「普遍理論は自己参照理論」は一般にはいえない

ルーマン先生曰く

 ある理論が普遍性を自らに課しているかどうかは、その理論自身がその理論の対象となっているかどうかを調べればすぐにわかる(理論自身を対象領域から排除するということは普遍性を断念するということだからだ)。
(中略)
 普遍性を自らに課す理論は自己参照的な理論である。
Soziale Systeme, p. 9-10

 これは明らかに間違った主張である。物理学理論は物理的に存在しているわけではないので物理学の普遍理論の対象にはならない。化学理論は化学物質からできているわけではないので化学の普遍理論の対象にはならない。生物学理論は生物ではないので生物学の普遍理論の対象にはならない。
 理論を対象領域から排除すると普遍理論でなくなるという言い方が一般に真であるのは、そこでいう普遍理論が、物理学とか化学とか生物学とか社会学とか・・・といった学問間の垣根を無化するような、本当の意味であらゆる対象を扱える真の統一理論である場合に限られる。しかしルーマンが提唱しているのは高々社会学の普遍理論にすぎないのであって、それゆえその文脈でいえば、普遍理論は理論自身を対象にしないといけないから必ず自己参照理論だ、という命題は一般には成立しない。
 ではどういうときに成立するかというと、こんなことは当たり前だが、〜の普遍理論というときの「〜」の定義が、理論自身にも適用可能な場合である。社会学なら、社会性の定義(「社会的」という形容が適用できるための条件)が、社会学理論自身にも該当する場合である。これは逆ではないので注意しよう。つまり普遍理論であるためには対象定義が理論自身に適用できるようになっていなければならないということではなく、単に対象定義が理論自身に適用可能な場合に理論が対象に含まれていないならばそれは普遍理論ではないというだけのことである。
 社会学の普遍理論が必要だ、社会学自体を対象とできる社会学が必要だ、という要請は、ルーマンの議論の根幹に位置するものであるがゆえに、両者の関係であるとかそれぞれの主張の根拠についてはきちんと把握してやらないといけない。
 Soziale Systemeは「いま社会学は理論の危機だ」という言葉から始まる。その意味は、要するに社会学の統一理論がないということである。ルーマンは自分の社会的システム理論を、社会学の普遍理論として作り上げ、これを社会学の統一理論として提出する。ここで重要なことは、上で見たように普遍理論すなわち自己参照理論でないのと同様に、統一理論すなわち普遍理論でもないということである。この本の序文でルーマンが主張していることは、実際には、「社会学を取り巻く現状を見るに、自己参照理論こそが社会学の統一理論として非常に有益だ」ということに他ならない。そしてこの点に限るなら普遍理論は出てこなくてもよい。
 議論をさらに進めるには、「理論の危機」についてのより具体的な記述、およびその状況打破に自己参照理論がどう貢献するか、について論じないといけないが、今日はもう眠いのでまた今度。