序論:行為とシステム |『目的概念とシステム合理性』





伝統的な概念化では、目的といえば人間の行為の目的だった。だから、目的とは何かという議論も、行為論のなかで展開されてきた。その一方で、集団や団体や組織などの、複数の人間がかかわる行為複合体であるとか、あるいは精神的な意味形象や、自然界の対象について、そうしたものの目的を考える、という拡張的な用法がないわけではない。これはつまり、ありとあらゆる種類のシステムについて、そのシステムの目的を想定するような用法だ。さて、このような拡張的用法には問題があること、それでいくとどこかで破綻してしまうことについては、すでに指摘がある。他方で、この一連の議論の基礎になっている、目的とは行為の目的だ、という考え方に対しては異論がはさまれたことがない。目的概念をめぐる現在の議論状況に見られるこの二側面は、もしかすると互いに関係があるのではないか。本書ではこの着想を、さらに掘り下げていってみたい。つまり、システム目的の理論に問題があるのは、結局、目的概念が個別行為の目的として概念化されているからではないのか、と。

したがって、考察の中心にくるのは、行為とシステムの区別である。この二つの概念のあいだには矛盾がある。これが前提だ。行為概念とシステム概念が矛盾するのであれば、両者それぞれにおいて含意される、あるいは追求される合理性のあいだにも、質的な違いがあることになる。目的という概念が表すのは、なによりもまず、目的を掲げ実現する過程の合理性にほかならないからだ。

まずは、言葉遣いを決めておこう。意味に指向し、外部効果を有する人間の行動を、行為と呼ぶことにする。これに対して、きわめて複雑で、不安定で、完全に支配することのできない環境のなかで、自らの秩序と環境条件の双方に依拠して同一性を保つ現実存在のことを、システムと呼ぶことにする。これが広義のシステム概念だ。ただ、本書の研究目的にとっては、この概念化では広すぎるので、以下では、特に断らないかぎり、行為システムの議論に話を限定する。この行為システムとは、一人ないし複数の人間の具体的行為から成り、それらの行為のあいだの意味関係によって環境から区別されるシステムのことだ。

この用語法は、問いの理解を助けるための暫定的な取り決め以上のものではない。最終的な定義ではないし、ましてや、行為とかシステムという言葉で指示される対象についての、十分な解明になっているわけでもない。ただ、上の取り決めをみるだけでも、二つの概念のあいだに相互含意関係が成り立っていることがわかるし、そのことがまさに、本書のテーマの難しさを示唆している。行為概念の定義をみてみると、「指向」とか「外部効果」とか「人間の行動」といった概念が登場するが、これらの概念にはすでに内部/外部の差異が含意されており、つまりはシステム概念が前提されていることがわかる。システム概念の定義についても同様で、そこには自己維持する、とか環境とやり取りする、という形での能動性が前提されている。この能動性というのは、人間や社会的システムの場合には、まさに行為のことだ。

とにかく、行為概念とシステム概念を、上のように書きなおしてみてわかるのは、我々が、ずいぶんと古いディレンマの領域に足を踏み入れているということだ。古いディレンマ、それは、運動と実体という、互いに他に還元できない二つの基礎概念の問題である。このディレンマは、存在論形而上学の思考前提のもとでは、つねに中心的な位置を占めてきた。なぜなら、このディレンマにおいては、存在者の存在は永続的である、つまり存在者が存在しなくなることはない、という存在論の前提が破綻してしまうからだ。そして、この破綻を隠蔽するために用いられたのが目的概念だった。行為というのは一時的な存在者であり、ある時点では存在していても、次の瞬間には存在しなくなっている。存在論において、これは困った事態である。そこで、目的こそが行為の本質である、という議論をかぶせる。そうすると、目的がもつ永続性が行為の本質だということになって、破綻は見えなくなる。要するに、目的というものに注目することで、行為を実体として表象することが、つまりは運動を実体として表象することが可能になるわけだ。この思考前提のもとでは、まさにこの実体としての表象の可能性こそが、行為を合理的なものとして捉えることができるための条件である。この点に注意すると、目的概念が重視されるようになったのが、ギリシャ思想がソクラテス以前の哲学が取り組んでいた根源的で非現実的・図式的な問題を扱わなくなったあと、とりわけアリストテレスの行為論哲学においてであったことの理由がよくわかる。それは決して偶然ではないのだ。こうして目的概念は、スコラ哲学が自らの思考前提を隠蔽するための重要な補助表象の一つとなる(その第二はヒエラルキーの概念であり、第三は部分から成る全体の概念である)。伝統的な思考連関のなかで目的概念が担ってきたこの機能を考えるなら、この概念の重要性がいつまでも揺らぐことなく、それどころか「自然」扱いまでされ、行為の、いや運動一般の所与の本質として扱われてその地位を強固なものとしてきたことも、不思議ではない。一度そういう位置を占めてしまえば、それを疑問視するような態度はまともな研究とはみなされず、ただの誤りとして否定されてしまうわけだ。

西洋的な思考の原点にさかのぼり、そこから始まる思考伝統をたどること。今日の科学的研究なら、これが自由にできる。今日の科学は、一切の哲学的問いから完全に遮断されているからだ。ところが、その遮断されているということが、また再び研究の自由を奪う。科学が哲学とのあいだに不透過境界をつくったのは、もともとは、伝統の過剰な圧力から研究の自由を守るためだったはずだ。ところが、その伝統の力が壊滅してしまった今日においては、それが反省を封じる足枷となり、そのせいで科学の視野狭窄が起こり、かつての哲学思考に対するあまりに狭隘な解釈すら珍しくない、という有様になっている。そのせいで、科学的研究で用いられる基礎概念や問題設定は、かつての哲学的伝統からすれば枝葉の、その研究分野でしか通用しない、かつ最後まで考え抜かれていない浅薄なものとなり果てている。要するに、今日の我々を取り巻く状況は、かつてとは反対なのだ。だとすれば、存在論的伝統への指向は、よく引用される思想財を単に継承するというのではなく、適切な距離をとり、伝統との対話という形で行われるのであれば、それは自由の獲得を意味しうるはずなのだ。

この可能性については、本稿の主題ではないので、これはこのくらいにしておきたい。ただ、本稿の対象である目的合理性にしても、そこには歴史の手垢がたくさんこびりついているのであって、その本来の姿を見出すためには、我々の方が思想史を歴史としてきちんと捉え、そうすることで、思想史を過去へときちんと葬り去ってやる必要がある。本稿の出発点に据えた行為概念とシステム概念についても、必要な場合には、行為や存在者の同一性についての旧来の解釈と照らし合わせてやれば、議論がより豊かなものとなるような定義を施してある。

では、伝統的な行為論では、目的はどのようなものとして理解されていたのだろうか。伝統的行為論では、目的は行為の構造の一部である。それも、全体に意味を与え、正当化するような部分である。目的は行為の頂点である。あるいは、目的は行為の終点(テロス)である(1)。また、今日の言い方だと、目的とは実現されるべき結果である。目的こそが行為の本質だと考えることで、行為は存在としての永続性を獲得し、真理であるための資格を得る。今日の言い方だと、実現されるべき結果が有する価値によって、行為は正当化される。さて、これらの伝統的な目的理解に対して、我々はそれを「論駁」しようというのではない。我々の仕事は、この理解を可能にしている基盤を、新しいものに取り替えてやることだ。なぜなら、この伝統的な目的理解は、いまでは内部から脆くなってしまっていて、いろいろなところにガタがきてしまっていて、もう使いものにならないにもかかわらず、しかしまだ完全に捨て去られてはいないからだ。だから我々は、目的概念を理解するための基盤を、行為論からシステム理論へと移すことで、目的についての新しい解釈を獲得しようと思っている。その際、目的概念がかつての形而上学で担っていた、運動と実体との対立を解消するという機能については、これはもう過去のものとして置いていかれることになる。目的はもはや、行為の「本質」ではなくなる。だから、行為科学の、それ以上基礎づけられない基礎概念としての地位も失うことになる。では、システム理論の枠内で、またシステム理論の基礎概念のもとで、目的がどういう扱われ方をするのかといえば、それは、目的指向という形で、それ自体が重要な研究テーマとなるのだ。目的指向は、様々にありうるシステム合理化の様式のうちの一つ、という扱いになる。そうすれば、その機能を分析することもできるようになるし、それが機能するための条件を探求することも可能になる。さらにいうと、これは、特定の種類のシステムにおいて、目的指向を採用するかどうかを経験的に制御することもできるようになるということでもある。

  • (1) この古典的解釈では、物理的運動の終点は、それとは逆向きの認識運動の始点でもある。それゆえ行為は、始点から終点への循環のなかで、その本質を完成させることになる(この解釈についてはアリストテレス形而上学』1032a以下を参照せよ)。この循環こそが、存在者を存在者たらしめるのである。それゆえ、サイバネティクスにおける、無限の(それゆえ目的の存在しない)時間のなかで、既存のものに不断に適応し続ける循環とは異なる。したがって、古典的な理解においては、行為はその循環過程のなかでその行為に固有の目的を明らかにするのであって、それゆえ、行為は手段ではない。もし行為が手段だとしたら、その行為の外部に、目的として設定される価値ある結果があるということであり、手段としての行為は、その観点のもとで、別の手段としての行為と、原理的に交換可能ということになってしまうからだ。

このように、本稿ではシステムのなかで目的が担う機能を考えていく。この方向で考えるべき理由は、上にあげたもの以外にもう一つあって、それもやはり目的思想の歴史をひもとくとみえてくる。西洋の思想伝統では、合理的選択といえば、なんらかの目的に対する手段の選択のことであって、目的それ自体の選択のことではない(その目的がまた別の目的の手段と考えられる場合は除く)。なぜ目的が選択の対象とならないのかといえば、もともとは、目的とは実現を目指すべき価値である、つまり目的は真理である、ということが自明視されていたからだ。真理に選択の余地はない。これが、時代をくだってくると、まったく逆の理屈がいわれるようになる。目的というのは真理ではありえない。真理でありえないものが、科学の基礎となるわけにはいかない。だから、目的の選択に合理性などありえない、という議論だ(2)。このように、目的が合理的な選択の対象とならないという判断に、まったく正反対の二つの根拠づけが存在してきたわけだ。しかし、なぜそんなことになるか。それは、問題が正しく捉えられていないからだ。目的が不変なものとして設定されるのは、それが真理だからでも、真理でないからでもない。目的が意思決定過程のなかで担う機能が、目的の不変性を求めるからだ。この機能が目的の不変性を求めないのであれば、目的は不変でなくてもいい。したがって、目的の不変性は、システムに相対的な不変性にすぎないのであって、その機能が許す範囲内でならば目的の変更は不可能ではないのだ(3)

  • (2) 前者については、アリストテレス『ニコマコス倫理学』1112a以下を、後者については Parsons [1949: esp. 228 ff.] を、それぞれ参照せよ。
  • (3) 明示しているかいないかを問わなければ、この見解は、近年の組織科学の共通の出発点である。例として Barnard [1938: 195] あるいは Deutsch [1963: 195 ff.] を見よ。では合理的な目的変更の基礎となるのは何かという点については、近年、システム存立という考え方がよく用いられるようになってきている。一つ挙げるとしたら、 Johnson [1960: 284 ff.] を見よ。

実は、行為理論的な目的概念にも、システム概念が含意されていないわけではない。ただ、行為理論の枠内では、この概念を正しく捉え、展開することができないのだ。行為とは運動であり、その運動の終着点が目的であり、その目的は真理である、といった概念化自体は、かなり以前に廃れてしまっている。かわりに登場したのが、目的とは主観的な態度のことだ、という考え方だ。これはこういう理屈である。まず、なにかが真理であるためには、「機械論」的な因果関係のなかに組み込まれていなければならない。次に、目的をその因果関係のなかに組み込むには、目的は未来ではなく現在に存在するものと考える必要がある。そして、目的が現在に存在すると考えるには、目的とは主体による表象のことだ、と考えるしかない。こうして、目的とは現在に存在する表象であり、それが未来に起こる出来事の原因となる、と考えられるようになったわけだ(4)。つまり目的とは未来の状態である、などといっていたのでは、目的から真理としての資格が失われてしまうために、そうではなく、目的とは行為主体が未来に対する自分の態度を決定するための、その主体に固有の観点である、というようにいわれるようになったわけだ。ではそこで決定されるのはどのような態度か。それは、行為が引き起こす様々な結果のなかから、引き起こす価値がある結果というのをあえて決めて選び出す、ということである。これは同時に、そうやって選び出した結果以外の結果については、その主体がどうでもいいと思うか「目的に値する」と思うかにかかわらず、すべて脇によけてしまうということでもある。つまり、主体が自らの価値基準をつくりあげて、目的として設定される以外の結果については中立化してしまうのだ。ただ、主体による目的設定によって、それ以外の結果が単なるコストとして中立化されるといっても、別にそれらの結果がこの世界から消えてなくなるわけではない。目的を設定するとか、それ以外の結果を中立化する、といったことは、あくまでもその主体による表象のなかの話だ。つまり、誰にとってもそうでなければならない、ということではない。つまり、主体による態度決定としての目的設定は、それが真理であることを要求しないのである。

  • (4) このように、目的論的因果関係を、機械論的因果関係に還元して解消してしまう議論については、たとえば Weber の「クニースと不合理性の問題」のもの(Weber [1951: 128, n. 1] )、あるいは Kaufmann [1936: 80 ff.] を参照せよ。これは近代に特有の目的問題の捉え方だといえる。ただ、未来の出来事についての表象が、どうして現在のもの、つまり動機を生じさせる原因となりうるのか、については、この問題把握でもまだ説明できていない。なお、この議論に対する批判としてはすでに Sigwart [1889]; Wundt [1924: 628 ff.] があるので参照せよ。 また Ross [1933: 56] の指摘も適切である。

さて、以上の話は循環している。目的は、真理でありえない→主体のものだ→つまり特定の結果に対する主体の態度のことだ→その際、それ以外の結果は中立化するのだ→ただ、誰もが同じ態度をとらないといけないわけではない→真理でありえない、というふうに。問題は、この循環の担い手がどこにいるのか、だ。もちろん、この循環それ自体の中には出てこない。実は、この循環が成立する前提として、複雑で持続的なシステムが想定されている。システムは目的に先行する。だからこそ、システムが目的を設定する、ということが可能になる。それゆえ、目的から出発する行為の合理的構造の研究では、このシステムを捉えることはできない。目的というのは、単なる期待でもなければ、単なる願望でもない。目的が目的であるためには、その実現のために何かを手段として投入する準備ができていないといけない(5)。手段として投入する準備、というのは、それを犠牲として差し出す準備、といいかえることもできる。そのため、目的の設定は、意志の作用だといわれることが多い。しかし、意志概念が指示するのは、人格の全体性に対する(不完全で部分的なものであれ)反省のことである。この段階では、まだそこまでは必要ない。まずは、何かを手段として投入するとか、何かを犠牲として差し出すといったことができ、未来のどこかの時点における目的の実現を目指すのに十分なだけの、安定性と時間を有した何かが存在すればいい。しかし、そのように自らを投入し自らを拘束するもの(有機体、人格、集団、組織)は、目的/手段計算の外部に存在するはずだ。それがシステムであり、システムとはその計算の基礎となる「主体」である。先の循環を破り、スコラ哲学の目的論思考のように(もちろん議論の立て方と用いる概念は変更したうえで)、真理を直接参照できるような地位を取り戻そうとするのであれば、この、システムの基体性、主体性を考察の対象とせざるをえない。

  • (5) この点を強調しているのが Schutz [1962: 211] だ。

キルケゴール以降、選択する主体というものの地位は上昇し、もはや目的に束縛されるものではなくなった。アリストテレスのいうプロアイレシス、その目的合理的構造から、(少なくとも哲学の領域では)選択は解放されたのだ。とはいえ、この、目的をも自ら選択する自由な主体という表象も、いわゆる実存主義においては、不合理とはいわれないまでも、それは合理性を超越したものだ、と考えられている。つまり実存主義とて、目的合理性を行為の合理性と捉えて主体の関与を無視する旧来の立場から、依然として脱却できていないのだ。このように、目的に依存しない、にもかかわらず合理的であるような選択、そうしたものをどのように表象すればよいのかという問題は、まだ解決していないのである。

私が自分の目的を選択できるなら、他人も自分の目的を選択することができる。だとすれば、他人の行為について、今回もいつもと同じだろうと安易に考えているわけにはいかない。私が自分の行為を決めているあいだに、他人が行為の目的を突然変更してしまうことだって、十分にありうるのだ。私が恐れ、抗議すべきは、他人の愚かさと悪意だけではない。他人であるということそれ自体が、一つの問題なのだ。ここには、まったく新しい複雑性の次元が開かれている(6)。誰にでも共通の、真理としての目的というものの存在が否定され、目的というのは主体ごとに設定されるものだ、と考えられるようになったことで、他人もまた自由な自我である、つまり他我であると意識されるようになったわけだ。ヨーロッパの歴史のなかに、この問題を例示する事件を探すなら、それは16世紀の宗教戦争だろう。この新しい複雑性によって、合理性の意味は前代未聞の変化をとげることになる。もはや、何をすれば合理的かという内容について、それがあらかじめ決まっていると考えることは不可能になった。合理性とは何よりもまず、複雑性の縮減なのだ。

  • (6) Shackle [1961: 299] を参照せよ。

こうして議論は、主体としてのシステム、という話に戻ってくる。この議論は、目的に対する主体的な態度という表象に含意されているのだが、ここからはより明示的に主題化していく必要がある。主体システム論では、合理性の概念が、目的指向的で単純な行為の合理性から、より複雑で包括的なシステム合理性へと捉え直されることになる。この新しい合理性に、意味内容を与えるのが複雑性の問題だ。この新しい考え方は、様々な経験科学における最新成果と十分に適合する。この点については追い追い見ていくことにしよう。

合理性の概念が、行為のカテゴリーからシステムのカテゴリーへと移されるのにともなって、合理性にかかわる他の諸概念も、同じカテゴリー転換をこうむることになる。この転換の影響は大きい。(多くの場合気づかれていないが)「合理的」という言葉で理解されるものが変わってくるわけで、これはつまり、人間が人間にどこまで期待できるかという上限が変わってくる、ということだからだ。 Talcott Parsons は、その最初の主著のある重要な一節において、この考え方の入口にまでは到達している(7)。曰く、行為科学には、対象がある程度の複雑性をもっていることを前提にしていて、それゆえ個別の行為ではなく、行為システムについての命題だと理解しなければ意味不明になってしまうような、そういう科学的命題が存在する。その一例が、経済的合理性について述べた命題だ。この概念は、目的と手段によって定められる個別の行為だけを見ていたのでは理解ができない。経済的合理性をもつのは、個別の行為ではなく、行為システムなのだ。なぜなら、経済的合理性という概念は、手段の稀少性と目的の複数性を前提としているからだ、と。さて、しかし、 Parsons の議論では、目的と手段は依然として、行為の本質を構成する成分である(8)。となると、個別行為から行為システムへの転換をはかる Parsons の議論が、果たしてそこでとまってしまっていいものか、という気にはなってくる。目的や手段も、システムとの関係において捉えないかぎり、「合理的」という判断の基礎とはなりえないのではないのか、と。あらかじめ決まっている行為の本質が顕現したものが目的だ、という考え方をやめ、目的というものを、それが担う機能によって概念化しようとする我々にとって、この疑念はほとんど不可避である。

  • (7) ここで言っているのは「行為のシステムとその単位」の節(Parsons [1949: 739 ff.])のことだ。この議論を、 Parsons を引きつつさらに展開しているのが Schutz [1964: 80] である。
  • (8) 先に引いた著書の題辞として、 Max Weber の次の一文が引かれている。「人間の有意味な行為の究極要素についての考察は、つねに、まず「目的」と「手段」という二つのカテゴリーを用いざるをえない。」もう一つの例として、行政学を、行為の目的合理的構造に明示的に基礎づけようとする試みを挙げておこう。 Grazia [1960: esp. 363 f.]。

合理性のカテゴリー転換の必要性について、もうひとつ別の角度から論じておこう。目的とは、実現する価値のある結果の表象のことだ、とする。すると、このパースペクティヴでは、行為とは、その目的を実現するための手段である。この枠組みでは、行為が合理的であるためには、行為は手段でしかありえないのだ(9)。「自己目的」という言葉があるが、こういう無意味で自己矛盾した表現は、現実がその反対であることに対する恐怖と抵抗感を示すだけの、単なる標語にすぎない(10)。ただ、だからといって、あらゆる行為がつねに、一つの目的に対する手段として体験、共体験されなければならない、ということにはならないし、とりわけ、行為システムまでもが「手段でしかありえない」ということにはならない。特定の目的があって、それに対する手段としてでなければ、システムを合理的と判断することはできない、というのは、最初から前提にしておいていいことではない。道具性と合理性を同一視するということは、合理性それ自体を不十分で不完全なものと捉えるということにほかならない。この隘路から脱出するには、行為の合理性から、システム合理性とその条件の方へと視線を転じればいいはずだ。というわけで、やはり、システムの合理化に対して目的がどのような機能を担うのか、それを考えてみないわけにはいかないのである。

  • (9) この点、はっきり明示的に認めている論者はあまりいないが、一例をあげるなら von Jhering [1893: 13] が明記している。
  • (10) 「自己目的」というのがロマン主義的な神秘化にすぎない件については、 Burke [1962: 289 f.] がうまく指摘している。

それで、それを以下で考えていくのだが、それには五つの章が必要である。まず第一章は、個別行為の水準での行為解釈が主題である。行為とは何らかの結果を引き起こす原因であるという解釈と、その解釈に基づいて、行為を目的合理的に制御するという発想が、どれほどの影響力をもってきたのかを確認する。それによって、批判対象の輪郭がはっきりしたところで、第二章では、古典的組織論で目的概念がどう扱われてきたかを確認し、第三章では、その克服をめざす様々なアプローチのうち、最も重要なものをいくつかとりあげる。この作業をとおして、目的設定をシステム理論のなかで扱うべきだという理由が、十分に諒解されるだろう。他方で、基本的な考え方は確立していても、それに見合う理論がきちんと完成していないのも事実である。そこで、以上の議論を批判対象の紹介とみなすなら、ここまでは序盤であって、ここからが本番だ。続く二つの章では、目的思想を行為理論からシステム理論へと移行する作業にとりかかる。なかでも、第四章は本書で最も重要な章である。この章では、社会的システム、その特殊事例としての組織において、目的指向というものが、どんな機能を担っているのか、目的指向がその機能を担うために、システムの環境においてはどのような前提条件が必要なのか、目的指向が引き起こす派生問題にはどんなものがあるのか、目的指向を代替するような他の選択肢には何があるのか、といったことを、細かく論じていくことになる。最後に、第五章では、そこまでで得られた知見を補強するために、組織が目的プログラムを備えた場合に生じる問題をいくつか扱うことにする。


  • de Grazia, Alfred, 1960, "The Science and Values of Administration," Administrative Science Quarterly 5, pp. 362-397, 556-582

  • Ross, Alf, 1933, Kritik der sogenannten praktischen Erkenntnis: zugleich Prolegomena zu einer Kritik der Rechtswissenschaft, Levin & Munksgaard

  • Shackle, G. L. S., 1961, "Time, Nature, and Decision," in: Hugo Hegeland (ed.), Money, Growth, and Methodology and other Essays in Economics in Honor of Johan Akerman, CWK Gleerup pp. 299-310

  • Sigwart, Christoph, 1889, "Der Kampf gegen den Zweck," in: Kleine Schriften II, 2. Aufl. J. C. B. Mohr. 1889, S.24-67

  • Wundt, Wilhelm, 1924, Logik, Bd. I, 5. Aufl., F. Enke