【没原稿】「功利主義の論理(仮題)」【未完成】

部屋の片づけをしていたらプリントアウトしたものが出てきたのでHDDを探したら電子ファイルも出てきた。

 今日功利主義はすこぶる評判が悪い。1970年代以降の道徳哲学ないし政治哲学がロールズの『正義の理論』に牽引され、そのロールズにとって最大の目標が、功利主義に対する包括的対抗馬として自分の「公正としての正義」を打ち出すことにあったことを想起するなら、これは学界の潮流として無理もないとも思える。功利主義が駄目なことはもう前提であって、さてその後継者として何が適当かというパラダイムが形成されているのである。だがそうした状況の中で、功利主義という名前を聞いただけで過去のものと即断し、それが何であるかを吟味することなく次の段階の議論に没頭するならば、そもそも自分たちは何を乗り越えて今の段階にいるのか、どのような問題を回避することによって現在のパラダイムが形成されているのかを忘却することになるだろう。そのとき人は、新しい皮袋に入った古い酒を見抜くことができるだろうか。功利主義批判の上に形成されたパラダイムであるからこそ、その内部で功利主義の精確な理解が欠かせないとも言えるのである。
 功利主義(utilitarianism)がどのような立場であるかを理解するためには、とりあえず、文字通り「効用(utility)概念を基礎とする学説の総称」という、最も一般的な規定から始めるのが便利である (1)。もちろん少なくとも現在の用法では、「効用概念を基礎とする」というだけでは功利主義十分条件にはなり得ない。効用概念を基礎としつつ、功利主義に対抗的な立場をとる学説がいくつも存在するからである。それでもなおこのような一般的規定を採用するのは、そうしなければ功利主義という立場の多様性と歴史的変遷を捉えることができないからである。

(1)だからutilitarianismの訳語としては「功利主義」よりも「効用主義」の方が適当だと思うのだが、本シリーズの性格上、以下では慣例に従って「功利主義」という用語を採用しておく。

 社会学の内部では、功利主義といえば行為論上の一つの立場を指すことになっている。すなわち所与の目的を実現するのに最も合理的な手段を選択することによって自らの行動を決定する行為者、という行為者モデルに基づいて、そのような行為者が複数集まった場合に彼らの行動が集積することによって所与の社会的状態が実現する過程を説明する、という一つの説明モデルが、功利主義的行為理論と呼ばれるのである。これはタルコット・パーソンズが、そのような過程で生じるのはホッブズの所謂「万人の万人に対する戦争状態」という安定性を欠いた秩序であり、であるがゆえにそうした行為者モデルは社会理論として無効、として大々的に批判したことによって、社会学理論の中心的テーマの一つとなった。すなわちパーソンズの批判に与する側はより安定的な秩序を導くような行為者モデルの代替案を模索し、これに対抗して功利主義モデルの有効性を信じる側は、このモデルを保持しつつホッブズの戦争状態を導かないような理路を模索することになったのである。
 このような行為者モデルが功利主義と呼ばれる根拠は、「所与の目的を実現するのに最も合理的な手段を選択する」ということを「所与の効用関数を最大する」というより抽象的な表現に置き換えることが可能であることによる。
 これに対して倫理学では、「何が善か」、「何が正しいか」といった規範論的な問いをめぐる立場の一つとして、功利主義という立場が存在する。用法としてはこちらの方が一般的であり、行為論的な用法は社会学内部の特殊語法のようである。この倫理学上の功利主義は、行為であれ制度であれ、それが正しいか否かは、それによって影響を受ける全ての個人の効用の総和によって決められるという立場である。以下の議論は、専らこの倫理学説としての功利主義に関して展開されることになる。にもかかわらず上で行為論としての功利主義にも言及したのは、功利主義をめぐって現在最も洗練された定式化と議論がなされているのが、行為論の系譜の最先端である経済学に、倫理学的な思考法を導入することによって成立した厚生経済学と呼ばれる分野、なかでも社会的選択理論だからである。
 厚生経済学及び社会的選択理論については次節以降で詳論するとして、本節では行為論的功利主義倫理学功利主義の共通点と相違についてまとめておきたい。共通点としてまず挙げられるのが個人主義である。行為論的功利主義では、各人が外部から行動を強制されることなくつねに利己的に振舞うと仮定して社会的状態を導出するのであるし、倫理学功利主義では、行為や制度の正しさを、それによって影響される個々人の効用だけに基づいて判断するからである。実際、功利主義の創設者の一人であり「最大多数の最大幸福」というスローガンで有名なジェレミーベンサムと彼に賛同する論者たちは「哲学的急進主義」(philosophical radicals)を名乗り、それまで伝統的であるというだけで存続してきた様々な制度に対して、個々人の効用の総和という点から次々にチェックをかけていったのである。
 他方、両者の相違点は、効用概念の序数性と基数性に関するものである。効用概念を基礎にするといっても、実は「効用」という語で何を意味するかについては、これまた様々な立場が可能なのである。さしあたり効用の値が実数値として与えられるとして、そうやって得られた複数の実数値に対してどのような比較可能性を認めるかによって、許容される数値の取り扱いが変わってくるのである。複数の効用値に対して最小限の比較可能性、すなわち大小比較しか認めない場合、このような効用を序数的(ordinal)と形容する。これに対して効用の差の比較をも認める場合、このような効用を基数的(cardinal)と形容する。基数的効用を用いる場合には、効用の増加量について考えることが意味を持つことになる。
 さて、19世紀の経済学(マーシャル、ジェヴォンズ、エッジワース)は限界効用分析として体系化されたわけだが、この限界効用(marginal utility)というのは財を一単位増やした場合の効用の増加量のことを指す概念であり、このことからも分かるとおり、増加量が有意味となる基数的効用を採用していた。ところが、20世紀から現在に至る経済学(パレート、ヒックス、サミュエルソン)では、限界効用分析は冗長であり、無差別曲線分析で同等以上の説明力を確保できるという見解が主流となっている。無差別曲線(indifference curve)およびそれに基づく限界代替率(marginal rate of substitution)の概念にとっては、複数の無差別曲線の間で選好の強弱が分かれば十分であるため、それぞれの無差別曲線に効用値を当て、選好の強弱を値の大小で表現できれば十分である。すなわち、序数的効用があれば十分なのである。このように、行為論的功利主義の現代的展開においては、序数的効用が採用されていることを確認しておこう。
 これに対して倫理学功利主義では、複数個人の効用値の総和を、複数の選択肢の間で大小比較する必要がある。和の大小比較が有意味であるためには(各人の効用の初期値は比較不可能であってもよいが)少なくとも差(増加量)が比較可能でなければならない。つまり総和比較が可能であるためには、基数的効用を採用しなければならないのである。

効用情報と社会的厚生関数

 功利主義とは何であるかという点について、とりあえず明確な規定が与えられた上で議論が展開されているのが、社会的選択理論(social choice theory)と呼ばれる分野である。この理論では、対象(普通は社会的状態)間の優劣を社会的厚生(social welfare)の値の大小によって決定する。この値は、個人の効用値の関数として決まる。これを社会的厚生関数と呼ぶ。n人の個人がいて、xとyという2つの状態のうち、どちらが社会的に望ましいかを知りたい場合には、まず個人の効用関数  U_1, \dots, U_n を知り、それをもとにして、それぞれの状態の社会的厚生の値  W \left( U_1(x), \dots, U_n(x) \right)  W \left( U_1(y), \dots, U_n(y) \right) の大小を比較すればよい。個人はそれぞれ好き嫌いがあったり欲の強弱があったりするので、それぞれ異なった形の効用関数を持っていると考えるのが妥当であるが、全員の効用関数が分かっている場合には、ともかく状態xとyそれぞれに関して、それらの状態が実現した場合に個々人が得るはずの効用値がそれぞれn個の実数(つまりn次元のヴェクトル)として把握できる。状態間に順序をつけようとする者にとって、この2組のn次元ヴェクトルがデータとなるわけだ。さて社会的選択理論が考えるのはこの先である。社会的厚生の値を大小比較するためには、各状態について、データとして与えられたn個の実数から、1個の実数値を導かなければならない。どうやって導けばよいだろうか。この問いがすなわち、社会的厚生関数をどのような形で描けばよいかという問いである。
 n個の実数から1個の実数を導くといってもやり方は無数に存在する。例えばn人のうち1人の効用値を、社会的厚生値として代表させようという発想が可能である。では誰の効用値を代表にするかという点で、いくつかの選択肢が分けられる。例えば各状態で最も効用値の低い人をそれぞれの代表にすることができる。社会的選択としては、n人の効用値のうち最小値同士を較べて値の大きい方の状態を社会的に望ましいと判断するわけだから、このような代表の選び方(つまり社会的厚生関数)はマキシミン(maximin)と呼ばれる。同様に、効用値が最大の人を代表とすることも可能である。この場合はマキシマクス(maximax)と呼ばれる。ところが、各状態における最小値、あるいは最大値が互いに等しい場合もあり得る。この場合、マキシミンやマキシマクスによれば社会的厚生の値も等しいということで、各状態間は社会的に無差別と判定されることになる。しかしいくら最小値、あるいは最大値の人にとって無差別であっても、他の人は状態間で異なる効用値をつけているわけだから、そうした人たちのことを無視してしまうのは問題だと考えることもできる。むしろどちらでもいいと言っている人を無視して、状態間で異なる値をつけている人だけの中でマキシミンないしマキシマクスを適用しようという考え方である。つまり値の小さい方、あるいは大きい方から数えて、最初に状態間で異なる値をつけた人を代表にしようという発想である。こうした社会的厚生関数をレキシミン(leximin)ないしレキシマクス(leximax)と呼ぶ。以上は全員の効用値のデータを見ながら代表者を選ぶ方式であるが、他方、データを見る前から代表者を決めておくという方式も可能である。その人の効用しか見ないのである。このような社会的厚生関数を独裁(dictatorship)と呼ぶ。
 以上の手順では、独裁を除いて代表者を決定するまでは全員の効用値を見るが、いったん代表者が決まった後は、選ばれなかったその他全員の効用値が無視されることになる。これに対して、代表を選ぶのではなく、ともかく全員の効用値を社会的厚生の値の決定に組み込んでしまおうという発想も当然あり得る。この種の社会的厚生関数も無数に考えられるが、功利主義もこの種の社会的厚生関数に含まれる。すなわち、全員の効用値を足し合わせるという操作によって定義された社会的厚生関数が功利主義と呼ばれることになる。つまり  W(x)=\sum_{i=1}^n U_i(x) である。ただしこれに留まらず、個々人の効用値の線形変換の和で定義される社会的厚生関数が広く功利主義と呼ばれることもある。つまり  W(x)=\sum_{i=1}^n a_iU_i(x)+b_i である。ただしこの場合、  W(x)=\sum_{i=1}^n b_i はxの値にかかわらず、つまり全ての社会的状態を通じて一定だから、状態間での社会的厚生値比較には無関係である。だからこの社会的厚生関数は、個々人の効用値の加重和で定義される  W(x)=\sum_{i=1}^n a_iU_i(x) と同じ状態間順序をつけることになる。これを加重功利主義(weighted utilitarianism)という。さらに係数  a_i の値が全て等しいときには、つまり  W(x)=\sum_{i=1}^n aU_i(x) の場合には、状態間順序が最初に示した狭義の功利主義と等しくなる。最後に  a=\frac{1}{n} の場合には、社会的厚生関数が個人効用の算術平均(arithmetic mean)となる。つまり  W(x)=\frac{1}{n}\sum_{i=1}^n U_i(x) である。いずれにせよ、個人の効用が線形結合ないし加法結合するのが功利主義的な社会的厚生関数の特徴である。
 さて社会的選択理論は、社会的厚生関数が満たすべき条件をいくつか組み合わせて、この関数がどのような形をとるべきであるかを導出するのが主題である。満たすべき条件を公理として立て、その場合に社会的厚生関数がとるべき形を定理として証明するのである。中でも有名なのがアローの不可能性定理である。個人の選好については予め特定のものを排除することなく(定義域の無限定)、全員の選好が一致している場合には社会もそれに従い(弱パレート)、二つの状態間に順序をつけるときには他の選択肢は無視して当該の二つだけに集中し(独立)、独裁は許さない(非独裁)という至極当然と思える条件を設定すると、社会はこれらの条件を同時に満たしつつ状態間に順序をつけることが不可能になるというのだ(2)。積極的な言い方をするならば、最初の三条件を満たすような関数は独裁となるというのである。これは一例にすぎず、公理とする条件をいろいろと変えることによって、社会的厚生関数の形は様々に特徴づけられることになる。

(2)厳密には、アローの定理は社会的厚生関数に関するものではない。彼の議論は、個々人の効用値ヴェクトルから社会の厚生値を導くものではなく、個々人の選好から社会の選好を導くものだからである。社会的厚生関数に関してアローの定理に類比的な定理を証明するには、本文の4条件を効用関数と社会的厚生関数に関するものへと適当に変形し、効用関数に個人内部での選好順序以外の情報(効用の強さや個人間での比較可能性)を認めず、さらに全員が当該状態間で等しい効用値を提示した場合には社会的厚生の値もこの2状態間で等しくなければならないという条件(パレート無差別)を追加する必要がある。Roemer (1996)の第1章を参照のこと。

 アローは上のように独裁を導いたわけだが、実はこの帰結はデータの精度に依存することが分かっている。つまりデータとして得られる効用値にどのような情報価値が認められるかによって、社会的厚生関数の特徴づけは変わってくるのである。アローがデータとしたのは個々人の選好順序だけである。これは、効用値に対して個人間で比較不可能な序数情報しか認めないということである(3)。つまりアローの定理は、個人内でのみ比較可能な序数情報という、社会的な望ましさを決めるためのデータとしてはこの上なく貧困な情報環境で証明された定理なのだ(4)

(3)例えば 、U_1(x)=2,  U_1(y)=1 というデータを見ると、つい「個人1にとって状態xはyよりも2倍望ましい」と読んでしまいそうになるが、効用値に序数情報しか含まれていない場合にはこうした解釈は許されない。ここから読み取れるのはあくまで「個人1にとってxはyよりも望ましい」ということだけなのである。これは個人内でなら効用値の序数的比較が許されるということだが、個人間でのこうした比較は許されない。例えば上の例に加えて U_2(x)=3,  U_2(y)=4 というデータが得られた場合、「個人1にとってはyよりもxが望ましく、個人2にとってはxよりもyが望ましい」という個人内序数比較が成り立つが、さらに例えば「いずれの状態でも個人2の方が満足度が大きい」といった個人間での序数比較に基づく解釈は許されないのである。
(4)換言すれば、アローの定理というのは、そんなに貧困な情報環境では、初めから代表を決めておくしかない(つまり独裁)ということを証明したのだといってよい。

 それでは効用情報を収集する段階でもう少し精度の高いデータを集めるように努めたらどうなるか。つまり効用値の情報価値をもう少し高めることに成功した場合、社会的厚生関数はどのような形をとるのか。結論から言うと、情報価値を高めることによって、社会的厚生関数がマキシミンや功利主義の形をとることがすでに証明されている。
 社会的厚生関数が功利主義的なものとなるための効用情報上の条件を確認しておこう。アロー型の不可能性から逃れるためには、効用情報が個人間比較可能な形で入手可能であることが条件となると言われている。一般に、個人間で効用の比較が可能であるためには、最低限の条件として効用の単位が共通でなければならない。加えて効用軸の切片の高さ(つまり初期値)が共通であれば、効用値の個人間比較が完全に可能になる。単位は共通だが切片の高さが異なる場合には、当然同一状態における個人間効用比較は不可能で、状態変化に伴う獲得効用の変化だけが個人間で比較可能になる。それでは功利主義的な社会的厚生関数の成立にとって、効用比較の条件としてどこまでが必要だろうか。まず切片の高さについて考えるために、ある個人kの効用関数を、U_k(x) から U_k(x)+b_k へと変化させてみよう。これはつまり個人kの効用関数を、効用軸の方向に  b_k だけ平行移動することを、すなわち効用軸の切片を b_k だけ移動することを意味する。このとき社会的厚生関数はどうなるか。
  W(x)=\frac{1}{n} \sum_{i=1}^n U_i(x)+\frac{b_k}{n}
こうなる。つまり状態xとは無関係な定数項が生まれただけであり、当然状態間の順序に変化はない。したがって、効用軸の切片の高さの変化は状態間の順序に影響を与えることがない。それゆえ平均功利主義において個々人の効用関数の高さはばらばらであっても構わず、ということは状態間での効用の完全比較可能性も不要であることが分かる。
 次に効用の単位について考えてみよう。いま仮に全員の効用関数の単位が共通であるとしておこう。そこでやはり個人kの効用関数を U_k(x) から a_k U_k(x) へと変化させてみる。これは個人kの効用単位を \frac{1}{a_k} 倍することを意味する。このとき社会的厚生関数はどうなるか。
  W(x)=\frac{1}{n} \sum_{i=1}^n U_i(x)+\frac{a_k-1}{n}U_k(x)
こうなる。これは、単位を縮小した場合(つまり a_k>1)には個人kの効用を贔屓目に見ることを意味し、単位を拡大した場合(つまり a_k<1)には個人kの効用を割り引いて判断することを意味する。当然状態間の順序は、個人kに有利なものへと変化することになる。このような事態はそもそも道徳的選好の本質たる不偏性の条件に違反する。したがって、功利主義的な社会的厚生関数の成立にとっては、個々人の効用関数の単位の共通性は不可欠の条件であり、状態変化に伴う獲得効用の変化を個人間で比較できる必要があることが分かる。
 実際、このような効用情報を前提にした上で、適当な条件を付与することで功利主義的な社会的厚生関数の導出が証明されている。ダスプルモンとジュヴェールは、アローの条件のうち弱パレートを強パレート(ある人の選好に対して反対の選好を持つ人がいない場合には、社会は最初の人の選好に従う)に、非独裁を匿名性(誰の効用であるかを無視)に強めると、単位が共通な個人効用をデータとする社会的厚生関数が功利主義になることを証明した(5)。他方マスキンは、加えて効用の初期値も共通(つまり効用値が個人間で完全に比較可能)の場合には、さらに連続性と無差別個人除去の条件を追加することで功利主義的な社会的厚生関数を得ている(6)

(5)D’aspremont and Gevers [1977: 203]、定理3。
(6)Maskin [1978]。

ハーサニの定理

 ハーサニもまた、社会的厚生関数が功利主義の形をとるような帰結を導いている。彼の議論の特色は、個人的効用関数と社会的厚生関数の持ち主をともに合理的決定の主体として考えていることである。合理的な個人の決定行動を表現するような効用関数をデータとしたときに、社会的厚生関数はどのような形をとるのが合理的か。この問いから、それは功利主義である、という答えに至る道を、ハーサニは3つ用意している(7)。公理論的アプローチが2つと、構築的アプローチが1つである。前者は期待効用を用いるか用いないか(つまりNM効用関数を用いるか用いないか)で区別される。

(7)「私はHarsanyi [1955]で3つの議論全てを提示しておいた。ところが、私の加法的社会的厚生関数の概念を批判する者の中には、私の結論を論駁するためにはこの3つの議論全てを論駁しなければならないという事実に気付いていない者がいるようだ。1つや2つ批判したくらいでは論駁にはならないのだ。3つの議論のうち1つでも成り立てば、私の結論も成り立つからである。」(Harsanyi [1977: 293 note 5])

 まずNM効用関数を用いない場合だが、これは効用の確率結合を行わないということなので、基本的に前節の定理と同種のものである。つまりパレート条件と無差別個人排除を公理とすると、社会的厚生関数は各人の効用値の和として特徴づけられることになる。つまり社会的厚生関数の持ち主を個人iとして、
  W_i(x)=\sum_{j=1}^n U_j(x)
となる。
 次にNM効用関数を用いるものだが、ハーサニの定理として有名なのはこちらの方である。ハーサニの本業は不完全情報下での合理的意思決定であり、そこで用いられるベイズ合理性、つまり期待効用最大化原理を社会的選択理論に持ち込むことによって、より弱い公理によって功利主義的な社会的厚生関数を特徴づけることができることを示したのである。すなわち、個人の効用関数も社会的厚生関数もともにNM効用関数であるならば、つまり効用の確率結合が可能であるならば、あとはパレート条件を仮定するだけで加重功利主義が導けるというのである。つまり個人iの社会的厚生関数が、
  W_i(x)=\sum_{j=1}^n a_jU_j(x)
となる。
 ハーサニの提出した3つ目の議論もNM効用関数を用いるものであるが、今度は公理論的な特徴づけ定理の形式ではなく、構築論的アプローチによるものである。ここで彼は社会的厚生関数が平均功利主義の形をとることを示している。
 この議論は、道徳的という概念の意味にほぼ完全に依拠している。ハーサニは道徳的観点というのは、個々人の効用に対して共感的だが、特定の個人に偏向しないような観察者の観点だと考える。不偏共感的観察者(impartial sympathetic observer)である。しかし自らもまた社会に生きる一員だとすれば、偏向のない判断などというものは普通にできるものではない。こうした視点に立つためにはそれなりの特別な努力が必要である。この特別な努力として、ハーサニは道徳的価値判断に際しては自分が誰であるかを一時的に忘れることを要請する。つまりロールズの所謂「無知の暗幕」のごときものを目の前に垂らすように言うのである。これは積極的には、社会の構成員のうち誰にも等確率でなり得るとしたら、と想像せよということである。社会にn人の個人がいたとしたら \frac{1}{n} の確率で全ての個人になり得ると想像するのである。これによって不偏性が保証できる。ところで社会的状態xが実現することによって各個人が得る効用はそれぞれ異なるはずである。だから等確率で誰にもなり得るというのは、等確率 \frac{1}{n} で効用 U_j(x)j=1,\dots,i,\dots,n)を得るということに等しい。不偏的で共感的とはこういうことである。このとき、道徳的観察者である個人iは、以上の道徳的要請の下で、合理的な価値判断をしなければならない。つまり期待効用を最大化するような判断が要請されることになる。すなわち、
  W_i(x)=\frac{1}{n} \sum_{j=1}^n U_j(x)
を最大化しなければならない。これはすなわち、社会的厚生関数が平均功利主義の形をとらなければならないということだ。
 ここで個人iが共感的であるということを、もう少し精確に把握しておこう。個人iは、状態xにおいて個人j (j=1,\dots,i,\dots,n)がどのような位置を占めるか、そしてどのような選好を持っているかを想像することになっている。状態xにおいて個人jが占める客観的位置を x_j、状態に対する彼の選好を R_j とすると、個人iは  [x_j, R_j] を組にして想像しているはずだ。このような形で想像された当該個人の客観的位置と主観的選好の組を、拡張選択肢(extended alternative)と呼ぶ。普通効用関数は状態の関数として定義されているが、拡張選択肢を前にしている個人iにとっては、効用関数はこの組の関数として定義される必要がある。それを V_i[x_j, R_j] と書こう。添字を見ると分かるが、これは状態xにおいて個人jが占める客観的位置で個人jの選好を持っているという仮設状況において個人iが得る(はずの)効用を表している。これを拡張効用関数(extended utility function)と呼ぶ。つまり共感的であるとは、この拡張効用関数を状態xに適用することを意味している。そしてこの場合、 U_j(x)=V_i \left(x_j,R_j \right) が成り立つ。つまり W_i(x)=\frac{1}{n} \sum_{i=1}^n V_i \left( x_j,R_j \right) ということである。

無知の暗幕

 さて以上のように、ハーサニは不偏的で共感的な観点に立った道徳的判断は、社会的厚生関数を平均功利主義の形に特徴づけるという議論を展開した。先ほども少し触れたが、この議論はロールズの議論と対比されることが多い。ロールズもまた、似たような設定を自らの正義理論の根底に据え、しかもそこから功利主義打倒のための対抗馬を導出してきたからである。有名な正義の二原理(他人の自由と両立し得る限りで最大限の自由への権利の平等を保証する第一原理と、機会の平等と最も不遇な人の福利増進によって社会経済上の不平等を制限する第二原理=格差原理)である。ハーサニ自身、設定の類似性を認めており、であるがゆえにロールズの議論を手厳しく批判している(Harsanyi [1975])。ロールズの方でもこれを受けて反論を展開している(Rawls [1974])。ところが両者の論争は誤解と誤解が重なり合ってわけが分からなくなっているので、慎重に解きほぐし、真の対立点を探し出す必要がある。
 ハーサニの批判は、無知の暗幕(veil of ignorance)という発想やよし、しかしどんなに設定がよくても、決定規則が不合理なら出てくる結論も不合理だというものである。具体的には、ロールズのようにマキシミンのような不合理な決定規則を採用すると(8)、格差原理のような不合理な原理を採用せざるを得ないから、合理的な決定規則である期待効用最大化を採用せよというのである。これは、マキシミンが決定規則として不合理だというのと、格差原理が正義の原理として不合理だという、2つの独立した判断から成り立つ批判である。

(8)もちろんこのマキシミンは決定規則であって、前述の社会的厚生関数としてのマキシミンとは全く別物である。

 不確実性下での選択にはマキシミンは不適で期待効用最大化が合理的という議論は、決定理論の専門家としての面目躍如と言ってよいだろう。マキシミンというのは各行為選択が導き得る可能性の中で最悪のものだけに注目して、それが最もましな選択肢に決めるという規則であるが、それぞれの帰結可能性に対する選好の強さと確率配分を完全に無視するという点できわめて不合理な規則なのだ。99%の確率で1億円が当たるが、1%の確率で100円損するような宝くじがあったとして、マキシミンは100円損するのが嫌だからといって買うのを禁じるのである。計算するまでもなく、期待効用最大化は当然買うことを勧める。
 他方、格差原理が不合理だという批判は、基本的に誤解の産物だと思う。ハーサニが出している例は、AとBが肺炎で死に掛けているが抗生物質が1人分しかなく、Aはその他の点では健康だから抗生物質を投与すれば全快するが、Bは末期癌で投与しても数ヶ月延命できるだけという場合、格差原理を適用するとせっかく全快できるAを見殺しにして、結局は数ヵ月後に死んでしまうBに投与すべきだという不合理な結果を導くという「患者の例」と、社会に1人分の教育を提供できる資金余剰が生まれた際に、格差原理は、天才的な数学能力とやる気をもったAの学費に当てるよりも、才能もやる気もないために効果もほとんど見込まれないBの補習に当てるべきだという不合理を導くという「学生の例」の2つである。これは、第1にロールズの格差原理が基本善(primary goods)の分配に関して定式化されているのであって、抗生物質や臨時的な余剰資金の分配に関して決められたものではないという点を見逃していること、第2に格差原理は不平等の許容条件であることを無視している(9)ことの2点において誤解である。

(9)いずれの例でも放置されたAは当初自分より恵まれていなかったBの方に近づいていく。つまりこの場合、事態は平等化の方向に向かうのであって、恵まれない人のためになるのであれば不平等もやむなしという格差原理の本義と無関係である。

 おかしいのはこれに対するロールズの答え方である。ロールズは不確実性下での決定規則についても格差原理についてもともにマキシミンと呼んでいるのでそれだけでも紛らわしいのだが、なぜか決定規則としてのマキシミンを擁護する文脈で上の2つの例に反論しているのである。曰く「マキシミン基準は、医者が患者を、あるいは大学が学生をどう扱うかといった小規模な状況に適用されるものではない。マキシミンはマクロ原理なのであって、ミクロ原理ではないのだ」(Rawls [1974: 142])。格差原理に対する批判に対してマキシミン決定規則を擁護していることになる。さらにこの反論に対してハーサニは「マキシミン原理を道徳原理として用いることに対して私が提示した反例に対する彼の擁護論は・・・」(Harsanyi [1975: ])と言って、上の引用文を引用し、規模の大小などは議論に無関係なのだと嘆息している。ここで言われている道徳原理としてのマキシミン原理というのは格差原理のことに他ならないわけだから、今度はハーサニがロールズの決定規則としてのマキシミン擁護論を、格差原理擁護論だと誤解しているわけだ(もちろん最初に誤解したロールズに責任があるわけだが)。要するに、論争になっていないのである。
 先ほども述べたように、本当のところは格差原理批判はハーサニに分が悪い。だが無知の暗幕の裏での決定規則として、ロールズが「マキシミンはマクロ原理だから・・・」などと言い出した点はどうなのだろうか。ハーサニはこれを格差原理擁護だと思って正面から答えていない。しかし実はこの点に、ハーサニ流の規則功利主義と、ロールズの正義理論の間の重要な相違が見えているのではないかと思う。
 両者はそれぞれ合理的と考える決定規則を用いて、それぞれある決定をしている。そのとき前提条件となる舞台設定もまた無知の暗幕と形容されるような匿名状況であり、これらの点について両者の議論はよく似ている。相違点は何が合理的な決定規則であるかをめぐるものであり、ここに結論の帰趨がかかっている。そう見える。しかし少し考えて気づいてしまえばあまりにも明らかなのだが、両者の議論は構造上全く異なっているのである。ロールズがマキシミン規則によって導出(というより排他的に擁護)しようとしているのは正義の構想である。具体的には、社会の基本構造としてはどのようなものが正義に適ったものであるかを決める規準である。だから一旦ある正義原理が採択されたならば、それ以降はそれを規準として基本構造の正しさが判定されることになる。これはつまり、マキシミンによる決定は、社会の基本構造の正・不正を判断するための規準に関する判断、いわばメタ判断なのだ。これに対してハーサニは、およそ道徳的判断は匿名的判断でなければならないと考えている。だからどのような基本構造が正しいかという問いに対しては、無知の暗幕の裏での期待効用最大化によって答えるべきだと考えている。すなわち、ハーサニの議論はロールズに較べて直接的なのである。次のように言えば分かりやすいかもしれない。無知の暗幕の裏で、ロールズは「正しいとはどういうことか」を決定しようとしているのに対して、ハーサニは「どれが正しいか」を決定しようとしているのだ(10)

(10)さらに言い換えるなら、ロールズは「道徳的判断とはどのような判断であるか」を決定しようとしているのに対し、ハーサニにおいては、当の決定がすなわち道徳的判断なのである。

 これはかなり大きな違いである。ロールズが「マクロ」という言葉で反論した気持ちもよく分かる。ハーサニにとっての問題は個別的で限定的である。その都度の争点によって、適用範囲も適用期間も限られてくる。その意味で、ハーサニにとって期待効用最大化による決定は複数的である。しかしロールズにとっては、決定は一回きりで、これにその後のあらゆる判断がかかってくることになる。この相違は、ハーサニが「規模の大小など・・・」と言ったときに考えていたであろう大小の差をはるかに越えるものである。問いの水準が違うのだから、そもそも両者を比較すること自体が無意味だとも言える。両者の対立点は、決定規則として何を採択するのが合理的かという水準ではなく、最初に道徳判断の規準を決定するのがよいのか、それとも個別的にその都度対処するのがよいのかという、根本姿勢そのものにあるからである(11)

(10)この点の指摘は、例えば渡辺 [2000: 84以下]などがハーサニ流のマキシミン不合理論をそのまま引き継いでいる状況を考えれば重要であると思う。

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功利主義に対する批判

 功利主義に対する批判はきわめて多数提起されている。これらの批判を体系的に理解するためには、功利主義という立場がどのような成分から成り立っているかを分析的に理解することが肝要である。この点、セン(Sen [1979])の整理に従うのが便利である。ここで、行為功利主義、規則功利主義、動機功利主義などを総称して、連辞符功利主義と呼んでおこう。センは連辞符功利主義を、まず連辞符帰結主義(12)と帰結功利主義に分析する。連辞符帰結主義とは、行為なり規則なり、連辞符の前に付く評価対象の正しさを、それによってもたらされる帰結の正しさと同一視する立場を指す。帰結功利主義というのは、帰結の相対的な正しさを、その帰結によって各個人が得る効用値の和の大小に対応させる立場である。両者を合わせると連辞符功利主義が構成されるのは明らかだろう。センはさらに、帰結功利主義を、厚生主義(welfarism)と総和主義(sum-ranking)に分析する。厚生主義とは、評価対象の正しさを、それによって各個人が得る効用だけをデータとして、その増加関数として評価する立場である。総和主義とは、この効用データの処理法として、各人の効用値の総和をとる立場を指す。やはり厚生主義と総和主義から帰結功利主義が構成されることは明らかである。

(12)ただしセン自身はこの総称を用いず、行為帰結主義、規則帰結主義などと言っている。

 以上の議論により、(連辞符)功利主義は、(連辞符)帰結主義、厚生主義、総和主義という三つの相互に独立した成分から構成されていることが分かる。センはこれらの全てについて徹底的な批判を展開している。
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 厚生主義批判は、可測性、個人間比較(不)可能性の種類にかかわらず、全ての効用概念に対して妥当であるから、当然個人間比較不可能な序数的効用に対しても妥当である。すなわち、効用関数を用いることなく、各個人の選好順序をデータとして社会的選好順序を導こうとするアローのプログラムに対しても有効である。つまり、効用から選好順序へとデータを変更しても、厚生主義批判からは逃れられない。
 ところがセンの周到さはここに留まるものでなく、より徹底的である。ポルノ小説を誰が読むべき(でない)かという例で有名な「パレート主義リベラルの不可能性」定理(Sen [1970])もまた、厚生主義批判に止めを刺すのである。パレート主義とは社会的評価においては全員一致を必ず尊重するという発想の総称であり、様々な変種が存在するが、その中でも最も弱い(つまり仮定にするに当たって最も障害が少ない)のが、二つの選択肢のうち全員が一方を他方よりも強く選好している(無差別の個人がいない)場合には、社会もまたその選択肢を強く選好しなければならないという、弱パレート主義である。さて厚生主義とは、社会的評価は専ら個人効用の増加関数でなければならないという立場であったが、このことは明らかに弱パレート主義を含意する。すなわち後者は前者の必要条件である。(これに対して、弱パレート主義は全員一致が存在する場合のことについて述べているだけなので、選好が全員一致していない場合には、効用(選好)以外の情報に社会的判断を依存させることが可能である。ゆえに、弱パレート主義は厚生主義の必要条件ではない。)つまり弱パレート主義が成り立たなければ、厚生主義も成り立たないのである。そして、上述の不可能性定理でセンが示したのは、弱パレート主義を認めるならば、どんなに些細な私事であっても、当該個人の評価が直接社会の評価になるような事例は一つとして認められないということであった。つまりパレート主義とリベラリズムは両立しないのである。上述の含意関係を想起するならば、これは、リベラリズムは厚生主義とも両立しないし、したがって功利主義とも両立しないということである。
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文献

Arrow, Kenneth J., 1963, Social Choice and Individual Values, 2nd. ed., Yale University Press
D’Aspremont, Claude and Louis Gevers, 1977, “Equity and the Informational Basis of Collective Choice,” The Review of Economic Studies 44-2, pp. 199-209
Harsanyi, John C., 1955, “Cardinal Welfare, Individualistic Ethics, and Interpersonal Comparisons of Utility,” Journal of Political Economy 63, pp. 309-321
Harsanyi, John C., 1975, “Can the Maximin Principle Serve as a Basis for Morality?: A Critique of John Rawls’s Theory,” American Political Science Review 59, pp. 594-606
Harsanyi, John C., 1977, Rational Behavior and Bargaining Equilibrium in Games and Social Situations, Cambridge University Press
Maskin, Eric, 1978, “A Theorem on Utilitarianism,” The Review of Economic Studies 45-1, pp. 93-96
Rawls, John, 1974, “Some Reasons for the Maximin Criterion,” The American Economic Review 64, pp. 141-146
Roemer, John E., 1996, Theories of Distributive Justice, Harvard University Press
Sen, Amartya, 1970, “The Impossibility of a Paretian Liberal,” The Journal of Political Economy 78, pp. 152-157
Sen, Amartya, 1979, “Utilitarianism and Welfarism,” The Journal of Philosophy 76, pp. 463-489
渡辺幹雄,2000,『ロールズ正義論の行方――その全体系の批判的考察』増補新装版,春秋社