パーソンズ「社会学理論の中で究極価値が占める位置」

  • Talcott Parsons, 1935, “The Place of Ultimate Values in Sociological Theory,” International Journal of Ethics 45, pp. 282-316, reprinted in: Charles Camic (ed.), Talcott Parsons: The Early Essays, University of Chicago Press, pp. 231-257

 初期パーソンズの基本的な考え方を知るには『社会的行為の構造』よりもこっちの方が適している。『構造』は、本としての形式的な目標を「収斂テーゼ」の学説史的な確認にあてているため、その収斂先でありパーソンズが依拠している主意主義というのがどういうものなのか、なかなかわかりにくい(し、長すぎる)。『構造』を読む前にこっちを読むのがよいだろう。

個人の行為は統合された目的体系に基づいて行われるものだと考えざるを得ないというのがそうだとしても、複数の個人間では、まあ生物として生存するための限界というのはあるだろうけど、各人ランダムにばらばらの目的体系を持っているということもありうるのではないか。論理的にはその通り、可能である。しかし経験的には不可能だと思う。なんでそんなふうにいうかというと、二つ理由がある。第一に、一般的、抽象的な水準でいうと、もし目的体系が個人ごとにランダムにばらばらだったら、それは最小限の社会的秩序とも両立しないと考えられるからだ。なぜならその場合、各人の目的体系の大部分が、他人の目的をそれ自体価値あるものと認めるようなものである保証はなく、それゆえ他人を犠牲にして自分の目的を達成しようとする輩が出てくる可能性を否定できないからである。もしそういう連中が出てきたら、個人間の関係は権力闘争になってしまうだろう。権力というのはすなわち各人が自分の目的を実現するための手段だからである。これを制約する要因がない以上、生じるのは万人の万人に対する戦争、ホッブズがいう自然状態である。しかし個人間で究極価値の体系が共有されている場合には、この体系によって個人間の関係がどんなものでないといけないかが定義され、この関係を定める規範と、他人を手段として利用する仕方や、権力一般の獲得や利用の仕方について限界が定められることになる。行為というのは究極目的によって定められるものだから、このように共同体の成員の間で共有された目的体系が存在しない限り、カオス状態が生起せざるを得ない。つまり目的体系の共有というのは社会的安定性の必要条件なのである。(pp. 241-242)

The Early Essays (Heritage of Sociology Series)

The Early Essays (Heritage of Sociology Series)