1-1:行為の目的論的解釈とその批判 |『目的概念とシステム合理性』
- Niklas Luhmann, 1. Die teleologische Deutung des Handeins und ihre Kritik, in: 1. Kapitel Das Handeln und die Spezifikation seiner Zwecke, Zweckbegriff und Systemrationalität: Über die Funktion von Zwecken in sozialen Systemen, J. C. B. Mohr, 1968; neu gedruckt Suhrkamp, 1973, pp. 18-24
- 【読み比べ】馬場靖雄/上村隆広,『目的概念とシステム合理性』,勁草書房
行為の意味は目的の実現である、という命題は、今日ではもう自明ではない。ただ、その代わりとなるような行為解釈が出てきているわけでもない。結局、行為の記述として承認されているのはこの解釈だけであって、日常生活においてはもちろん、科学的な議論のなかですら、目的/手段図式はいまでも無邪気に用いられ続けているのだ。しかし、ずいぶん以前から、この行為解釈については、その真理要求はもちろん、妥当要求すら揺らいできているのも事実である。
近代の始まりとともに、自己意識をもった基体、主体こそが存在の根拠である、と考えられるようになった。他方で、一つの表象が複数の主体のあいだで共有される、という事態は自明ではない。主体が存在の根拠なのであれば、この表象の間主体性において、根本的な問題が露呈することになる。そこで、存在命題がすべての理性的主体にとって妥当する、といえるための批判的基準が新たに必要となる。それを求める強烈な光のなかで、旧来の主題はその真理内容を失い、旧来の問題設定はその意味を失うこととなった。目的の真理性は、まさにその一例である。かつて、目的はある種の存在者であり、存在者であるがゆえに真理でありえていた。ところがその資格は、近代科学の方法要求によって剥奪されてしまう。複数の主体のあいだで確実性をもって認識されるものだけが真理でありうる、という近代科学の狭い真理観においては、目的はそのような意味での真理ではありえず、主体ごとの表象だとされてしまうのだ。古代において、目的は行為の構造の一部分だった。目的追求の運動こそが行為の過程であり、運動が完了し停止するその頂点、終点が目的であった。それが現在では、目的とは、行為が引き起こす様々な結果のなかから、価値という点で選び出された一つの結果についての表象である。この表象は、それが事実として存在することは明らかだが、それが科学的研究の正しさを保証するかといえば、それは自明ではない。