シンガー「効用主義と菜食主義」
Peter Singer, 1980, “Utilitarianism and Vegetarianism,” Philosophy and Public Affairs 9, pp. 325-337
著書『動物の解放』に対してトム・リーガンという人が「効用主義、菜食主義、動物の権利」という論文を書いて批判したのに対して応答した論文。シンガーは「動物の権利」論じゃないんだね。効用主義ってことは帰結主義なんだから、よく考えたら当たり前か・・・。
今井道夫『生命倫理学入門 (哲学教科書シリーズ)』には「シンガーの動物の権利論」(p. 110 ff.)ていう節があるが・・・。シンガー先生が何といっているかというと
『動物の解放』ではほんの少しだが「権利」という言葉を使った。が、そのほとんどはad hominemな議論の文脈だし、それ以外のところで権利という言葉を使ったのは先にも述べたとおり、大衆的なレトリックへの譲歩としてだった(『動物の解放』は哲学者向けの本じゃないからね)。(p. 327)
のだそうです。
以下、節ごとの要約。
- 第一節
リーガンは菜食主義を擁護できないから効用主義より権利基底主義だというが、それは本末転倒だ。菜食主義を主張すべきかどうかは、正しい理論がどう命じるかで決まる。私にとって菜食主義は手段であってそれ自体は目的ではない。これは状況によっては菜食主義を主張しない可能性もあるということだ。私は道徳的絶対主義ではない。肉食という行為それ自体ではなく、その結果こそが道徳的判断の基礎となる。
- 第二節
効用主義の肝は苦痛を最小化、快感を最大化すること。動物は苦痛や快感を感じる。だから効用主義道徳が考慮すべき対象であってこの点では人間と同じ。効用主義の平等主義は、各対象の効用を平等に考慮せよというだけであって、対象それ自体を平等に処遇しろといっているわけではない。この考慮の上での平等は、効用主義以外の多くの道徳理論が、動物は人間ではないというだけの理由で動物を道徳的考慮の対象から外していることに鑑みるに、効用主義の顕著な特徴だ。(時々効用主義は人間の都合優先主義だという人がいるがそれは誤解だ。)
- 第三節
現在の食肉産業が動物に苦痛を与えるものであることについては異論は出ていない。つまりそれが効用主義から見て理想的な状態といえないということについてはみんな同意している。問題は、だから菜食主義にすべきだ、と結論できるかどうか。そう結論できないという議論の第一は、問題なのは生育方法であって肉食それ自体ではない、というもの。快適に育て、無痛で殺せばいいというわけだが、現在の我々の状況からいってそれはまず無理。動物の命を人間の食欲充足の手段としか考えない場合、購買可能な食肉価格を維持するためにその生育水準を多少落とす必要があるならそれもしょうがないと思うはずだ。そうして水準はどんどん落ちていく。(私は安楽死問題についてはこの種の「滑りやすい坂道」論には反対だが、それは滑りやすさのリアリティの問題だ。)
- 第四節
菜食主義を結論できないという第二の議論は、肉食の撤廃によって減じる動物の苦痛と、同時に減じる人間の利益を較べて、前者の方が大きいと確言することはできないというものである。これはリーガンの議論で、彼は私がこの種の計算を始めてすらいないというが、不十分にしろ始めてはいる。食肉工場の惨状について記述し、菜食に代えても健康上、食糧供給上、味覚上の犠牲は少ないという議論も展開した。食肉産業で働く人々の損失については論じていないが、この種の損失は、長期的には利益によって相殺されると思う(菜食主義にすれば、家畜にやっていた穀物を飢餓民に安く提供できるし、心臓病や胃癌や大腸癌も減るし、食肉工場が消費していたエネルギーが減り、また糞尿も出ないので環境的にもうれしい)。仮に動物と生産者だけの話に限っても、動物の永遠に続く苦痛がなくなるのに対して、生産者の損失は一時的なものである。
- 第五節
第三の議論は、(マクロに見て)食肉工場を廃止すべきことはわかった、しかしなぜ(個人が)菜食主義者にならねばならんのか、というものだ。以前私は、需要が減れば供給も減る、という理屈をこねたが、一人が菜食主義になったって供給量は変わらねえよという批判が寄せられた。そりゃそうだと思った。でも菜食主義者が1万人いたら10万羽の鶏が救えるなら、これは1人が10羽救うのと効用主義的には同じであるからいいのだ。あと、菜食主義者になることが最も実践的で効果的な手段だと論じたこともある。もちろん肉を食べないだけではだめだ。しかし自分が菜食主義者になることで発言力が増すのも事実。それに本気だっていう証拠にもなるしね。