アロー「ロールズ正義理論に関する序数主義的効用主義者のノート」

  • Kenneth J. Arrow, 1973, “Some Ordinalist-Utilitarian Notes on Rawls’s Theory of Justice,” The Journal of Philosophy 70, pp. 245-263

『正義の理論』の書評論文。盛山『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』では第一節の「資産平等主義」が第六節の「所得の完全平等化」と同一視されて批判されているがこれは間違い。後者はアローが間違えているが、前者は正しいと思う。この件はまた後日。

ロールズの正義原理の基本は「一般格差原理」。つまり自由、機会、所得、財産、自尊心の基礎といった社会的価値は、基本的に平等がよく、全員の利益になる場合にのみ不平等が許されるというもの。これは才能の(不平等)分布を共通の資産と考える資産平等主義。これには自分も同意するが、世の中には自分がつくったものは自分のもんだという「生産性原理」が根強い。ロールズは資産平等主義を自明視していて、生産性原理のことは考えていないが、これは原初状態からの契約論の含意ではある。より具体的な正義原理としては「自由の優先性」と「マキシミン(格差)原理」の二つの特徴が追加される。これが原初状態で無知のヴェールをかけられた(=普遍化可能性の要請)合理的個人たちの間で合意されるという。彼らはリスクを避けるので、一般格差原理、およびより特殊な正義の二原理が採用されるという。

効用主義は「自由の優先性」を保障できないのでいかんといわれているが、なぜその条件が必要とされているかをみると、それは原初状態の人々がそれを重視するからだという。しかしみんながそれを最重要視するのであれば、効用主義はそれを反映するはず。あと原初状態でのリスク回避性向で「マキシミン(格差)原理」が採択されているが、同じような設定でヴィックリーやハーサニは効用主義を導出している。というかvNM効用には効用値自体に対リスク性向が反映されているはず。またマキシミンは不合理だというのは定説になっている。この不合理に対してロールズは社会の利益は全員いっしょに上昇するという「連結性」を盾に反論するが、これは社会の実際の記述として誤りだし、もし連結性が成り立つならマキシミンと効用最大化の区別は無意味になる。

  • 第三節 「正義理論における認識論的論点」

(1)経済学で用いる効用関数は選好順序を表わす序数的効用であり、測定不可能である(序数主義)。測定不可能ということは個人間比較も不可能である。これで効用総和主義は不可能になる。ロールズのマキシミンの場合、効用単位の個人間比較は不要だが、効用値の個人間比較は必要なのでやはり問題。ロールズは効用関数を考えず、基本財の量の比較によってマキシミン(格差原理)を適用するというやり方でこの問題を避けている。しかし基本財が複数種類あるとそれをどうやって単一指標にまとめるかという指数問題が生じ、基本財は一種類だけと設定するなら、効用主義が効用関数を個人間で同一と設定することも可能になるはず(ただし認識論的な前提はロールズの方が弱いが)。
(2)原初状態でも事実認識についての相違はありうる。カトリックは事実として真理だ(からプロテスタントは抑圧すべきだ)と思っている人をどうやって論駁できるか。また原初状態では個人は利己的だという設定だが、利他主義を排除する根拠はあるのか。特定個人に結びついていなければいいのではないか。

  • 第四節 「効用主義について」

ロールズは平均効用主義を批判しているが、実はマキシミン(格差原理)をvNM効用関数を用いて平均効用主義の一種として記述することができる。ロールズは、効用主義だとある人が利益を得るために別の人に犠牲を強いることになるというが、それはマキシミン(格差原理)だって同じである(金持ちが犠牲を強いられる)。ロールズは、効用主義は各人の欲求を一つの欲求体系に融合させるからいかんというが、それはロールズも含めたすべての正義理論(完成主義とかは除く)に共通することである。

  • 第五節 「投票について」

ロールズは投票を重視していないが、政治的競争も経済的競争と同程度の機能を果たすし、個人が投票で自分の意見や利益を表明することは、正義が実現されたかどうかを知るために不可欠の情報処理ではないか。異なる個人が共同で決定するということをよく表す制度ではないか。

マキシミン(格差原理)は累進課税と再配分による所得平等化を導くように見えるが、課税増によるインセンティヴ低下により全体の生産性が減少するはずである。ところがロールズは不平等はあった方が全体の(最下層の)利益になるという。そうなるための適正な課税率の定め方についてロールズは何もいっていない。たとえば、課税対象を生産量ではなくて生産能力にすればインセンティヴ問題は解決する(能力の出し惜しみをすると損をするのは自分だから)。しかしその場合、能力測定において嘘をいう可能性が高い。自分の能力を正直に申告する義務が個人にあるか。また世代間分配問題は難しい問題で、効用総和主義なんかは将来世代に割引率を設定したりして考えるのだが、ロールズは原初状態論から、一定貯蓄率が定まると考える。しかしなぜ累進貯蓄率などではなく一定貯蓄率なのかよくわからんし、マキシミンを適用するなら(成長を仮定すると)貯蓄率はゼロないし負になりそうだ。ロールズは原初状態での動機に家系の連帯感みたいなのを入れることで対処しようとしていて、それしかないだろうと思うが、家族感情を入れていいんなら他の感情も入れていいことにならないか。何で家族制度だけが特権的に前提されるのか。貯蓄の負担が子供のいる家にだけ課されることにならないか。

  • 第七節 「正義の可能性に関する批判的ノート」

個人はそれぞれ不完全な情報しか持っていない。持っている情報の違いのために原初状態で合意が得られるとは限らなくなる。原理に合意が得られたとしても、その適用において対立が生じる可能性もある。また対立が存在することで、他人についての情報が得られるという正の価値もある。正義が支配する社会というロールズの調和的な社会観はいかがなものか。