新しい上司:第三節




  • Niklas Luhmann, Der neue Chef, Verwaltungsarchiv 53 (1962), S. 11-24




イントロ 第一節 第二節 |第三節



第三節

もちろん、前節で論じたもの以外にも、たとえば、組織内で意見が統一されているか、それとも分裂しているか、とか、組織の各成員が、組織に参加することによってどんな利益をどの程度得ているのか、特に、給料さえもらえれば仕事の内容は問わないという人と、組織の意思決定に積極的に関わっていこうとする人が、それぞれどのくらいずついるのか、とか、その組織の内部で指導者というものがどのくらい必要なのか、とか、外圧にどのくらい強いのか、とか、意思決定のルーティン化がどのくらい進んでいるのか、といったことが、新任上司の直面する状況の決定要因としては考えられる。

そういう要因をもっと挙げていけば、問題はもっと細分化されていくだろう。しかし、この節ではその方向に進むのはやめて、逆に、そうした様々な要因を統一的に見るための観点を呈示することにしたい。ひとことで言ってしまうと、特定の目的の実現を掲げる大規模な公式組織では、指導者役割の交代の制度化は部分的にしかできず、そのため必然的に多くの問題が未解決のまま残る。つまり、指導者が交代すると、期待が崩壊して不確実性が発生し、それゆえ新しい期待の秩序を安定化させることが必要になる、ということだ。

それによって組織は危機的な状況に陥る。しかし、それは、組織の存続が脅かされるという意味での危険ではない。組織の存続の危機は、慢性的に何度も発生する問題だが、それについては、そのつどの状況にあわせて期待を適当に修正すればそれで乗り越えられる。ここで言っているのはそういう危険ではない。また、配置転換のコスト、つまり後任者が着任後、しばらくのあいだは仕事の能率が落ちてしまう、といった問題のことを言っているのでもない。ここでいう危険とは、上司の交代にともなって新しく成立する期待が、公式組織が掲げる目的と適合せず、組織の指導構造にそぐわないものとなってしまう危険である。つまり、(まさに指導者が交代したことの結果として)古参たちが新任上司を排除する自閉的な非公式組織をつくってしまい、上司を、公式に与えられた権限だけに縮減してしまう危険である。その場合、部下たちは、上司の前では慎重で勤勉で働き者の公務員という完璧に理想的な役割を演じてみせる。上司はといえば、その舞台をみせられるお客さん扱いだ(22)。矛盾をはらんだ事態はすべて隠されてしまうので、上司は、部下たちの仕事内容について批判的な観点に立つことができなくなる。上司にしてみれば、こんなに頑張って仕事をしている部下たちの自己呈示に疑念の眼を向けるなんて、そんな失礼なこと自分にはできない、と思うしかないわけだ。

  • (22) この種の自己呈示のテクニックと、それが引き起こす問題については Goffman [1958] を参照せよ。

こうして、職務上の接触は毎日しているのに、コミュニケイション的には上司が孤立する、という事態が生じる。こうなると、部下があらかじめ選別しておいた情報しか届かないし、部下があらかじめ選別しておいた選択肢のあいだでしか意思決定ができない。自分の所属する組織なのに、外部から指摘されるまでその欠点に気づけないし、ようやく問題を把握したところで、今度は、部下によってあらかじめ用意されている説明と正当化を聞かされるだけだ。もちろん、公式組織が彼を上司という役割に据えているのだから、あくまでも職場で一番偉いのは彼なのだが、しかしその行動は、実は部下たちによって操られているのだ。彼の上司としての地位は、決裁とか、儀式とか、問題含みの企画を正式に認証するとか、システム要件を外部環境に要請するとか、そういったことのために、部下たちによって利用されるだけなのだ。

ところが、こんな秩序であっても、指導者の交代に伴って生じた安定化問題の解とみなすことは十分に可能である。こんな秩序でも、その問題の解としては満足に働くのだ。伝統的な組織論では、組織とは公式の権威のヒエラルキーのことだと考えるため、このような解の可能性についてはまったく考えてこなかった。また、部下を指導する技術については何世紀ものあいだ議論され、そのための理論、システム、実験、講座がいくつも存在し、数えきれないほどの文献が書かれていたのに対して、上司を操る技術については、あまり注目されてこなかった。しかし、実は、社会的システムの安定性にとっては、こちらの方が重要な場合が多いのだ。

とはいえ、一切の予断をふりはらってこの種の秩序の利点を評価した場合でも、一定の欠点が存在することは認めざるをえない。それは、組織と外部との関係における欠点である。上司を排除した非公式秩序が成立している場合、上司と部下のあいだでの実際の力関係が、組織として公式にあるべき姿とはかなりずれたものとなる。組織の外部の人からすれば、よもやそうした非公式な力関係ができていようとは思わないわけで、外部の人にとっては、公式に示される組織の姿を実態だと思うしかない。つまり、最も有効なコミュニケイション経路へのアクセスが、この人にはできない。これは、組織の側からすれば、結局、環境からの期待に応えられないということだから、適応上の困難が生じることになる。このように、この解にも欠点がある以上、次に考えるべきことは、他の選択肢、他に等価な問題解決はないのか、ということである。

その、他の可能性だが、実はここまでの議論ですでに触れてある。官僚制化と行為の公式化を進めることだ(23)。着任したばかりの上司は、公式組織を職場統制の道具として用いることができる。一般的な規則をすべての事例に適用することにし、厳格な管理体制を敷く。違反者は処罰する。このやり方なら、部下同士がつくっている非公式な関係が出てくる余地はない。部下たちは、それぞれ個人として扱われる。違反の責任をとらされる単位は、個人でしかありえないからだ。このやり方なら、非公式秩序は可能なかぎり縮減されることになる。もちろん、非公式秩序に固有の、感情的な結びつきとか、助け合いとか、贔屓とか、情報とか、取引とか、義理とか、安心感といったものも、全部一緒に縮減される。

  • (23) この対応策については、前出の諸文献でよく言及されている。例として Roethlisbeiger and Dikson [1939: 452 f.]; Gouldner [1954a: 59 ff.]; Carlson [1961: 216]; Grusky[1960: 109]; Grusky [1959: 463 ff.] を参照せよ。

上司の側からのこの対応策は、 Max Weber の言葉でいうと、非人格的・官僚制的支配の理想型にあたる。この指導体制は、小規模な目標を追求する小規模な組織であれば十分に実行可能である。米国の議論だと、この体制が絶対に失敗すると論じるのが最近の流行りだが、それは言い過ぎというものだ。

これに対して、大規模組織の場合は、この指導体制は成功しないだろうというのが、近年の組織研究の考え方である。少なくとも、大規模組織こそ公式的・官僚制的に運営すべきだという仮定については、組織運営の実際に照らして検証する必要があるだろう。上司の過剰負担の問題、成績評価基準における矛盾の不可避性、目的手段図式と権威の命令モデルに基づく古典的組織論の欠陥、気配りや信頼や贔屓や威信の差異や細かい社会上のサンクションによって行動を制御する個人指向の「自然」な行為システムがもつ利点、などなど、最新の研究成果をみると、高度に一般化したシステム制御への関心が喚起されているのがわかる。

システム制御の一般化ということでいうなら、まずは金銭報酬による操縦がテクニックとして考えられるが、それに加えて、上司と部下集団との個人的関係の強化ということも、特別な注目に値する。もちろん、「人間関係」運動の初期に見られた楽観主義は、懐疑論が活発になるにしたがって消え去っていった。個人的・人間的利益に配慮するほど公式の組織目的が実現しやすくなる、ということが一般に証明されたわけでもなければ、それで労働意欲を高めようという試みが特段の成功を収めたわけでもないからだ(24)。しかし、この運動の初期に行われた観察や実験を主導していた問いが、伝統的な公式目的組織の理論や、労働意欲の欠如問題によって決着をつけられたわけではないのだ。待遇の改善が、労働意欲の欠如の代わりになるなどとは、まったく期待できないのである。

  • (24) この点については Arensberg (ed.) [1957] に多くの実例が載っている。また Pfiffner and Sherwood [1960: esp. 364 ff.] も参照せよ。

さて、大規模なシステムを効果的に運営するのに、部下たちのつくる非公式な労働秩序の中で、上司が一定の機能を担うことは必要ではないのか、労働の現場を実際に支配している問題について、上司が認識している必要はないのか、昇進や管轄や情報源へのアクセスの配分を決めている裏の陰謀や要請や取引について、上司が通暁している必要はないのか、規則に違反したり逸脱したりすることの有効性について理解している必要はないのか、非公式の地位象徴や人物評価について心得ておく必要はないのか――要するに、上司がシステムに対して実質的な影響力を行使できるような体制である必要はないのか、といったことは、また別の問題である。上司という地位が公式に定められたものである以上、彼がそのシステムの鍵を握る人物であることは間違いない。あとは、当人のあずかり知らぬまま部下に利用されるか、自ら意識的にシステムを支配するかの違いがあるだけだ。

従来の研究では、公式組織が正統性を独占していたために、この種の秩序の存在は重要視されてこなかった。このため、その研究は始まったばかりであって、現時点で一般的な判断を下したり処方箋を書いたりするのはいかにも性急だ。とはいえ、多くの論者が共通して指摘していることがある。今日の組織研究には、事実的行動を対象とする社会学社会心理学の研究と、合理的なシステム制御の理論という二大潮流があるが、この二つの流れが一つに収斂してきているというのだ。指導者の地位が、非公式な機能に、つまり非公式秩序に対する貢献に基づいたものである場合には、大規模組織の運営が容易になり、信頼を前提とする委任や情報選別の可能性が、つまり一般化したシステム制御の可能性が開かれる。これはまさに、上司が公式に定められた行為だけに従事していたのでは、決して開かれることのない可能性である。


  • Arensberg, Conrad M. (ed.), 1957, Research in Industrial Human Relations: A Critical Appraisal, Harper

  • Carlson, Richard O., 1961, “Succession and Performance among School Superintendents,” Administrative Science Quarterly 6, pp. 210-227

  • Grusky, Oscar, 1959, “Role Conflict in Organizations: A Study of Prison Camp Officials,” Administrative Science Quarterly 3, pp. 452-472

  • Grusky, Oscar, 1960, “Administrative Succession in Formal Organizations,” Social Forces 39, pp. 105-115




イントロ 第一節 第二節 |第三節