憲法:形式的平等と実質的平等 司法書士試験過去問解説(平成22年度・憲法・第1問)
平成22年度司法書士試験(憲法)より。穴埋め問題の抜粋。設問の全体は、憲法:法の下の平等。
憲法第14条は平等原則を規定しているが,「平等」の意味には,幾つかの考え方がある。これらのうち,( )とは,現実の様々な差異を捨象して原則的に一律平等に取り扱うこと,すなわち,基本的に( A )を意味するが,これに対し, ( )とは,現実の差異に着目してその格差是正を行うこと,すなわち,( )を意味する。
語句群
- ア 法内容の平等
- イ 法適用の平等
- ウ 形式的平等
- エ 実質的平等
- オ 機会均等
- カ 配分ないし結果の均等
- キ 拘束される
- ク 拘束されない
- ケ 差別的取扱いは絶対的に禁止される
- コ 不合理な取扱いだけが禁止され,合理的区別は認められる
- サ 前者の考え方
- シ 後者の考え方
憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって」としていますが、上記の設問部分は、この規定をめぐる議論ではなく、そもそも一般に平等というのを考えるときに、とりあえず2つの立場を分けられますよ、という議論です。
どういう点で分けるかというと、現実の差異を「捨象」するのか、それとも現実の差異に「着目」するのか、ですね。
差異を「捨象」=無視するなら、個人間の違い、つまりその人がどんな個人かということは考えないで、その人が個人であるということだけをもって、すべての個人を同じに扱うことになりますから、「原則的に一律平等に取り扱う」というわけです。
差異に「着目」したうえで平等ということを考えるなら、そうやって着目した差異に対して、その差異をなくすことが平等を実現することになるでしょうから、「その格差是正を行う」というわけです。
設問の趣旨は、この2つの立場をそれぞれなんと呼ぶか答えよ、というものですね。しかも、「◯◯とは、・・・のことで、すなわち△△」というかたちの文ですから、「すなわち」のあとに、それぞれの立場の別名も書け、ということです。
さて、答えですが、まず、この設問が次の文章のほぼまるまるの引用になっていることに注目です。
形式的平等とは、人の現実のさまざまな差異を一切捨象して原則的に一律平等に取り扱うこと、すなわち基本的に機会均等を意味し、それに対して実質的平等は、人の現実の差異に着目してその格差是正を行うこと、すなわち配分ないし結果の均等を意味する。
この文章、またはここで言われている、
- 「差異を捨象」=「形式的平等」=「機会均等」
- 「差異に注目」=「実質的平等」=「配分ないし結果の平等」
という等式について知っていれば、ここの穴埋めは簡単です。Aに入るのは「オ 機会均等」ですね。
しかし、はっきり言って、この等式、この区別は、問題があるものと言わざるを得ません。この等式でいくと、機会均等は形式的平等でしかありえず、配分・結果の平等は実質的平等でしかありえません。「実質的な機会均等」とか、「形式的な配分の平等」といったものは語義矛盾であって考えることすらできない、ということになってしまいます。
しかし、常識的に考えれば分かることですが、たとえば、現実の差異(貧富の差とか)を無視して、「誰でも司法試験を受けられますよ!」というふうに、弁護士になる機会を「形式的」に平等化したからといって、それで実際に、「実質的」に弁護士になる機会が全国民に平等に保障されたのか、という疑問は残ります。
あるいは、収入と関係なく、「毎年元旦に、国が全国民に1万円ずつお年玉を配ります!」という法律ができれば、それは「形式的」な「配分の平等」でしょうし、「全国民の年収を一律500万円にします!」とすれば、それは「形式的」な「結果の平等」でしょう。
ところが、上の等式では、そういったことはありえないわけです。これは、明らかに定義に問題があるということでしょう。また、配分の平等と結果の平等とは全然違うものです。
実際、代表的な憲法の基本書を並べてみても、上の等式そのものズバリの定義が載っているものはないみたいです(芦部憲法がだいぶ近いですが)。辻村憲法は、「形式的平等/実質的平等=機会の平等/結果の平等」という等式に異論を唱えていますし、長谷部恭男『憲法 第4版』には、実質的平等/形式的平等の区別自体出てきません。渋谷憲法では、現実の差異を捨象/差異に着目によって、絶対的平等/相対的平等の区別を定義しています(この区別は野中他憲法にも出てきますが、上の形式的平等/実質的平等との使い分けは不明瞭です)。
19世紀から20世紀にかけての市民社会において、すべて個人を法的に均等に取り扱いその自由な活動を保障するという形式的平等(機会の平等)は、結果として、個人の不平等をもたらした。(略)そこで、20世紀の社会福祉国家においては、社会的・経済的弱者に対して、より厚く保護を与え、それによって他の国民と同等の自由と生存を保障していくことが要請される。このような平等の観念が、実質的平等(結果の平等)である。
憲法14条の保障が形式的平等か実質的平等か、という基本的な問題については、その定義を含めて憲法学説は必ずしも一致しているわけではない。一般には、形式的平等とは法律上の均一的取扱いを意味し、事実上の違いにもかかわらず一律に同等(均等)に扱うことを求めるのに対して、事実上の劣位のものを有利に扱うなどして、結果が平等になることを求めるのが実質的平等の原則であるとされてきた。ここでは、形式的平等と実質的平等が、おのおの機会の平等(機会均等)と結果の平等に対置されてきたようにみえるが、厳密にいえば両者の区別は次元を異にするといわざるをえない。
機会の平等と結果の平等という区別は平等実現の過程ないし場面に関するものであるのに対して、形式的平等と実質的平等との区別は平等保障のあり方に関するものと考えることができよう。
近代市民革命の時代において,平等とは形式的平等を意味した。革命の担い手となった市民階級は,身分制度が人間の自由な活動を妨げていると考え,生まれによる差別の撤廃,政治への平等な参加を求めた。そこでは各人を均等に扱うことによって,自由競争に公平に参加することの保障,つまり機会の平等こそが,平等であると考えられた。
ところが,この平等観を基礎とした近代社会は,結果として個人の不平等を生み出す。貧富の格差は,産業革命を経た19世紀末に向かつて,頂点に達しようとしていた。そこで, 19世紀中盤ごろから社会的・経済的弱者に対して,実質的公平の観点から政府が保護を与え,他の人々と同様の自由と生存を保障すべきとする考え方,つまり結果の平等が提唱され,徐々に受け入れられるようになっていく。このような平等観を実質的平等という。
(略)
各人の個性や能力などの相違を一切無視して,一律均等に取り扱うこと,すなわち絶対的平等が基本となる。(略)各人の相違を無視して均等に扱うことが,逆に不公平となることがある。この扱いを実質的にみた場合,現実に存在する不平等な状態をますます拡大する結果をもたらすこともある。そのときには,逆に各人の相違を考慮して取扱いに相違・区別を設け,実質的公平をはからねばならない。こうしてなされた平等な取扱いを相対的平等という。
渋谷秀樹 『憲法』 189-191頁