作業メモ:『意味とシステム』

ルーマン1984年になって、反省があれば臨在性=その場性(Anwesenheit)がなくても相互行為システムが成立しうると言い出した、その典拠となる箇所だ、と佐藤が(誤って)思い込んでいる引用文の直後にこう書いてある。

微妙な言い回しが続くが、ここでは相互作用システムは本質的にはシステムとして知られ、「行為する」ものとなり、「その場性」は代替的な境界設定原理にすぎなくなっている。一九九七年の『社会の社会』になると、「社会システムは(全体社会の場合もふくめ)自分自身を観察しているシステムとしてのみ成立する」とされる。



佐藤俊樹意味とシステム』56頁

相互行為システムの同一性が成立するための十分条件が、「臨在性」(1970年代)→「臨在性または反省」(1984年)→「自己観察=反省」(1997年)となった、と述べているようだが、大きく分けて二つの点で間違っている。
まず、社会的システムが自己観察なしには成り立たない、という議論は、1997年になって言い出したのではなくて、1984年の時点で、佐藤が引用している部分の直後ですでに述べられていることだ。

二重偶然性を作動に変換する際、コミュニケイションをする際、行為を構成する際には、必ず、システムへの割り当てが伴う。したがって、社会的システムは必ず、基本的な自己観察手続をとることができるようになっていなければならない。



Niklas Luhmann, Soziale Systeme, p. 618

次に、自己観察=反省という等式は成り立たない。まずルーマンの用語系では、観察と参照はほぼ同義である(区別してその一方を指示すること、として定義される)。そして反省は自己観察=自己参照の一種だが、反省だけが自己観察=自己参照であるわけではない。基底的と過程的という、反省でない自己観察=自己参照が存在する。
いま引用した箇所の直後は、こう続いている。

どんなコミュニケイションも、意識的か否か、話題になっているか否かはともかくとして、そのコミュニケイションがシステムに帰属するものであることを必ず示している。つまり、改めて帰属が問われた場合に、自らをシステムに帰属させることが可能であるということが、既定事項として示されているということだ。これは、コミュニケイションということの意味に必然的に含意されていることである。「コミュニケイションと行為」の章で述べたように、コミュニケイションは自らを行為という帰属可能な(縮減的)形式に変換することによって、コミュニケイション過程の自己観察を、つまりコミュニケイションにコミュニケイションで反応することを可能にする。この基本的な意味において、自己観察はすべての社会的システムに伴う(それを誰がどのくらい意識しているかというのはまた別の問題である)。そして、自己観察はコミュニケイションとしてのみ実現する。



Niklas Luhmann, Soziale Systeme, p. 618

言っていることはよくわからんが(笑)、ここで述べられているのが反省ではなくて基底的自己観察=自己参照の話であることは明らかだろう。システムの単位性を内部から同定する、という話ではまったくない。
佐藤が引用している『社会の社会』の当該部分も引用しておこう。

社会的なもののオートポイエーシスはどのようにして可能になるのか。
この点で決定的なのは、発話(ないしそれに類した仕草)には、発話者の意図が明確に表れるために、情報と発信の区別をすることが必要になるということである。また、この区別に対して、やはり言語的な手段を用いて反応することが必要になるということである。それによってはじめて、情報価値をもった情報というものが、この区別の一成分として、成立する。情報価値をもった情報とはすなわち、その情報を処理するシステムの状態を変化させるような情報ということだ(ベイトソンの有名な言葉で言うと、差異を生む差異、ということだ)。さらに、コミュニケイションというのは、自己観察能力をもった作動であって、この点であらゆる種類の生物学的過程と区別される。コミュニケイションはつねに、自らがコミュニケイションであることをも同時にコミュニケイションしなければならず、誰が何を発信したのかを標示しなければならない。それによって、そのコミュニケイションに接続するコミュニケイションが定まり、オートポイエーシスが存続できるようになるのである。このように、コミュニケイションはまず作動することそれ自体で一つの差異を生み出し、しかもそれだけでなく、発信と情報の区別という特別な区別を用いることで、そこに差異が生まれたことを観察するのである。
以上の知見はかなり重要である。それはつまり、発信を「行為」として同定することが、観察者による構築であること、すなわち自己を観察するコミュニケイションシステムの構築であることを意味しているわけだが、それに加えて、何よりもまず、社会的システムは(社会の場合も含めて)自己を観察するシステムとしてしか成立しえないということをも意味しているのだ。ということは、パーソンズや、現在行為理論として売り出されているすべての理論に反して、社会学は行為理論的な(つまり「個人主義的」な)基礎付けを放棄しなければならないということになる。



Niklas Luhmann, Die Gesellschaft der Gesellschaft, pp. 85-6

まあこれもよくわからんけれど、反省の話ではなくて、基底的自己参照の話であることは明らかである。



いずれの引用からも察せられるように、基底的自己参照というのは、出来事の帰属に関わる話である。システムに帰属されれば要素とされ、環境に帰属されればノイズになる。ルーマンの言っているのは、出来事をシステムに帰属させて要素として構成することによってのみ、要素の再生産=オートポイエーシスが成立するということであり、こと帰属が問題なのであれば、それは帰属先の単位性が確定的に捉えられていなくても可能である。「日本人の境界」がはっきりしていなくても、私は日本人だと言うことは可能であるし、「日本国の境界」について争いがあったとしても、ここは日本だ、と言うことはできるのである。