理論的検討の進展のために

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻が発行している「既存の専門領域にとらわれない、新しい学際的な社会科学研究を目的として創刊された、査読付論文誌」である『相関社会科学』に、佐藤俊樹意味とシステム』の書評論文「理論的検討の進展のために」が掲載されました。
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意味とシステム―ルーマンをめぐる理論社会学的探究

意味とシステム―ルーマンをめぐる理論社会学的探究

 

 
本稿では、本書の前半(第四章まで)に射程を限定する。前半の議論というのは、本書の副題にあるとおり「ルーマンをめぐる理論社会学探求」であり、ルーマン解釈論とその内在的批判による乗り越えという体裁をとっているが、実際には、著者がルーマンを批判するために構築している議論は、それ自体を独立に評価することのできる独自の理論というべきものである。本稿は、この著者独自の理論構築に注目し、その評価に議論を限定する。
なお、評者は本書で示されているルーマン解釈の多くについて、ルーマン学説研究を専門とする者として違和感を禁じ得ず、またその誤りを具体的に指摘することもできるのであるが、その膨大な作業を本稿に収めることは不可能である。いくつかの問題については、評者のブログにおいてすでに指摘してあり、また本稿提出後もそこで適宜作業を継続していくつもりである。
さて前述のとおり、本書の議論は著者独自の理論構築と、ルーマン学説の解釈・批判の両輪によって成り立っているのだが、議論展開の分量・形式ともに後者に過剰に傾いていて、そのため、前者について本来行われるべき理論的検討が十分に行われていない。実のところ、著者の理論が正しいのであれば、ルーマンの理論が正しいか間違っているかは、理論社会学的にはそれほど重要なことではない。つまり、本来「ルーマンをめぐる」必要はないのであるが、本書はあえてその形式をとることにより、結果として、著者自身の所説の理論的正当化が弱くなってしまっている。本稿では、著者の所説が理論的に正当でないとまでは言わない。しかし、著者のような形で理論構築を行うことによって当然に生じてくるはずの疑問をいくつか示すことで、著者にその点の補足と、より堅固な理論的基礎の構築を求めたい。それはいずれも、本来ならば本書の中に含まれているべきであったと評者が考える重大論点である。
その第一は、著者のいう、行為の意味の「事後成立性」に関してである。ある行為の意味は、それに後続する行為によって決まる、という説だ。あるいは、本書全体に散在する著者の注記に照らして言いなおすならば、ある行為の意味は、その行為に言及する別の行為によって、その言及においてのみ決まる(それゆえ行為の意味それ自体が、言及から独立に確定することはない)、ということである。
この命題は、著者の理論の出発点をなす基礎命題である。それは、行為の意味がその行為自体において確定する、という基礎命題から出発する行為理論的社会学理論に対するオルタナティヴを与えるものだ。とはいえ、著者がこの命題を提出するにあたって参照している経験的事実は、特に珍しいものでも新しいものでもない。つまり、従来の論者もまた当然その存在に気づいていたはずのものである。それは要するに、自分の行為を相手が誤解して行為し返してくることがある、といったことである。
ここで、前段最後の文については、慎重な扱いが必要である。というのも、著者のように事後成立性命題から出発する場合には、このお馴染みの事実を、上のような仕方では表現できないからである。つまり「誤解」という概念は使えないのだ。誤解というのは、後続行為者による理解とは独立に、先行行為者の行為の意味が定まる場合に、両者の乖離を指して用いられる概念である。それゆえ、先行行為の意味が独立に定まらないとする事後成立性命題と、そこから出発して張られる理論空間の内部では、「誤解」ということはあり得ない。もちろん、後続行為による先行行為への言及の中で「誤解」が用いられる可能性は排除されないが、たとえば「行為が接続する」といった一般的な理論的言明と同じ水準では「誤解」ということは原理的に登場不可能である。
他方で、これは、「誤解」という概念を用いるなら、旧来の理論空間の内部でも、上の経験的事実についての理論的言明を与えることができるということでもある。加えて、「誤解」というのは、社会的世界についての我々の直観的把握にとって馴染みのある概念である。以上から次の二点が言える。第一に、事後成立性から出発しない旧来の理論は、著者の与える事例によって不可能にされるわけではない。第二に、事後成立性から出発するならば、我々の直観的な世界把握を構成する大きな要素を、理論空間から捨象しなければならなくなる。
以上の指摘は、しかし、著者の理論に対する評価としてはいまだ中立的である。理論は、我々の直観的世界把握をそのまま反映するものでなくてもよい。一定の抽象は許容されるし、必要である。しかし他方で、その抽象によって、つまりその出発点をとり別の出発点をとらないことで、どのような利得があるのかを示すこともまた、理論家としては必要である。この点、本書はルーマン学説(についての著者の解釈)に依存しすぎていて不明なままである。
おそらくそれと密接にかかわる問題であるが、著者による行為理論的社会学理論の廃棄は、性急すぎると言わざるを得ない。行為単位の、それ自体としての同定可能性がかりに否定されたとしても、社会学が一種の理論的仮構として行為単位を設定し、そこから理論を出発させる可能性までもが否定されるわけではない。質量だけで体積のない物など存在しないという指摘が、質点から出発する力学体系の成立可能性を否定するわけではないことや、完全に合理的な意思決定能力を持った人間などいないという指摘が、そういう行為者から出発する意思決定理論に対する本質的批判にならないのと同じである。特にタルコット・パーソンズはこの、仮構から出発することの不可避性(したがって理論の必然的な抽象性)にきわめて意識的な理論社会学者だったわけで、その体系を葬り去るには、一つ一つの概念を単独で検討するだけでは不十分であり、体系全体に対する相対的評価が不可欠である。それには、そもそも社会学理論が目指すべきゴールはどこにあるのかについての明確な態度表明が必要であるが、本書にはこれも欠けている。
第二の論点として、著者が用いる概念の不明確さが指摘できる。これは、行為概念にも言えるし、コミュニケーション概念についても言える。「コミュニケーションも行為も本来は無定義語だ」(194頁)といった脱力的な言明にはうんざりだが、本気ではないのだと思うことにしよう。
さて、行為の事後成立性を主張する著者だが、事後にその行為が成立することになるその時点において、その段階ではまだ何も成立していない、とまで主張しているわけではない。このあたり、本書の言葉遣いは理解を妨げる程度に曖昧である。行為は――著者の理論の内部ですら――その時点で成立するのである。そうでなければ、「先行する行為に後続する行為が接続する」という命題自体が成り立たない。著者の議論にとって必要なことは、行為という単位を構成する様々な成分のうち、行為単位が成立するその時点で確定するものは何であり、永遠に不確定に留まるものは何であり、後続行為の接続を待って初めて、その後続行為からの言及においてのみ確定されるものは何なのか、といった、行為概念の分析的な特定化である。
行為の各成分の特定化は、「接続」にとって必要な性能という観点から行うことができる。著者は行為の接続を、「文脈」と「解釈」という概念を用いて解説している(191頁)。

行為はいわば事後的に成立する。
といっても、後の行為が全てを自由に決めているわけではない。後の行為は前の行為(列)につながることで、前の行為がなす文脈のなかにおかれる。その文脈のなかで自らの意味を成立させる。だから、あわせていえば、前の行為がなす文脈のなかにおかれた後の行為が前の行為を解釈していく。

正直言うと評者には、ここで著者が何を言っているのかよくわからないのだが(「自らの意味を成立させる」の主語は「後の行為」なのだと思うが、それなら行為の意味はその時点で決まることになるが、これは事後成立性と矛盾する)、表面的になぞってみても、次のことは言える。すなわち、行為には、(1)後の行為に文脈を与える、(2)前の行為が与えた文脈の中に位置を占める、(3)前の行為を解釈する、(4)後の行為による自らの解釈を可能にする、という少なくとも四つの互いに独立した性能が必要である。それゆえ、少なくともこの四つの性能に対応した四つの成分が、後の行為に依存することなく、行為が行われたその時点で、特定されていなければならない。つまり、(1)後の行為にどんな文脈を与えるか、(2)前の行為が与える文脈の中でどんな位置を占めるか、(3)前の行為をどう解釈するか、(4)後の行為にとって何が解釈の対象となるか、が、後の行為に依存することなく確定していなければならない。これらの点が確定していることが経験的に同定できない限り、著者の行為理論は経験的意義を持たない。もちろんその際には、「文脈」とか「解釈」といったことがどのような事態を指すのかが、経験的に指定されなければならない。
このように、著者が直観的に捉えているのであろう「行為の接続」という事態は、その内実をきちんと理解しようと思ったら、それ相応に慎重で精密な取り扱いを要求する。「事後成立」といった粗い特徴づけではまったく不十分であるし、「単純化すれば、前の行為が後の行為を決め、後の行為が前の行為を決めるわけだ」(191頁)などと、なんとなくの雰囲気的表現に甘んじていれば済むような問題ではないのである。
次にコミュニケーション概念だが、本書の最大の問題は、この本書における最頻出語がいったい何を指しているのか、まったく不明なことである。つまり、ルーマン用語の「コミュニケーション」なのか、「行為」概念が指示する経験的対象の、不確定性や相互接続性を強調した別名なのか、「行為」とは別に存在する経験的対象のことなのか(その場合には、我々の日常的言語直観にあるあの「コミュニケーション」のことなのか、独自のテクニカルな定義を与えられて指示される対象なのか)、あるいは、不確定性と相互接続性を備えているという要件によって定義される形式的対象を一般的に指示する概念なのか、判断がつかない。そのため、評者としては、著者のコミュニケーション理論をどう検討していいのか焦点を絞りきれない。そのため以下では、多少ぼんやりとした形で検討すべき点を挙げていかざるを得ない。
まず、「行為」の別名なのか、「行為」とは異なる事態を指す概念なのかにかかわらず、「コミュニケーションの接続」について論じる以上は、先に「行為の接続」から導出したのと同様の、コミュニケーションの成分分析論が必要であるが、本書にはこれも欠けている。
それと密接にかかわることとして、コミュニケーションが経験的対象であり、コミュニケーションの接続というのが経験的世界で生じている現象なのであれば、少なくとも上記の四点については経験的に同定することができなければならない。行為概念の場合と同様に、不確定な成分(意味)を強調することで、この点についての議論がない。
我々の日常的言語直観に依拠する場合には、困難はもっと大きい。「コミュニケーションが大事」などと言うときに指示されているのは、他人とのある種の関わりあいの全体のことであって、「接続」が可能であるような、始まりと終わりが画定した、あるいはルーマン的に言えば「生成の瞬間に消滅する」ような特定の事象ではないからである。「コミュニケーションの接続」というのは、あくまで学問的関心に導かれて成立する理論的構築物にすぎない。実際、本書でも、コミュニケーションがコミュニケーションに接続するということがどういう事態を指すのかについての例示は一つもない。
この点は、本書の中心的な主張にも疑問を投げかける。本書は、「コミュニケーションの接続」はそれ自体としての理論的記述が可能であって、ルーマンのように「システムの再生産」という契機を入れる必要はない、つまり「システム」は余計だ、と言う。「概念装置(説明変数)を一個多くする以上、そうすべき積極的な理由がなければならない。いわばシステムという概念自体の冗長性が問われているのである」(55頁)。評者としては、このような形での理論の検討はきわめて健全だと思うし、大賛成である。指摘したいのは、これと同じことが、本書のコミュニケーション概念についても言えるのではないかということだ。
実のところ、ルーマン自身、コミュニケーションを一つの事態として定義することに成功しているとは言い難い。本書でも触れられているように、ルーマンは、コミュニケーションとは伝達/情報/理解という三つの選択の綜合だという。コミュニケーションという一つのものが三つの選択へと分析できると言うのではない以上、三つの選択はそれぞれ別に同定できるものでなければならない。そうであってはじめて「綜合」ということが意味を持つ。ところが、ルーマンは「綜合」が何を指すのか明らかにしていないし、本書でも論じられているとおり、コミュニケーションという一つのものは観察されず、観察される場合には(伝達)行為に還元される、と言う。これは、我々の日常的直観と合致することではあるのだが、だとすれば、コミュニケーション概念によって指示されるのとまったく同じ事態を、三つの選択概念によって記述することが可能だということになる。だとすれば、コミュニケーション概念は冗長なのではないか。
さて、しかし、ルーマンにとっては、それでもコミュニケーション概念を用いるための、少なくとも動機はある。コミュニケーションは、ルーマンの定義による社会システムの、独自の作動であり固有の要素だからだ。コミュニケーションだけが真に社会的なものであり、真に社会的なものだけが社会システムの要素となりうるのであれば、社会システム理論を構築するという目的にとっては、コミュニケーション概念を採用することは冗長ではない。もちろん、そのような形での理論構築自体が冗長だという指摘は可能であるが、内的には一貫していると言える。
ところが、本書の場合、システム概念が冗長だと言いつつなおもコミュニケーション概念を用い続けているわけで、態度に一貫性がない。この指摘は、伝達/情報の区別がそれ自体として成立するのか、理解に依存して成立するのか、といった議論(227-228頁)とは独立に妥当する。いずれの場合でも、伝達/情報/理解という概念をうまく組み合わせて記述すればよいのであって、コミュニケーションという一つのものが成立したり接続する、というような言い方をする必要はない。システム概念は冗長であるが、コミュニケーション概念は必要であるというのであれば、その根拠を示す必要がある。
なお、ルーマン解釈論に入ってしまうが、以上の議論の明確化のために有用だと思うので、一点だけ、本書のルーマン解釈の明白かつ重大な誤りを指摘しておきたい。前段で触れた、伝達/情報の区別の成立は理解に依存するかしないかという論点に関してである。この点についてもルーマンの記述は要領を得ず、情報との区別を内蔵した伝達行為の成立を独立に認め、それとは別に、伝達/情報の区別を行う理解の成立を認めているのか、それとも理解だけがあるとしているのか、解釈に苦しむ部分ではある。どう解釈したら理論全体にどういう帰結が及ぶのかを検討することは重要だ。ただ、少なくともルーマンの所論においては、これは一つのコミュニケーションの内部での話であり、「事後成立性」の話とは関係がない。ところが本書では「理解」を、「後続するコミュニケーションの理解」(228頁)とすることで、先行するコミュニケーションにおける伝達/情報を、後続するコミュニケーションにおいて理解する、という話にしてしまっている。その結果、本来は、単に受信側の理解を待って初めてコミュニケーションが成立する(発信側だけでは成立しない)という意味にすぎない「コミュニケーションは後部から可能にされる」という命題を、事後成立性を表した文だと誤解している(230頁)。
この点にも見られるように、著者の理論は、実質的にはルーマンの理論とは大きく異なっている。にもかかわらず、見かけ上はルーマン解釈論に大きく負っているために、ルーマン学説研究の専門家にとってはその誤りばかりが目立ち、他方で理論をそれ自体として評価しようとすると、こちらはあまりにも説明不足である。本稿では、著者の理論を、まともな理論的検討の俎上に載せるために最低限必要な補足要求を提出することに徹した。その作業自体が完遂したとはとても思えないが、著者に対しても、評者を含む本書の読者に対しても、(この方向で進むなら)次のステップとして何を考えなければならないかについて、ささやかながら示し得たと思う。