盛山和夫『リベラリズムとは何か』

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

盛山の「格差原理はマキシミンではない」という主張は根拠不十分である。

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(1)まず、格差原理がマキシミン的意思決定原理から導出されることから、両者を混同する人がいるといわれている。

多くの論者たちは、原初状態において正義の原理が導かれるロジック(正義の原理の導出論)にマキシミン・ルールが用いられたことと、正義の原理の一部を構成する格差原理の内容がマキシミン・ルールの適用であるということとを混同している。それはあたかも、民主主義的な投票によって大統領を選ぶということから、大統領の個々の政策決定をも民主主義的投票によって決めることになるはずだと考えるような、異なるレベルの混同である。形式的に言えば、Xという規範を選択するルールと、Xの内容とが同一視されているのだ。(p. 126)

こういう早とちりというか混乱をしてしまう人は結構いそうだが、アローやハーサニのような超一流クラスでこの混同をしているのは見たことがない。たとえばハーサニ論文では、意思決定原理はマキシミンと呼ばれ、正義原理は格差原理と呼ばれて検討されている。アロー論文では、格差原理をマキシミン規則と呼んで論じているが、意思決定原理の話はしていない。ちなみにそれゆえ、アローが

ハーサニと同様に合理的選択の基準としてマキシミン・ルールを適用することを問題にしながらロールズ理論が功利主義よりも優れているとすべき理由はないと批判する(p. 120)

というのは事実に反する。
 なお、盛山の指摘する混同は、ハーサニ型の効用総和主義においてこそ顕著である。そこでは期待効用最大化と平均効用最大化が同一視されるのである。が、この話はまたいずれ。

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(2)ロールズ自身が、格差原理をマキシミンと呼ぶことに反対していることを示す引用がされている。

経済学者は、格差原理をマキシミン基準と呼びたいかもしれない。しかし、私はいくつかの理由から、注意深くこの名称を避けてきた。マキシミン基準は、一般には大きな不確実性下での選択ルールと理解されているが、それに反して、格差原理は、正義の原理である。かくも異なっている二つの事柄に同じ名前を用いることは望ましくない。(p. 127)

しかしここで言っているのは両原理を同じ呼び名では呼ばないという呼称の問題であり、またマキシミンという名称が「不確実性下での選択ルール」であるのに対して、格差原理は「正義の原理」であるという違いがあるということだけである。後者の違いについて盛山は格差原理が

「マキシミンという選択ルールではない」ことが間接的に述べられている。(p. 127)

というが、重大な違いは「選択ルールであるかどうか」ではなくて、「不確実性下であるかどうか」ではないだろうか。つまり選択肢が籤(確率分布)であるか社会状態であるかの違いではないのだろうか。社会的選択理論では社会状態を選択肢とし、効用の最小値を最大化するような選択を導くルールをマキシミンと呼ぶが、先の引用は、ロールズの格差原理がそれと同一であることを否定する材料にはなっていないと思う。
 それよりも何よりも、1974年の論文「マキシミン基準を採択すべきいくつかの理由」で、ロールズ自身が格差原理のことをマキシミンと呼んでいるのである。

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(3)図4−1から、格差原理のいう「最も恵まれない人」がマキシミン原理のいう「最小利益者」でないことが明らかだという。しかしここでの議論はあまりに簡単すぎて、論拠が捉えがたい。まず、図4−1明らかに、格差原理が、曲線OP上の点を社会状態集合とするマキシミン原理であること示している

盛山は

ロールズが問題にしているのは、一瞬一瞬の社会状態ではなく、長期的な「制度的構造」である。(p. 129)

と述べて、それがマキシミン的解釈を否定する根拠であると考えているようだが、社会的選択理論が選択の対象とする社会状態集合はもともと抽象的なもので、適当な定義を与えてやれば「長期的な「制度的構造」(の帰結)」の集合として捉えることができる。また、

格差原理の「最も恵まれない者」が市場経済を基盤とする自由社会の中で不利な立場におかれている人々だということは、彼らが表4‐1の意味での[=マキシミンのいう]「最小利益者」ではないことを意味している。(p. 130)

ともいわれている。私にはこれがどういう意味なのかわからない。
 まず先の図4−1とのつながりが不明である。一つの解釈としては、曲線OPの形が特定されていることが、マキシミン的解釈にとって問題だということかもしれない(が確信は持てない)。次に、なぜ「市場経済を基盤とする自由社会の中で不利な立場におかれている人々」だと、「最小利益者」といえないのかも不明である。「市場経済を基盤とする自由社会」が前提になっているからだ、ということだろうか。これについても先に述べたように、社会的選択理論の社会状態集合は、この種の限定を受け入れる程度には柔軟な概念であるから、ここからマキシミン解釈は間違いだとまではいえない。
 さらにいえば、ロールズがここで「市場経済を基盤とする自由社会」を前提にしているのは、格差原理それ自体の性質に由来するというよりは、むしろロールズ正義原理の中で格差原理が占める位置に由来するというべきではないか。格差原理は、他人の自由を侵害しない限りでの最大自由への権利の平等という第一原理が満たされ、かつ機会の平等という第二原理の一部が満たされた段階で初めて適用される原理である。これらの原理が満たされた場合、可能な社会状態集合は「市場経済を基盤とする自由社会」で可能なそれに限定されることになるだろう。
 以上の議論が正しいとすると、盛山の議論によっては、格差原理それ自体がマキシミンであることは否定されないことになる。否定されるのは、ロールズ正義原理の全体がマキシミンだという解釈だろう。これは第一原理の優先性や、第二原理の内部での機会平等原理の優先性を無視した明らかに間違った解釈だが、社会的選択理論ではマキシミンがロールズの正義原理としてまかり通っているような気もする。
 なお、ロールズ正義原理が原初状態でのマキシミン選択だけを根拠としているわけではない、という指摘は完全に正しいので、この点は注意しておきたい。ただ、だからといって格差原理が(社会的選択理論でいう)マキシミンでないということにはならない、というだけである。