ロールズ「公正としての正義」(1957年)

  • John Rawls, 1957, “Justice as Fairness,” The Journal of Philosophy 54, pp. 653-662

米国哲学会東部支部のシンポジウム「公正としての正義」で報告された論文「公正としての正義」。ロールズの英語、読みにくすぎ。正義の原理の基本発想は、平等主義を基礎に、どこまでの不平等まで許容できるかを定めるもの(第一原理もそうだということに今回初めて気づいた)。以下、私の理解によるまとめ(むずいよー、英語が)。

  • [1]正義にとって公正は本質的だよ。効用主義はこれを含んでないからだめだよ。契約論はこの点でいいよ。
  • 第一節
  • [2]正義は制度の徳目であって行為のそれじゃないよ。制度というのは地位や権力を定義し、権利と義務を割り振るものだよ。
  • [3]第一原理は他人の最大自由と両立しうる限りの最大自由への権利を誰もが平等に持つことだよ。第二原理は機会が不平等だったり全員の利益にならないような不平等はだめってことだよ。この二原理は、「自由」、「平等」、「共通利益への貢献に対する報酬」という三つの観念の複合体だよ。
  • [4]第一原理は、自由度の平等という意味ではないから気をつけてね(これには全員が同じくらい不自由という事態も含まれるよね)。第一原理の意味は要するに自由度の分布のパレート最適という意味で、他人の自由を制限することなく自分の自由度を上げることができるのにそれを制限するような制度は不正だってことだよ。自由度の分布自体は不平等でもいいんだ。
  • [5]第二原理はどういう不平等ならいいかってことだけど、ここでいう不平等は地位の不平等のことじゃないよ。偉い人と偉くない人がいてもいいんだ。問題は、偉いか偉くないかで利益や不利益の不平等が生じるけど、その不平等がどんなものだと不正かってことだね。それで全員の利益になること、っていう条件をつけたんだけど、何が全員の「利益」であるかは社会ごとの常識で違っててもいいよ。
  • [6]で、不平等が「全員の」利益であるからには、どの地位から見ても、平等であったときよりも利益が大きくないといけない。それで、その地位につく条件は能力とかで差別的に決められていてもいいけど、とりあえず誰でもチャレンジできないといけない。
  • 第二節
  • [7]以上の二原理を正当化するのに、それをアプリオリな理性原理から導出することもできるし、直観的に正しいということもできるけど、以下ではちょっと違ったやり方をしてみよう。
  • [8]ある社会を仮設するよ。一定の制度ができていて、みんな利己的な動機からその制度に従っているよ。みんな合理的な計算能力を持っているよ。他人との格差それ自体を不満に思う人はいないとするよ。みんな欲しがるものやそれを手に入れるための能力は大体同じとするよ。
  • [9]で、あるときみんなが集まって、その社会の制度に不満な点はないかー、と相談するよ。いろんな種類の不満が出るだろうから、まずはどういう不満が正当かを決める原理を決めとかないといけないよね。で、不満が正当ってことは制度の方が不正ってことだから、これは制度の正・不正をわける原理でもあるよ。この原理をみんなから提案してもらうわけだけど、その際の条件は次の通り。自分の不満だけでなくて全員の不満を判断するための原理であること。原理についての合意ができない限り不満もいえないこと。ここで決めた原理はその後ずっと使われること。さて、将来ずっと使われるってことは、将来自分が今の地位のままであるかわからない以上、特定の地位に有利で別の地位に不利な原理だと、もしかすると後でえらい目にあわされるかもしれないよね。だからどんな地位の人にとっても納得できるような原理でないとこわいよね。
  • [10]この状況で、上記の正義の二原理が提案されたら、これは受け入れられるよね。将来のリスクを考えたら平等がいいけど、他人との格差は不満の種にはならないので(自分も含めた)全員の利益になるような不平等を許さない理由はないもんね。
  • [11]これは必ずこの二原理が採用されるという証明ではないよ。こういう正当化の仕方もあるよねってことだよ。
  • 第三節
  • [12]ところで、公正(フェア)って何でしょう。まず、公正かどうかが問われるのは、互いに同等の立場の人同士が協力して何かを生み出すときに、負担と利益の配分を定めるルールだよね。じゃあどういう配分ルールが公正かというと、不当な立場におかれている人がいる、と参加者の誰もが思わないようなルールだよ。ということはルールの公正さについて合意ができているときには、何が正当で何が不当であるかについても合意ができているということだよね。さて、前節のような設定で正義の二原理が合意されるとすると、この原理は公正なルールを定義する正当・不当の観念を定めるものだということになるよね。公正さが正義の概念にとって基本的なものだというのはそういう意味だよ。こういう意味で公正な制度ができている社会でないと、ほんとの意味での人々の協力はできないよ。そうでないと必ず何らかの強制力が働いてしまうからね。
  • [13]参加者が制度の公正さを認めるということは、その制度に従う義務(とか他の人に従わせる権利)を持つということだよ。社会への参加をやめない限りこの義務からは逃れられないよ。
  • [14]この義務はいわゆるフェアプレイ(単に規則に反しないだけでなくて制度趣旨に合致した行動をとること、抜け道禁止)の義務の拡張版だよ。
  • [15]フェアプレイの義務を承認すると、他人を自分と同じような人間・人格として承認することになるよ。
  • [16]以上のまとめ。
  • [17]
  • 第四節
  • [18]効用総和主義は、全員の効用関数が大体同じで限界効用が逓減すると仮定すると、正義の二原理と同じような平等主義を帰結するすることもあるけど、考え方の根本が全然違うよ。効用総和主義では、人々の間の関係というのを考えないんだね。
  • [19]効用総和主義も正義の二原理も奴隷制に反対するけど、理由が違うよ。前者は、奴隷所有者の利益が、奴隷自身の損害や社会全体の損害(奴隷制は非効率だからね)よりも下回るからいかんというのに対して、後者は、そもそも奴隷所有者と奴隷という地位の設定が正義に反するという時点で各々の利益なんかカウントしなくなるわけだ。
  • [20]両者の違いは、正義を基礎的なものと捉えるか派生的なものと捉えるかだよ。ところが、仮に効用総和主義が正義の二原理と同じ判断を導いたとしても、実はそうなるように個人の効用関数を設定する際に、正義の原理が前提になっているんだよ。効用主義は契約論なんて歴史的虚構だし表面的な仮説にすぎないとかいって、効用だけが現実の契約の基礎になるんだとかいっていたけど、そのようにいえるための前提に正義の原理という契約論のアイデアがあるなんて皮肉だね。