作業メモ:『意味とシステム』

かりに、時聞をおいてシステムが同一であるとしよう。その場合、中断前の行為やコミュニケーションと再開後の行為やコミュニケーションが接続されるわけだが、この二つは当然、居合わせていない。だから、そのふるまいの当事者同士も「居合わせている人Anwesende」にならない。二つは時間的に隔たっているからだ。



佐藤俊樹意味とシステム』98頁

言葉の使い方がいい加減すぎる。
「居合わせている」はAnwesenheitの訳語として使われているわけだが、この概念は、参加者同士の相互知覚可能性として定義されているものであって、その意味でのみ使われているはずだ。行為・コミュニケイションの、時間軸上の中断をはさんだ時点間関係に適用できる概念ではない。中断があるから、つまり行為・コミュニケイションが時間軸上で隣接していないから、当事者同士が「Anwesende」にならない、ってこれどういう論理なの? 再会したんだから居合わせているに決まっているでしょう? それが再会するってことの意味では?
その直後の

つまり、かりに中断できる相互作用があるとすれば、まさにそれゆえに、それは「居合わせているということを前提」しない。



佐藤俊樹意味とシステム』98頁

もおかしい。相互行為システムが「居合わせている」ことを前提しないと論理的にいえるのは、参加者が居合わせなくなってからも相互行為システムが継続している場合だけである。居合わせている間は成立しており、居合わせなくなったら中断し、また居合わせるようになったら再開する、ということなのであれば、それは居合わせないと成立しないシステムだということである。
もし居合わせていることを前提としない相互行為システムがあるとすれば、それは中断できる相互行為ではなくて、居合わせなくなっても「中断できない」相互行為であるはずだ。そして、そんなものはない、と私は思う。