期待の相補性

Toward a General Theory of Action: Theoretical Foundations for the Social Sciences (Social Science Classics Series)

Toward a General Theory of Action: Theoretical Foundations for the Social Sciences (Social Science Classics Series)

自我は、「他我にはこれこれこういう行為選択肢があるだろう」と期待し、「他我の側でも『自我にはこれこれこういう行為選択肢があるだろう』と期待して、その中から『自我はこれを選ぶだろう』と期待し、それに合わせて自分の行為選択肢を選ぶだろう」と期待する。同様のことが他我の側についてもいえる。ところが相手が非社会的対象の場合は、自我はこういうふうには期待しない。つまり自我の行動に対して相手が何らかの期待をもち、それによって自分の行動を決めるだろうとは期待しない。他方、自我の行動は、その非社会的対象はこういう行動をするだろうという期待によって決められる。このように、社会的相互行為と非社会的対象に対する指向との違いというのは、自我となる行為者とその指向対象の両者ともにおいて、期待が作用するということにこそある。
この基本的な現象を、期待の相補性と呼ぶことにする。これは、二人の行為者が互いに相手の行為に対して向ける期待の内容が同じだということではなくて、各行為者の行為が相手の期待に向けられているということである。(p. 15)

この「期待の相補性」について、自他間で期待が調整されているという解釈がまかり通っている気がする。たとえば高城和義『パーソンズの理論体系』では、

このA・Bが相互にいだいている「役割期待」は、相互行為がなにほどか持続的なものであるとすれば、かみ合っていなければならない。(76頁)

ということが、「期待の相補性」だと言っている。
しかし、上の引用箇所を見ても、「かみ合っている」という条件は書かれていない。「(自分の行為の基礎となる)相手の行為への期待」が、自我でも他我でも成立していると言っているだけ。
上の引用文の直後には

だから相互行為のシステムは、自我の行為が他我の期待に、他我の行為が自我の期待に、どのくらい合致しているかという点から分析することができる。
Hence the system of interaction may be analyzed in terms of the extent of conformity of ego's action with alter's expectations and vice versa.

とあって、この分析の結果、「全然合致してない」という結果だってありうるわけだから、かみ合っているとか合致しているということを、期待の相補性という概念そのものの規定の中に入れるのは間違いだろう。
つまり、自他どちらでも、相手の行為に対する期待が成立しているからこそ、ではその期待と実際の行為の合致の度合いはどのくらいか、ということが問題になるわけで、多くの人が誤解しているのとは違って、この概念は、パーソンズの「解」ではなくて、「問題設定」なのだ。
この部分、邦訳

そこで相互作用の体系は、他者がいだく期待に対する自我の行為の同調性の範囲またその反対を条件にして分析できるものである。(p. 24)

としていて、in terms ofを「条件にして」と訳すのはいかがなものかと。