題は、現実世界についての命題である。だからシステム概念が表すものは現実に一つのシステムとして存在していなければならないのであって、それゆえシステム概念を含む命題を提出する場合は、それが本当に正しいかどうかを現実に照らして検証してやる責任が伴う。(Soziale Systeme, p. 30)

 ここで認識論的な懐疑といわれているのは、「システムと呼べるような対象は存在しないのではないだろうか」といった、経験的な、アポステリオリな心配のことではない。その後も読めばわかるように、そんな話は全然していない。そうではなく、認識論的懐疑とは、システム理論の内部で「存在する」と言えるものが、現実にも「存在する」と言っていいかどうか、という疑念なのである。
 この種の心配は、理論が新たな存在者、新たな対象を(分析的に)作り出してしまったときに生じる。なんか理論的には〈集合表象〉ってものがあっていろいろ作用してるって考えるといろんなものが説明できるんだけど(だから理論内部では使い勝手がいいんだけど)、これってほんとにあるのかなあ、みたいな心配である。(心配が嵩じると、「分析的な意味しかない」とつい言ってしまう。)
 ルーマンは、システム概念というのは新たな対象を作り出すものではなく、すでにある対象を〈システム〉として認定できるかどうかの基準を定めただけなんだ、ということによって、この種の心配を回避しているわけだ。実際、そのようにシステム概念を使う限り、理論の内部でシステムが活躍している場合、必ず現実にもシステムが活躍していると言える。最初から存在しているものに〈システム〉という名前をつけただけなのだから、理論内に登場するシステムは、必ず現実の対象領域にも存在しているのであって、何の心配もいらない。
 これが「システムが存在している」は前提で、そこから出発する!という宣言の意味であり、これ以外の意味はない(特に、システム理論が特定の世界観(たとえばシステム化社会みたいなやつ)を前提にして初めて成り立つものだ、みたいな含意はまったくない)。

補足

  • 以上の話は、理論一般、概念一般の水準での議論であり、システム理論に限定されない。それゆえどんなシステム理論であるか、「存在する」のがどんなシステムであるか、といったこととは独立に成立する。要するに、概念というのは現実に存在するものからの抽象によってできるわけだが、そうやって抽象的に作られた概念の指示対象は抽象される前の存在者だというだけの話。たとえば犬理論は「犬(一般)」という抽象的な概念を用いて記述されるが、犬理論の適用対象は抽象的な「犬一般」という存在者ではなく、「シロ」とか「ペス」とかの現実に存在する具体的な存在者だという話。当たり前だが、「シロ」とか「ペス」は犬理論が存在しなくても存在する。