機能主義の方法論

  • Harry C. Bredemeier, 1955, "The Methodology of Functionalism," American Sociological Review 20, pp. 173-180


社会学への機能的アプローチとはどういうものかといえば、基本的には、社会的現象を理解するのに、何らかのシステムと結びつけて考えようとする立場だといえるだろう。ただ、そういうふうに一般的に言ってしまうと、その内部の違いが見えにくくなってしまう。機能的アプローチと一言でいっても、そこでは少なくとも二つの手続が、以下のように区別できるはずだ。

一つは、観察された行動パターンが、それを内部に含むシステムが維持されるのにどのような役割を演じているかを明らかにしようとする試みである。この場合、機能命題の一般形式「 y に対する x の機能は t である」は、「 y の存続に対する x に固有の貢献は t である」という命題に翻訳することができる。
他方で、この種の機能命題は、貢献される単位であるyを引き起こす原因についての命題だと理解することもできる。たとえば「 x は t という仕方で y に対して機能的である」という命題は、「 x は t のゆえにyの原因となっている」という命題と等価である。ただし、これは機能分析の対象単位であるxの原因について述べた命題ではない。

二つめのタイプの機能分析は、一つめのものとは明確に異なる。こちらは、観察された行動パターンの存続を説明しようとする試みだからだ。つまり、観察された対象に対して、それを引き起こす原因を問うアプローチである。

この二つのアプローチは、互いに混同されていることが非常に多い。一つめのアプローチから、二つめのアプローチに対する回答が得られると考えている人が多いのだ。どういうことかというと、あるパターンどんな機能的結果を引き起こすかについて述べることと、そのパターンの原因について述べることが同じことだと考えられているのである。つまり、「 y に対する x の機能は t である」という命題が、 x が y の原因だという意味ではなく、 t が x の原因だという意味にとられてしまうのだ。

ではこの混同によってどんな問題が発生してしまうのだろうか。それを明らかにするには、機能仮説を、 Lazarsfeld と Kendall が重要論文「調査分析の諸問題」(1)で示したモデルにしたがって検証可能な形に定式化してやることが有効である。この有効性を示すのが本稿の目標である。

  • (1) Kendall and Lazarsfeld [1950].

機能主義は、 x が y の維持において t という役割を演じている、ということを言おうとする。これは、 Lazarsfeld の言葉でいえば、 x と y の関係を、第三の要因 t によって解釈ないし説明しようとしているのだといえる。そして、そういってしまえば、これは通常の分析手続の一例にすぎない。以下、すでによく知られている機能分析の例をいくつかとりあげて、それを Lazarsfeld-Kendall の研究モデルにあてはめてみる。すると、どうやらそこには共通した形で一定の混同が見出されることになる。そこで最後に、そうした混同に陥らないですむための手続をいくつか提案しておきたい。では手始めに、 Kingsley Davis によるインセストタブーの分析をとりあげることにしよう。

インセストタブー。 Davis は言う。「なぜインセストタブーが存在するのか。この問いに答えないかぎり、家族、そして社会というものを、科学的に理解したなどとは誰にも言えない」(2)。では Davis 自身はこの問いにどう答えているのか。「インセストタブーがあることで、性的な関係や性的な感情は、夫婦間だけに限定され、親子間、兄弟姉妹間からは排除される。それによって混乱が予防され、家族の組織が維持されることになる。したがって、インセストタブーが存在するのは、それが家族の構造にとって不可欠な部分を成しているからである(3)

  • (2) Davis [1949: 402].
  • (3) Davis [1949: 402]。強調は引用者。

ここで採用されているのは、 x (インセストタブー)が存在することで t (混乱の予防)という結果が生じるが、それが y (家族の維持)にとって不可欠であるがゆえに、 t が x の存在の原因となる、というタイプの理屈である。さて、そんな理屈、はたして通用するだろうか。実は、この理屈が通用する分析水準がただ一つだけ存在する。それは動機分析の水準だ。たとえば、「スミスはニューヨークに行きたかったのでその列車に乗った」という文を、我々はちゃんと理解できる。つまり、この文では、その列車に乗ることによって生じるはずの結果が、その列車に乗るという行為の原因となっているわけだ(4)

  • (4) もちろん、スミスがその列車に乗ったという事実に対して、完全な科学的説明を与えるためには、スミスがニューヨークに行きたくなったのはなぜか、列車というものについて知識を持っていたのはなぜか、乗車券を買うだけのお金を持っていたのはなぜか、等々を説明する原因となるような先行経験を、スミスのそれまでの人生の中から探し出してやる必要がある。

では、 Davis のインセストタブー論は、実際、この水準の議論として理解することができるだろうか。実は Davis の分析には続きがあって、それを読むと、ことはそう単純ではないことがわかる。 Davis はこう述べる。「かりに、親子間の性的関係が許されたとしよう。すると、母親と娘のあいだに、また父親と息子のあいだに、ほぼ確実に性的な対抗関係が成立することになる。この対抗関係は、親子間に必要とされる一群の感情とは、相容れない種類のものだ。もし親子間の性的関係の結果として子供が生まれてしまえば、地位の混乱はいっそう顕在化することになるだろう。もっと言うなら、娘が父親に目をかけられた場合、彼女の立場は弱いものとなる。(中略)彼女は父親に対して依存と従属の関係に立つことになる。本来の性的関係には、互いの立場のある程度の対等性が含まれているものだ」(5)

  • (5) Davis [1949: 403]。

この種の議論というのは、どうすればその真偽を検証することができるだろうか。1000組の家族を無人島に集め、インセストタブーを撤廃し、その結果がどうなるかを観察する。これで先の機能的説明は、検証されたことになるだろうか。たとえば、この実験の結果、母親や娘や姉妹をめぐって、父親と息子のあいだに明確な対抗関係が成立するのが観察されたとしよう。また Davis のいうとおり、娘は父親に対して無力な従属関係に立たされてしまったとしよう。ところがその場合であっても、インセストタブーが存在する理由については、何の結論も得られないのだ。もしこの実験から、この理由について何か結論めいたことをいおうとするなら、タブーを守る家族が、守らなかった場合の帰結について認識しており、そのうえで、その帰結を避けるためにタブーを守ることにした、という議論にするしかない。

そういう議論にするしかない。するしかないのだが、しかしこれはちょっとありそうにない話だろうし、 Davis 自身、そんな議論をしたいわけでもないだろう。それに、かりにこの、各家族が帰結を予想して云々の仮定を設けたとしても、インセストの結果(対抗関係、混乱)を説明しつつ、同時にそれを避ける決断をも説明するという問題がそれで解決されるわけではない。こういうことだ。父親と息子がともに、同じ女性に対して性的な関心を向けたとしよう。しかし、そこから深刻な対抗関係が生じるのはなぜなのか。あるいは、父親と娘のあいだに男の子が生まれたとしよう。この子供は、「自分の母親の弟であり、つまり自分の姉の息子であり、(中略)自分の父親の孫である」(6)、というのはたしかにそうだ。しかしそこから「混乱が顕在化する」というのは、これは必然的な結果だろうか。そういう結果が生じるのは、「孫」と「息子」を相互排他的に定義するという、我々の親族用語法を、彼ら自身が用いている場合だけではないだろうか

  • (6) Davis [1949: 403]。

そういう議論にならないようにするには、対象の説明をそれが引き起こす結果からやろうとするのをやめるか、それがいやなら、動機という概念を導入することだ。たとえば、インセスト仮説をつぎのように定式化しなおしてやるなら、 Davis の議論の価値をちゃんと保持したままで、なおかつ、方法論的にも厳密な議論が可能になる。つまりこうだ。人々が互いにとりむすぶ地位関係には、性的関係に伴う感情とは心理的に両立しないような、権利や義務や感情を含むものがある(その地位関係がそのようなものとして文化的に定義されている)。たとえば我々の社会では、雇用主と秘書、教授と学生、父親と娘、司祭と信徒との関係は、そこに性的関係が入ってくると本来の責任遂行に支障をきたすようなものとして、慣習的に定義されている(もちろん、性的関係のあり方自体も、そのようなものとして慣習的に定義されている)。この場合、我々は、それぞれの役割の担い手が、性的な反応とは相容れないような反応をするように訓練されているがゆえにインセストタブーが存在するのだ、というふうに理解することができる。

仮説がこのような形になっていれば、 Lazarsfeld と Kendall の因果分析のパラダイムで検証することができる。そこで、観察の結果、母親-息子関係と性的関係のあいだに、つぎのような負の相関がみいだされたとしよう(もちろん、数字は想像上のものである)。


性的関係である 性的関係でない
母親と息子の関係である 100 900
母親と息子の関係でない 700 300

ここに見られる負の相関に対して、我々の仮説はつぎのように説明する。すなわち、母親と息子の関係は、性的反応とは両立しないような態度を要求する。そういう慣習なのだ、と。そこで、性的反応と両立しない態度という尺度をつくって、上の表を検証しなおしてみる。すると、つぎのようになった。


性的反応と両立する
態度が求められる
性的反応と両立しない
態度が求められる
性的関係
である
性的関係
でない
性的関係
である
性的関係
でない
母親と息子の
関係である
100 50 0 850
母親と息子の
関係でない
700 200 0 100


(推敲ここまで)
説明変数が定数である限り、最初に見られた相関はほとんど消滅したので、仮説が確証されたことになる。さらに、インセストタブーの理論は、名称こそ特殊であるものの、「特殊理論」ではないということも同時に確かめられている。このことに注意しておきたい。すなわち、この理論は、より一般的な社会的−心理学的原理の一つの具現化にすぎないのである。

ある意味では、右のような再定式化と仮説の検証では、デイヴィスが解決しようとした問題をただ避けて通っただけのように思えるかもしれない。つまり我々は、通常母親と息子は性的関係を避けるという事実を、母親−息子関係は性的反応を不可能にするような仕方で定義されているという事実を指摘することによって説明したのである。ところがデイヴィスが取り組んでいたのは、「母親−息子関係はなぜそのような仕方で定義されているのか」という問いだったからである。

ここで我々は社会学における機能的アプローチが陥っている混乱の核心に迫ることになる。混乱が生じるのは、(a)x(インセストタブー)の起源、(b)xの存続、(c)y(家族)の存続、以上三つの問題が体系的に区別されていないからである。人類学では、機能主義は歴史学派に対抗して発展してきたのではあるが、多くの論者は、歴史的起源を扱うのに機能的な分析技術を用いることによって、暗黙のうちに両者を結び付けようと試みていると考えられるのである。

機能主義によってインセストタブーの起源を問うことも可能であるには可能だが、そのためには進化論的な推論を行う機能主義の特殊版を用いることが必要であり、そのために特殊な概念化を行うことが必要である。その際の仮説は次のようなものになる。すなわち、性的反応を不可能にするような母親役割と息子役割の定義をたまたま持つようになった社会は社会化の遂行に関して有利であり、それゆえこのような社会だけが今日まで存続してきているのである。あるいは次のような仮説も可能である。右のような定義を持つことになった社会は近親交配の確率を減ずるため、生物学的に有利だったのである。

これらの仮説は直接検証することができず、例えば性的反応を許容するような役割定義では社会化を効果的に遂行することが不可能であることを発見するという、間接的な検証に頼らざるを得ない。しかし重要な点は、起源に関する問いと存続に関する問いとは別の問いであり、アプローチも異なったものでなければならないということである。先のインセストタブー分析に基づいて得られる暫定的な結論は、存続に関する問いは動機および態度の水準で概念化しなければならないということである。以下では、この結論が他のいくつかの機能分析の検証によってどの程度支持されるかを確認することにしよう。

ホピ族の雨踊り。ロバート・K・マートンはホピ族の雨踊りに関する機能分析を次のような言葉で始めている。「降雨量の増大を目的としたホピ族の儀式が迷信に基づいた民俗的慣習だと考えることは可能である。しかしここで大切なことは、そのように考えたのでは、いかなる意味でも集団行動の説明にはならないということである。しかし、潜在機能の概念を用いるなら、この行動が集団に対して一つの機能を果たしているのではないかという発想が生まれる。すなわち、分散した集団成員が集結して共同の活動に従事する機会を定期的に提供することによって集団の同一性を強化するという潜在機能である。」

(7)Merton [1949: 64-65]。強調は引用者。

右の分析もまた、ある出来事の原因をその結果によって説明しようと試みる類の分析であることは明らかである。しかしこの場合もやはり、この仮説は、参加者が何らかの満足を得るがゆえに(動機水準)儀式が行われると言っているのか、それとも集団の存続に貢献するがゆえに行われるといっているのか、どうもはっきりしない。仮説を検証可能な形に概念化するならば、この点は根本的な重要性を持つことになる。後者の解釈を意図しているのだとすれば、学問的な検証は不可能だろう。ただし、ここでもやはり、集団の同一性を強化することの価値にホピ族が自覚的であり、ニューヨークへ行くために列車に乗ったスミスと同様に、この目的のためということを意識した上で雨踊りを行っている場合は別である。

(8)もちろん、マートンは潜在という語を用いているのだから、このような想定をしていないものと考えられる。

他方で、雨踊りの儀式に参加することによって人々自身が心理的な報酬を得るということであれば、仮説は検証可能になる。

この場合、仮説は、無知は雨を降らすために踊るという行動の原因ではなく、連帯感や安心感を生み出すために雨踊りを用いるための促進条件であると述べているのだと理解できる。

この仮説を検証するためには、変数をより高次の抽象水準で概念化する必要がある。分析者は迷信に基づいた儀式を従属変数として、ここに雨踊りだけでなく、多くの社会で行われているあらゆる形態の集団的呪術を含めなければならない。このようにした上で、次のような関係を期待することができる(数字は社会の数を表す。もちろん想像上の数字である)。


迷信的儀式をする 迷信的儀式をしない
踊りと雨の関係について知らない 60 40
踊りと雨の関係について知っている 10 90

経験的因果関係に関する無知は、迷信と正の相関を示している。しかし機能仮説は、これは誤導だと言うのである。集団的儀式によって同一化の快感が得られる社会と、そうでない社会とを区別することができるならば、仮説に従って次のような数字が出てくることになる。

集団的儀式によって安心感が高まる 集団的儀式によって安心感が高まらない
迷信的儀式をする 迷信的儀式をしない 迷信的儀式をする 迷信的儀式をしない
踊りと雨の関係について知らない 60 20 0 20
踊りと雨の関係について知っている 10 25 0 65

「高まる」の表では相関が著しく減じ、「高まらない」の表では全く存在しなくなっている。これはつまり、無知が迷信と関係しているとするならば、それは経験的因果関係に関する無知が迷信を用いて連帯を促進するための必要条件であるからに他ならないという含意において、仮説が確証されたということである。


必要とシステム

以上で検討してきた二つの機能分析は、一定の行動パタンの原因をその帰結の中に見つけ出そうとする努力であると考えられる。ラザースフェルド−ケンドールのパラダイムに従ってこれらの分析を検証するとどうなるかという問いを提起することで、説明変数を動機水準に求めるような形で定式化する必要があることが分かった。

機能主義的思考はこのような形での定式化を行っていないために、もう一つの、より微妙な混乱に陥っている。すなわち、システムの作動に必要な一定の役割を演じることで充足されるはずの一定の個人的必要が、それ自体システムの別の側面によって生み出されるということを、体系的に考えることができていないのである。つまり、所与の文化パタンの機能(必要充足)を確定することだけに集中する機能分析は、決定的に不十分であり、したがって誤導的なものとなる強い傾向がある。対象とされるパタンを完全に理解しようと思ったら、それが「どんな必要を満たすのか」と問うだけでなく、「この必要の源泉は何か、つまりどのような文化パターンがこの必要を生み出したのか」と問わなければならないはずである。

例えば、人間有機体における発熱の機能は体温の保持であると述べたとすれば、それは近似的には正しい言明である。しかしそこに留まり、エネルギーと体温を保持する必要の源泉(つまりこの必要を生み出す有機体システムの特徴)を求めないならば、それは明らかに不十分であって誤導的である可能性すらある。例えば発熱はそれ自体好ましいものであるなどと考えてしまったとすれば、それは誤導だといえるだろう。

要点を一般化するならば、サブシステムの機能性は常に、少なくとも部分的にはより大きなシステムの特殊な組織化の結果と考えることが適当である。サブシステムに対して機能遂行の必要を生み出しているのは、より大きなシステムの組織化なのである。分析者がこの点を明示的に意識していなければ、自分が分析しているサブシステムの完全な経験的意義に対して概念的に盲目になってしまう。この点が明らかに示されている例が、ウィルバート・E・ムーアとメルヴィン・トゥーミンが最近書いた論文である。彼らは次のように書いている。「今日無知は、一般に社会生活の安定性や秩序ある進歩にとって、本性上敵対すると考えられている。」(9)この通俗的な見解に反して、「社会的構造や社会的行為において無知が一定の機能を遂行する文脈のいくつかを明示的に検討することが、本稿の中心的な目的である。」(10)彼らの言う「無知の機能」は次のように分類される(各カテゴリーの後に付した括弧内に彼らの推論の根拠、あるいはその例を要約しておいた)。

(9)Moore and Tumin [1949: 787]。
(10)Moore and Tumin [1949: 788]。

(1) 有利な立場の保持。(顧客や潜在的競争者の側での無知が専門家の交渉力に貢献する。また同位者の間で報酬が不平等な場合に嫉妬が起こらないようにする。)
(2) 伝統的価値の強化。(代替選択肢が複数存在することを知らなければ、代替選択肢を採用しようという気も起こらない。)
(3) 公正な競争の保持。(全ての人が他の全ての人の計画や資源について完全な知識を持っていたら、生じる結果は確実なものとなり、それ以上の行為は必要とされなくなる)
(4) ステレオタイプの保持。(官僚制的専門家同士が互いに他についてより広い知識を持つようになれば、彼らの相互関係の限定性が減じられることになるだろう。また階級や民族に関するステレオタイプは無知を前提にしている。)
(5) 適当な誘因の保持。(不確実性は不安を生み、不安は努力の拍車となる。また偶然が含まれるゲームの場合のように、リスクはそれ自体が選好の対象となる)

以上の例においてムーアとトゥーミンが無知という一つの経験的事実の観察から出発して、機能に関わる一般的な問いのうち限定的な問いだけを問うていることは明らかである。すなわち「無知はどのような行動の保持に対して貢献するか」という問いである。この場合、機能分析とは、もし正確な知識があったら違っていたであろう関係を考察することになる。もっと分かりやすく言うならば、ここで言う機能分析とは、人々は自分の状況定義に反応するため、もし彼らの定義を変更するならば、彼らの反応も変更されるという事実を指摘することである。定義の機能とは、当の定義から導かれる行動を保持することなのである。

しかし、正しい状況定義を持っていたら導かれるとムーアおよびトゥーミンが考えている逆機能的行動なるものについて、少し疑念を呈してみよう。ビジネスマン同士が互いに他の手の内を知っていたとして、本当にそれ以上の行為は必要とされないのだろうか。財やサーヴィスを生産する必要はないのだろうか。もっと重要なこととして、あるビジネスマンが他と較べてより効率的な手法を持っている場合には、他の全てのビジネスマンがその手法を学び、それを用いる方が、社会的システムに対する貢献はより大きなものになるのではないだろうか。

もちろん、競争者に打ち勝つ可能性こそがより大きな効率性を求める誘因なのであり、競争者たちが自分の手法を知悉しており、常に自分と全く同じ効率性を得られるということを当のビジネスマンが知っていたとすれば、この誘因は消滅してしまうという答えは可能である。しかしそこで何が前提にされているかを明示しておくことは重要である。つまり、効率性を保障するものとして、利益を求める競争のメカニズムという、特別な種類のメカニズムが前提になっているのである。このメカニズムの作動は、各人が特別な種類の動機指向を持つことによって可能になる。つまり、自分は他人よりも金持ちになるべきだという信念である。もし彼がこのような嗜好を持っていたとするならば、当然のことだが、彼は自分の手法が他人よりも効率的であることを秘密にしておくように動機づけられるだろうし、この秘密が破られた場合には気分を害することになるだろう。しかしこの隠蔽にはさらなる帰結が伴う。彼が競争者の顧客を全部取ってしまう(これは競争の終わりを意味する)か、あるいは、彼の効率性から得られた利益を社会が横取りしてしまうだろう。

ここで言いたいのは、ビジネスマンの無知が機能するのは、一定の制度的メカニズムの集合に依拠した結果だということである。無知がアメリカの経済制度の機能的必要物だというのはその通りであるが、そこに留まってしまうときわめて誤導的である。これは例えば、民族差別はアングロ−サクソンの覇権にとって機能的必要物だと言っているのと同系だからである。いずれの言明も十分に正しいものであるが、それは生産的な機能分析にとっては出発点を示しているのであって、そこで分析が終わるわけではない。無知や差別の機能性の源泉は何か(つまりどのような規範的指向によって機能的となっているか)。この指向はどのような帰結をもたらすか、また代替選択肢としてはどのようなものがあるか。

ムーアとトゥーミンの議論は単なるトートロジーではない(例えば代替選択肢を知らなければその選択肢が選択されることはない)が、全て上のような困難を抱え込んでいると考えられる。紙幅が限られているため、それぞれの議論を詳細に追うことはできないが、全てに関わってくる一般原理は次のように表すことができる。一つのサブシステムを唯一の準拠点とする機能分析は必然的に不完全であり、また誤導的になる傾向が強い。完全な分析とは、所与のパターンの帰結を問うと同時に、この帰結が機能的となる条件をも問うものでなければならない。後者の問いに対する答えは常に、個人の動機を含み込むような規範的指向と象徴的定義に求められなければならない。

以上の考察を、もう一つの有名な機能分析に適用してみるのが有用だろう。キングスレイ・デイヴィスとウィルバート・ムーアの階層分析のことである。彼らが自ら立てている問題は、社会規模の報酬配分における不平等という現象である。主な対象とされているのは威信と所得である。彼らはそれが社会的システムに対して果たす機能を指摘することで説明に代えようとしている。彼らが出発点とするのは、疑問の余地のない三つの事実である。(一)社会的構造の中のいくつかの位置では、他の位置に較べて稀少な才能と多くの訓練が必要とされる。(二)いくつかの位置は、他の位置に較べて機能的な重要性が高い。(三)あまり本質的でない位置は、より本質的な位置と[希少な才能をめぐって]競争できないということが[効率の最大化にとって]本質的である 。
 換言するならば、成員をそれぞれに見合った機能的役割へと分類するためのメカニズムを開発し、(デイヴィスとムーアが追記しているように)彼らがそれぞれの役割を進んで演じるように動機づける場合には、社会的システムはより効率的になるということである。デイヴィスとムーアによれば、この要請を満たすのに最も効率的なメカニズムは、位置の違いに応じて報酬を不平等に配分するものである。つまり、報酬が大きくなるほど、社会がその位置に与える重要性は大きくなり、その位置につくために必要な才能は稀少になるようなメカニズムである。もちろんこれは、経済理論では古典的な供給と需要の議論である。
 デイヴィス‐ムーアの議論が用いている基本的な論理は次のようなものだと考えられる。人々が自分の報酬を最大化するという動機を持っており、かつ、そのためには自分の才能に許された中で最も重要な機能を遂行しなければならないとすれば、彼らは社会的システムにとって最も効率的な仕方で役割構造に沿って自分たちを分配することになるだろう。

ここまでは完璧な議論である。しかし、彼らは続けて次のように結論づけてしまう。「社会的不平等は、最も良質な人が最も重要な位置を自発的に満たすことを社会が保障するために、無意識的に開発された装置である。」 ここまで言ってしまうと、前提から論理的導出として得られるわけでは全くないような経験的一般化を主張しているにすぎない。実際、二つの前提が持つ経験的な意義を完全に理解するためには、動機指向の構造的源泉とこの源泉に対する心理学的な順応過程を明示できるような水準で、これらの前提を概念化する必要がある。我々は次のような機能分析の手続規定が、そのような理解に貢献すると考える。
(一)システムの必要は常に、具体的行為者のどのような種類の行為によって具現化されるかという点から記述されなければならない。
(二)人々を必要な行為に導くのはどのような動機であるかを明示的に問わなければならない。
(三)動機に関する問いに対する答えの基礎となる心理学的原理は常に明示しなければならない。
(四)常に観察された任意の動機構造がもたらす全ての帰結を問わなければならない。

以上の規定を階層の問題に適用することで、デイヴィス‐ムーアのアプローチに対する代替案として、次のような分析を提出することができる。(各論点の後ろにつけた括弧内の数字は、その命題が従っている規定を指している。)

複雑な分業が効率的に作動するためには、人々が自分に最適な役割を自分の能力を尽くして果たすのでなければならない(一)。人々は自分の満足が最大になるように行動するため、自分に最適な役割を自発的に演じることによって満足が得られるようになっていなければならない(三)。人間に満足を与えるのは主に自尊心や自我高揚といった一定の規範的基準の充足である(三)から、この場合の規範的基準は自分に最適な役割を演じることで自尊心が導かれるようなものになっていなければならない(二)。

規範的基準が右に述べたのとは異なったもの、例えば自尊心が一定の位置や一定の所得に依存するようなものだった場合には、多くの人々が自尊心を剥奪されると期待できる(四)。自尊心が剥奪される場合、人々は損害を最小化しようと試みる。これは様々な種類の強迫性適応を導く 。強迫的な達成や支配、修正不可能性や攻撃性、服従儀礼主義、撤退などが挙げられる(四)。これらはどれも効率性に抵触するため、不安定性の源泉を構成してしまう。

以上の推論の確証性は、マートンによる政治機構の機能分析から得られる 。彼の分析を検討すると、上記の手続規定に従うことでどのような効用が得られるかを例証することにもなるし、さらなる精緻化も可能になる。

マートンは自ら、政治機構の説明を目的とすると述べている。彼の手続は以下のようなものだと考えられる。彼はまず社会的システムにとっての必要を問い、それに対する部分的な答えとして、積極的な処置が要求される場合に積極的な処置をとるのに十分なだけの権力を、少数の人間の手に集中することが必要だと指摘している。この要請を満たす動機の種類として一つ考えられるのは、公式的に規定された役割義務を遂行することに対する責任である。しかし、既存の役割の公式定義は、チェック・アンド・バランスを通じてまさに権力を拡散させるために作られているために、この動機は除外される。

結果として、人口内部の様々なサブ集団が処置を必要とした場合に、それを満たす公式的な構造は存在しないというのが結論となる。しかしここで言う必要とは何であり、それは何に由来するのだろうか。一つ考えられるのは、個人の制御を超えた力によって挫折を余儀なくされた場合の、援助の必要である。「ある人が友人、特に事情をよく知っており、何らかの対処をとってくれる友人を必要とするようなあらゆる種類の危機」 である。

さらに、援助は自尊心を喪失させるような危険のあるものであってはならない。自尊心の喪失は法的扶助の対価となることが往々にしてある 。剥奪階級の必要としてもう一つ考えられるのが、社会的移動および経済的成功の必要である。この必要の充足もまた、多くの場合公式的な制度構造によって阻害される。それゆえ政党組織やそれと組んだ脅迫組織のような非公式的な構造が安易な反応として出てくることになる。

しかしこの必要は何に由来するのか。それは支配的文化の規範的定義に由来するのである。「よく知られているように、アメリカ文化は「成功」の目標として金と権力に過大な強調を置いている。肉体労働[および慈悲への依存]に対する我々の文化的スティグマ化を所与とすれば、どんな手段を使ってでもこの文化的に賞賛された目標を達成しようとする傾向が出てくるのは明らかである。」

もう一つ考えられる必要としては、ビジネスマンが政治的助成を必要とするということが挙げられる。公式的な構造は重要な位置に才能を分配するメカニズムとして公正な競争の側に立つため、この助成を効率的に与えることができない。営利企業は自らの状況を安定化し、利潤の最大化という目的に近づくことを可能にするような特別な政治的助成を求めるのである。」 この必要は何に由来するのだろうか。マートンリンカーン・ステファンスを引いている。「不正を行い、それを隠し通せるだけの厚顔さを持った人間に、報酬として富と権力と喝采を与える我々の経済システム」 がその源泉である。
マートンの分析をモデルとすれば、機能分析に推奨される手続を次のように要約することができるだろう。
(一)生産的な分析は、相互関係からなる何らかのシステム、つまり観察対象が一つの部分をなすようなシステムを維持するために、どのような種類の行為が必要かを述べるところから出発しなければならない。
(二)その行為を生み出すのに必要な動機条件(当の行為を生み出すような規範的充足基準)について述べなければならない。
(三)実際に作動することによって分析対象を生み出している動機パタンを記述しなければならない。
(四)そのパタンの源泉を求め(ることによって観察された行為に関わる規範的基準を抽出し)なければならない。
(五)作動している動機がもたらす帰結を、必要とされた動機と比較しなければならない。この帰結には、当該基準を満たす努力に対する妨害への逸脱的な適応も含まれる。
(六)分析対象が果たしている役割を、それが一つの部分をなすシステムへの貢献において評価しなければならない。