大会報告原稿の草稿完成稿
ルーマン学説における等価機能主義とシステム理論の関係
1.導入――ルーマン読解上の一つの障碍
特に初期(1960年代)のルーマンによる社会科学への貢献を評価しようとする際、一つの障碍となるのが、等価機能主義と存立要件理論の関係である。一方で、機能概念や機能分析の方法を存立要件理論から解放する。他方で、機能分析の参照問題としてシステム存立を採用する。この一見矛盾した態度をどう解釈し、どう評価すればよいのか。
本報告は、まずルーマン以前の機能主義とその困難の構造についての把握を試み、次いで等価機能主義がその困難をどのような意味で克服しているかを、機能分析の前提となる理論要件という点から解明する。この作業によって、前段の疑問は解消される。他方、今後解明すべき課題が明らかになる。
2.説明指向機能主義
2.1 説明指向機能主義の一般構造
ルーマン以前の機能主義は、事象の説明を目標とする方法であった。
説明すべき事象をAとおくと、「Aが充足する機能を求めよ」が方法的命令である。そして機能命題「Aは機能Fを充足する」が存在命題「Aが存在する」を含意することが、機能主義が説明の方法として成立するための前提である。この前提は、機能と存在の間の関係に関する理論命題「機能Fを充足するがゆえにAは存在する」によって支えられる。この種の理論命題は、個別事象の説明の前提になるがゆえに事象の記述命題ではないが、論理必然的に成り立つわけではないがゆえに論理命題でもない。
この種の理論命題の妥当性は理論体系によって保証される。具体的には、Fを一事例として含む一般的な機能概念に、Aを一事例として含む事象の存在理由となるに足る性能を与える理論体系が必要である。これを機能理論と呼ぶ。機能主義者の仕事は、もちろん事象がどのような機能を充足しているかを調べることであるが、その成果に説明力を保証するために、何が「機能」であるかを定義するある程度思弁的な課題、つまり機能理論の構築をも、同時に行う必要があった。理論とは対象世界の一般的性質についての命題集合であり、したがって被説明事象が引き起こす一定の結果がその事象の存在理由、つまり機能となるような経験的な世界記述が目指された。機能理論は経験的理論であり、それゆえ経験科学の基準に従ってその妥当性を判定される必要がある。
要するに、機能理論は
- 「機能」という変数が、被説明事象を引き起こすというストーリーを提供する理論でなければならず、
- 「機能」変数が他の説明概念(たとえば因果概念)に還元不可能な固有性を持っていなければならず、
- このストーリーが経験的理論でなければならない。
2.2 説明指向機能理論とその困難
まず因果的説明への還元不可能性条件のために、「機能」は被説明事象の原因ではなく結果の領域に求める必要がある。(ただし事情はむしろ逆で、制度や慣習など因果的、発生論的な説明が困難な対象を扱うがゆえに、機能的説明という非因果論的な説明方式が求められたのではあるが。この事情は史料の残っていない無文字社会を対象とする社会人類学に特に当てはまる。Radcliffe-Brown [1952]など)
この種の既存理論で最も経験科学としての説得力と説明力の強いものは、自己維持能力を有するシステムの存立要件の理論である(説得力の弱いものとしては、広義の目的論、つまりある種の結果状態の生起を必然視する理論がある。これには進歩主義的な俗流進化論などがある)。存立要件とはシステム維持の条件である。この理論では、存立要件充足が「機能」とされる。自己維持能力のゆえに、システムは自己の存立要件を自ら充足する。つまり「機能」を充足する事象を自ら作り出す。この場合、ある事象がこの「機能」を充足するならば、それはこのシステムの自己維持作用で生み出されたものだという説明が成り立つ。この種の自己維持過程が顕著に見られるのは生物有機体であり、社会的システム理論が社会(的システム)をある種の有機体、あるいは有機体と共通の一般的原理を共有するシステムとして捉えようと試みるのはこの事情によるところが大きい。
この種の理論に基づく説明形式に対しては、大きく分けて二つの本質的な批判が突きつけられた。第一は、機能的説明の固有性を否定し、因果的説明への還元の可能性と必要性を指摘するものであり、第二は、機能的説明の事象説明としての原理的な不十分性を指摘するものである。
第一の批判は、システムの自己維持過程に基づく機能的説明は、結局は機能充足がシステム存立の原因となり、システムの自己維持作用が機能充足の原因となる、という(見方によっては)循環的だが時間的には不可逆的な因果過程に還元可能であり、還元可能である以上は還元しない限り説明として不十分だというものである。制度や慣習の原因となりうるのは成員の「動機」だけであり、それゆえ存立要件が成員間で意識化され動機化される過程の記述を待って初めて機能分析は完成するというBredemeier [1955]や、システム内の他部分からの貢献(機能)に対する返礼作用を含めた機能的互酬性の過程の記述が不可欠であるとするGouldner [1959]の指摘は、機能分析の完成が因果分析への還元にあると考える点で機能的説明の固有性を否定するものであった。
またデータ不足を補うためのある種の暫定的な変数処理をもって構造機能理論を称するParsons [1951]の立場も、理論の理想的完成態において構造/過程の区別が消失し、それに伴って機能概念の登場する余地がなくなると考えている点で、機能的説明の固有の意味を認めない立場であるし、機能主義は社会学や社会人類学の別名であってその内部の特殊な立場ではないと宣言したDavis [1959]の米国社会学会会長講演もこの発想を引き継ぐものである。
第二の批判は、仮に機能的説明が他種の説明形式に還元不可能な独自の説明であるとしたら、それは、機能的等価物の存在可能性のゆえに原理的に不十分な説明でしかありえないというものである。ある事象がある不可欠な機能を充足しているというだけでは、その事象まで不可欠であるということにはならない。当該機能に関して被説明事象に機能的等価物が存在するならば、機能的説明でいえることはこの等価物集合の一要素の生起が不可欠であるということまでである。この種の批判としてはHempel [1959]が明確である。
3.等価機能主義の理論要件
3.1.ルーマンによる等価機能主義の提唱
以上のように、1950年代末には、機能主義は独自の説明形式として不十分な状態に留まり、それゆえ説明として不適格であることを自認するか、さもなければ因果的説明を始めとする他種の説明形式に還元されることで説明としては適格化するものの独自性を失うか、という救いのない二者択一を突きつけられていた。ルーマンが等価機能主義を携えて学界に登場するのはまさにこの状況においてである。
ルーマンは1958年のデビュー論文「行政学における機能概念」で、「機能の機能」、すなわち機能分析の認識利得は、説明ではなく機能的等価物間の比較であるとした。この発想の由来をルーマン自身はフレーゲ、ラッセルの論理関数概念に帰しており、この時点で機能概念の説明概念としての不適格性を確信していたかどうかは定かではない。しかし1962年の「機能と因果性」、1964年の「機能的方法とシステム理論」では、ヘンペルらの批判を認めたうえで、それを逆手にとる形で、比較の方法としての機能主義の独自性を前面に押し出すようになった。機能主義の方法としての目標設定を変更することで、上記二者択一のディレンマから抜け出したことになる。このような意味での機能主義を、ルーマンは等価機能主義と呼ぶ。
3.2 等価機能主義による理論要件の軽減
説明から比較への目標変更は、理論に対する要請をきわめて弱いものにする。
先に見たように、説明指向機能主義の場合は、機能概念の説明能力を保証する、という非常に強い性能が理論に求められていた。この要請の強さは機能概念への要請の強さに由来し、同時に機能概念の外延の狭さを帰結する。つまり事情は次のようになっている。機能的説明という目標のために機能概念に説明能力が要求され、それを保証するという性能が理論に要求され、その要求の強さのゆえに理論がとりうる形態、理論が提出する社会像は強く制限され、それゆえそこに含まれる機能概念の指示対象もきわめて限定的なものとなる。機能主義に対する「保守的」という誤導的な形容は、この連関についての不明確だが正しい直観に基づくものといえる。
これに対して等価機能主義は説明を目標としないため、このように限定的な理論構成をとる必要がない。つまり特定の社会編成様式を、分析のための理論的前提としてあらかじめ設定する必要がない。綱領論文「社会的システム理論としての社会学」(1967)で提唱された「構造機能理論から機能構造理論への移行」というスローガンはこの、理論要件の軽減のことを述べていると解釈できる。
3.3 等価機能主義の理論要件
では等価機能主義は分析の前提としてどのような理論構成を必要とするか。
まず等価機能主義の分析手順を見る。(1)分析対象を設定する。(2)それが解決の一つになるような問題(参照問題)を立てる。(3)この参照問題の別の解決(分析対象の機能的等価物)を探索する。(4)別の参照問題を立てる(複数可)。(5)これらの参照問題に関して先の機能的等価物同士を比較する。以下、多少の一般性を犠牲にして、参照問題の種類を「〜という結果を実現する」という因果的なものに限定して論じる。
この手順で遂行される分析にとって、それに先んじて必要な理論的前提は次のとおり。(a)ある問題に対して解決群が一意に特定可能であること(ただし分析開始時には未知でもよい)。より具体的には、ある原因が実現する結果が一意に特定可能であること。(b)ある問題に対する解決が複数存在しうること。より具体的には、結果から原因を一意に特定できないこと。(c)複数の参照問題を有意味に組み合わせることが可能であること。
(a)(b)を合わせて、原因から結果の推論は可能であるが、結果から原因への推論は不可能であるような因果的世界観。これは通常の科学的理論および我々の常識が採用しているものであり、特別な理論構成は必要ない(反対に、機能的等価物の存在可能性を否定して機能的説明を可能ならしめるためには、原因―結果両方向の推論可能性、つまり原因結果の一対一対応が必要になり、それを保証する特別な理論構成が必要になる)。
特別な理論構成が必要になるのは条件(c)に関してである。有意味な比較には比較の参照点が必要である。ところが機能的等価物の集合は、最初に立てた参照問題の解決であるという共通性によって定義されるものであるから、この問題を比較の参照点にしても、「これらの機能的等価物はどれもこの参照問題を解決する」という定義上自明の結論しか得られない。それゆえ機能的等価物探索のための参照問題と、それらを比較するための参照問題は異なっている必要がある。それゆえ複数の問題をセットで提供してくれるような理論枠組みが必要になる。ルーマンが等価機能主義を可能にするための前提としてシステム理論に依拠するのはまさにこのポイントであり、かつこれだけである。
これは要するにシステムの複要件理論を採用するということである。説明指向機能主義の要件と較べると、複数の存立要件を同時充足するような解をシステム自身が調達するという理論要件が免除されている。他方、一般に、単一要件理論は複要件理論よりも強い仮説である。このように、等価機能主義が要請する理論的前提は、非常に弱い。
4.一見矛盾する言明の意味
ルーマンは一方では、
機能主義の主導定式は当初、社会的システムの「存立」に依拠していた。ここで存立とは、機能的作用の結果として生じ、この作用の連続的反復によって、あるいは別の形式での持続効果によって保障される状態と考えられている。ところがこのような考え方は不十分であることがすでに証明されている。(Luhmann [1964: 3-4] = [1970: 33])
と述べる。他方では、
こうした機能的な分析において、問題設定のてことなるのは、行為システムの存続の維持にかかわる問題である。より抽象的には、こう言ってもいい。現実の世界のなかでの〔システムとしての〕同一性の維持に関わる問題である、と。(Luhmann [1973: 訳3-4]、傍点引用者)
と述べる。この二つの言明は一見矛盾する。
簡単な整合的解釈としては、両者の存立ないし存続という言葉の意味が違うのだといえる。これは間違いではないが、「システム存立を機能分析の参照点にする」ということの意味自体が違うということまで指摘しなければ不十分である。前節までの議論で、次のことがいえる。説明指向機能主義の場合は、機能概念に説明能力を保証することが、システム存立を参照することの目的であったのに対して、等価機能主義の場合は、機能的等価物間の比較のための問題集合を与えることが目的である。この目的の(要求の大きさの)違いが、「存立」概念の限定性の違いを導いているといえる。
要するに、存立要件理論は、機能的説明という目的にとっては不十分であったが、比較という目的には十分であったということである。
5.機能主義方法論から見たルーマン研究の課題
以上のように、説明から比較へという、分析の目的における転換が、分析のための理論要件における軽減的な転換を伴っている、ということに疑問の余地はない。しかしこの転換とその帰結は自明ではなく解明を要する。
(1)学問の目標として、説明はある程度自明だが、比較はそうではない。なぜ比較が目標となるべきなのか、説明は不可能だからといった消極的な理由以外に、より積極的な理由を探る必要がある。これについてルーマンは正面から論じていないが、いくつかの論文で「比較の合理性」や「比較する理性」が、新しい、ある種望ましい基準として触れられている。これについての体系的解明が必要である。
(2)等価機能主義と、問題セットを提供するシステム/環境理論という枠組は、1960年代には完成していて、ルーマンはこれを用いて多くの分析を行っている。しかし周知のとおり、その後ルーマンのシステム理論は少なくともその定式化において大きな変貌を遂げる。この理由はどこに求めればよいか。等価機能主義の理論要件から理解できるのか、それ以外の基準があるのか。あるとしたらそれと等価機能主義の関係はいかなるものか。たとえば、前述のとおり、かつてはシステムの自己維持作用が機能充足主体の存在を説明するのに用いられたが、説明という目標を放棄した以上、オートポイエーシス導入をその系列で理解することはできない(実際オートポイエーシスは選択による選択可能性の再生産という非決定論的な自己維持過程であるため、そのような性能をもちえない)。
(3)本報告では触れなかったが、ルーマンの機能概念は比較の方法論だけでなく、機能分化論として理論の内部にも登場する。両者の関係はいかなるものか。実は1958年の論文は科学方法論の話ではなく、近代的な社会や組織の(かなり広い意味での)機能分化の話である。近代社会の編成原理を記述するために導入された機能概念が、方法論として採用され、それに合わせたシステム理論が採用され、このシステム理論が近代社会の理論としても展開される、というある種の循環がある。この連関の詳細と、その意味についての解明が必要である。
文献
Bredemeier, Harry C., 1955, “The Methodology of Functionalism,” American Sociological Review 20, pp. 173-180
Davis, Kingsley, 1959, “The Myth of Functional Analysis as a Special Method inn Sociology and Social Anthropology,” American Sociological Review 24, pp. 757-772
Gouldner, Alvin W. 1959, “Reciprocity and Autonomy in Functional Theory,” in: Llewellyn Gross (ed.), Symposium on Sociological Theory, Raw, Peterson and Co, pp. 241-270
Hempel, Carl G., 1959, “The Logic of Functional Analysis,” in: Llewellyn Gross (ed.), Symposium on Sociological Theory, Row, Peterson, pp. 271-307
Luhmann, Niklas, 1958, “Der Funktionsbegriff in der Verwaltungswissenschaft,” Verwaltungsarchiv 49, pp. 97-105
Luhmann, Niklas, 1962, “Funktion und Kausalität,” Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie 14, pp. 617-644
Luhmann, Niklas, 1964, “Funktionale Methode und Systemtheorie,” Soziale Welt 15, pp. 1-25
Luhmann, Niklas, 1967, “Soziologie als Theorie sozialer Systeme,” Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie 19, pp. 615-644
Luhmann, Niklas, 1970, Soziologische Aufklaerung 1: Aufsaetze zur Theorie sozialer Systeme, Westdeutscher Verlag
Parsons, Talcott, 1951, The Social System (Major Languages), The Free Press
Radcliffe-Brown, A. R., 1952, Structure and Function in Primitive Society, The Free Press