○○という面があることは否定しないが、むしろ××というべきだろう

こういう文が出てくると、それ以上読む気をなくすよねー
どちらも面なんだってことに気づいているのかなー
どちらの面についても、それぞれを重要視する枠組みというのがありえて、結局は特定の枠組みを自分は採用しているということを、暗に言っているだけなんだよねー
必要なのは、なぜその枠組みが重要かって議論なんだけど、それが明示的に論じられることって少ないよねー
こういう、概念とか言葉によって対象を〈具体的に〉包括できると思っている人、たぶん本人は自覚していないのだろうけど、とりあえずパーソンズの「経験論」批判を復習してください。
そういう意味での経験論をとらない(分析論でいく)点で(そして、とりあえずその点にかぎり)、ルーマンの機能主義はパーソンズのつくった流れの中にある。
ところがルーマンのシステム概念はそうではない。パーソンズの分析論の最も重大な適用対象が、パーソンズのシステム理論(=理論体系)である――つまり、特定の枠組み(=行為の参照枠)を前提に、それに依存して構築された体系であり、それゆえ具体的対象の特定の側面だけを捉えたものである――のに対して、ルーマンのシステム概念は、具体的対象をまるごと包括するものだ。
だから、パーソンズのシステム理論は内容が充実しているのに対して、ルーマンのシステム理論は内容が空疎である。また、だから、パーソンズは自ら構築した理論体系の現実との対応関係について「分析的実在論」という認識論的解釈を行わなければならなかったが、ルーマンは「システムがある」から出発することができた。
そういう、システム概念を分析概念としない点で(そして、とりあえずその点にかぎり)、ルーマンのシステム理論はパーソンズのつくった流れから逸脱している。