「システムが存在する」という出発点と、(仮説演繹的ではなく)索出的なシステム理論

Soziale Systeme第1章冒頭の「システムが存在するということから出発する」の意味については、前に論じた
さてルーマンは抽象的で現実から遊離した空論を唱える学者、というのが大方のイメージだろうが、少なくとも本人の自覚は正反対である。デビュー当時からルーマンは「抽象的で現実から遊離した空論」を徹底的に批判してきた。よく言うせりふが「自分のシステム理論は仮設演繹的なものではなくて索出的(ヒューリスティック)なものだ」という言い方である。そして実は、「システムが存在するということから出発する」という言い方は、この立場を明確に表明したものだといえるのだ。
「システムが存在する」の意味は、システム理論が、概念定義や公理の設定などによって「システム」という(「システム」としか呼ばれえない)新しい対象をつくり出すのではなく、(一定の性質を備えた)既存の対象に「システム」という名前を認定するものだ、ということだった。たとえば経済学の「経済人(ホモエコノミクス)」のことを考えてみよう。この人がどういう人かは、この人の行動についていくつかの公理を設けることによって、経済学が初めて決める。そのため、この人がどういう人かについては、その公理を見ないと何一つわからないし、公理を見ればすべてわかる。現実を見る必要はどこにもない。ルーマンは、自分が研究対象とする「システム」は、そういうのじゃないんだということをいっているのだ。
現実世界=対象領域には、すでに様々な対象が存在している。システム理論は、システム概念の定義によって、それらのうち、どれを「システム」と呼ぶことができるかを決める。Aという対象があって、めでたくルーマンシステム理論によって「システム」と認定されたとしよう。今後Aのことは「システムA」と呼ぶ。さてシステムAってどんなもの?と問う場合、システム理論を見てみても、他のシステムBやシステムCと共通の一般的な性質しかわからない。システムAについて完全な知識を得るには、現実に存在する(システム)Aのありようを実際に調べてみないといけないわけだ。この点が、先の経済人とまったく違う。ルーマンのシステム理論が現実を重視し、現実の研究による索出発見を重視する所以である。
そして、ここからは憶測蛇足だが、「システムが存在するということから出発する」ということが第1章の冒頭に載っているというのは、「この本にすべてが書いてあるわけではない。この本に書いてある一般的な性質を把握したら、早速現実の対象に向き合って、この本に書いてない性質をどんどん発見していけ!」というメッセージではないのかと思ったり思わなかったり。