新しい上司:第二節




  • Niklas Luhmann, Der neue Chef, Verwaltungsarchiv 53 (1962), S. 11-24




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第二節

なにか困難な状況になったとき、問題が発生したとき、関係に緊張が走ったとき、予期せぬ出来事が起こってしまったとき、我々はそれにどう対処しているだろうか。日常生活で非常に多いのは、誰かのせいにする、というやり方だ。その人の性格や行動様式のせいで起こったんだ、と説明するのだ。あいつ功を焦りやがったな、とか、保身に走ったな、とか、怠けやがった、とか、見栄っ張りはこれだから困る、とか、あるいは、こんなこともできないなんて無能なやつだ、といった感じである。日常的には、ほとんどの場合、こういう説明で十分間に合う。

しかし、本当は、個人の行動というのは、そのまわりのシステム条件に反応しているだけであることが多い。個人は、社会的秩序のせいで生じる困難に対応しようとしているだけなのだ。だとすれば、個人の行為の前提となっているシステム条件に目を向けることで、日常生活とは異なる新しいパースペクティヴと、新しい説明可能性が得られるはずだ。マルクスに非常に顕著に見られたように、それこそが社会科学に固有の物の見方である。

分業の進んだ社会的秩序では、ある問題の解決が別の問題を生む、という派生問題の発生が避けられない。このように、基本構造それ自体が原因となって有害な帰結が生じるようになっている場合、単純な解決は望めない。処方箋は、ない。もしあるなら、それを役割構造に組み込んでやれば話は終わりだ。困難な事態はもう発生しない。しかし、それが、関係する個人の性格とは無関係に生じるシステム上の帰結である以上、それは類型的に、繰り返し生じてくると考えられる。だとすれば、その種の困難状況をそれ自体研究の対象とすることも、またその困難の度合いを強めたり緩和したりする要因を剔出することも、やはり可能なはずだ。

では、上司の交代という事例においては、どのような変数が効いているのだろうか。網羅的でも体系的でもないが、とりあえず以下の4つを挙げることができるだろう(7)。(1)非公式の規範や価値観からみた場合に、その交代人事に正統性があるかどうか。(2)そのポストと交代人事のあり方が、官僚制の中でどのように定められているか。(3)新しい上司の出自が、組織の内部か外部か。(4)前任者がどんな人だったか。

  • (7) Grusky [1960] も同じようなリストを示している。






1. 人事異動の公式な正統性、これは、一般に想定しておいていいだろう。しかし、それに加えて、部下の側でも、その異動を正当と認めるか否かを判断するための、独自の基準が存在する(8)。この基準は非常に細かくできている。まず、就任と退任とで、評価の基準が異なる。また、解雇されるのか、別任地への転勤なのか、同じ任地内での別の役所への出向なのか、同じ役所内での別の部署への異動なのか、異動ではなく職務内容と管轄が変わるだけなのかによっても、判断基準がすべて異なるのだ。たとえば、行政分野での人事で、政治的な介入があったり、あるいはあったと考えられるような場合には、これは一つの問題となる。もちろん、大臣ポストが政治的に割り振られるのは想定内だが、それより下位のポストについては、少なくとも専門的な知識や能力が求められ、これは特に就任当初は厳しくチェックされる。政治的な理由から行政官を配置転換させることは認められないし、職務内容の変更ですら、無条件には認められないのだ。

  • (8) 人事異動の正統性が認められず、最終的にストライキにまで発展してしまった事例について、 Gouldner [1954b: esp. 79f., 158] を参照せよ。

個別事例における詳細については、米国の文献でも、経験的研究が十分になされているとは言いがたい。しかし一般論として、人事異動の正統性が認められるか認められないかは、後任者の人格評価に直結してくる、ということはいえるだろう。自分がそのポストに就任することが、その職場の期待に反している場合、後任者はあらかじめ自分に対する不信感を覚悟しておくしかない。

このように後任者が、新しい職場の部下たちから不信の目を向けられるのには、それなりの理由ないわけではない。人事異動があったということは、前任者の体制にまずいところがあったと判断されている、あるいは、少なくとも何らかの変更を求められているわけだ。そうなると後任者としては、前任者の下で形成された職場の期待に対しては、冷淡、あるいは批判的な態度をとるべきだと考えるのが自然である。後任者が今回の人事について、誰かに恩義を感じていて、ぜひともその期待に応えようと思っている場合は特にそうだ。こうして後任者はそれまでの職場慣行に対して、あからさまに懐疑的な態度をとることになる。そうなると、部下たちとしては反発せざるをえないわけだ。






2. 一般論でいうと、人事異動から生じる緊張状態は、官僚制のもとではそこまでひどいことにはならない。後任問題が最も深刻なのは、小規模な私企業の場合である。そういう企業では、管理職の人事は、経験、知識、手腕を総合的に勘案したうえで個人的に決められることが多い。規模が小さいため、人事の指針を抽象的な公式の基準として定めることができないからだ。そのため、人事の失敗が、企業の存立それ自体にとって命取りになることが少なくない(9)

  • (9) この点については Christensen [1953] や Trow [1961] を参照せよ。

これに対して、国家行政のように官僚制が完備されているところでは、「長」がつくかつかないかにかかわらず、すべての職が、異動を前提に設置されている。異動の可能性が、あらゆる関係の基礎になっているのだ。だから、個人の人柄によって成立している職場の均衡状態は、つねに一時的なものにすぎず、一時的なものにすぎないことを、すべての関係者が知っているわけだ。そういう意味で、均衡状態の暫定性それ自体が制度化されているのである。そのため、異動なんて青天の霹靂、といったことにはならない。少なくとも、いつかは異動があるということはみんなわかっているわけで、だからいざ上司が交代するとなったときに、どんな反応をすればよいかの準備はできている。官僚制による統制の度合いが強まると、そのぶん、どういう場合に、どういう形で異動があり、その結果どんなことが起こるか、といったことについての予測可能性も高まる。そのポストに付随する職務内容や権限の範囲、公式のコミュニケイション網の中での地位、といったことはあらかじめ決まっていて、後任に誰が来るかとは関係なく既知のものとして扱えるため、それに基づいて多くの事柄が予測可能になるのだ。非公式秩序での行動に対して公式的な統制をかけることには、これ以外にも多くの機能があって、そのせいで、極端な場合には、非公式秩序といっても、組織の水準で生じる事柄とは無関係に個人的な欲求を満たすだけの、単に集まっておしゃべりしたり遊んだりするだけの集団になる。そういう集団なら、別に新しく上司が着任したからといって、何も困ったことは起こらない。これは、 Grusky(10) や Gouldner(11) が指摘しているとおり、緊張緩和という点からいうと、疑問の余地なく有望な体制である。ただもちろん、その高い代償として、公式官僚制には様々な欠点が伴うこともまた、周知のところではある。

  • (10) Grusky [1960: 107, 114 f.]。
  • (11) Gouldner [1954b: 119 ff., 176 ff.]; Gouldner [1954a: 157 ff.]。






3. 交代人事に正統性があるかどうか、人事が官僚制の中でどのように定められているか、これらの問題と重なってくるのが、新しい上司が組織の内部から選ばれるのか、外部から来るのかという、三つめの観点である。どちらのやり方も、それぞれの利点と欠点をもっている(12)。昔のプロイセンには、役所の長は役所の内部からは採らない、という慣例があった。このやり方に十分な根拠があることは否定しないが、ただ慣例として続けているうちに、この方法の欠点や、後任を内部から選ぶ方法の利点について考える機会がなくなっていったのも事実である。

  • (12) Grusky [1960: 108 f.] がこの点を指摘している。内部から採るか外部から採るかについて論じたものとして Carlson [1961] も参照せよ。

新任上司が外部出身者の場合、着任時点において彼はよそ者である。だからよそ者としての役割に基づいた行動をしなければならない。よそ者役割の一般的特徴については、 Simmel (13)が論じている。よそ者は、その集団の社会的制御のもとで形成されたのではないような態度や期待を、集団内に持ち込んでくる。よそ者は、集団の内部からみると相対的に自由で、客観的で、抽象的な考え方をし、集団内の固有の決め事に縛られない。よそ者にとっては状況のすべてが新しく、つまり構造化されていないのだ。これに対して、部下たちにとっては、上司にあたる人間が代わっただけ、つまりは世界の一部が変化しただけにすぎない。この、状況に対する捉え方の違いが、職場の改革に対する態度の違いを生み、それが上司と部下のあいだの対立の火種となる。また、新任上司は、職場改革こそが手柄への近道だと考えがちである(14)。組織の労働連関において、これほど、功績の所在が明らかなこともないからである。こうして新任上司は、職場改革こそが我が使命、と思い込むことになるわけだ。いずれにせよ、その集団に固有の決め事に縛られないこと、これが新任上司の初期役割の内実である。そして、こういう態度が期待されてしまう以上、どんなに慎重にやったところで、部下の側では彼に対して懐疑的にならざるをえず、彼から距離を置こうとすることになる。要するに、守りに入ってしまうわけだ。

  • (13) Simmel [1923: 509 ff.]。
  • (14) この点については Gouldner [1954b: 157] も指摘している。

よそ者であること、そして敵対する可能性があることから、新任上司と部下とのあいだの接触は、公式に定められたものか、職務上どうしても必要なものか、あるいは部下からのご機嫌取りに限られてしまう。だから両者のあいだのコミュニケイションは内容が乏しい。そのため、上司からすれば、部下を非公式にも支配するのに必要な情報を得ることがなかなかできない。彼が知りうるのは、あらかじめ知っていたことか、公式の事務手続を通じて上がってくる事柄だけで、部下が自分に何を期待しているか、部下に何を期待してよいか、といったことまでは知りえないのである(15)

  • (15) このように、上司が交代したことで非公式コミュニケイションシステムが崩壊してしまう事例については、多くの報告がある。 Roethlinberger and Dickson [1939: 453]; Grusky [1960: 108]; Gouldner [1954a: 84 f.]; Goudner [1954b: 136 f., 157]; Somers [1954: 145, 147 f.] を参照せよ。

信頼関係を前提とした会話ができないと、上司は孤立することになり、その結果、上司の側でも部下の側でも、相手に対する期待の不確実性が高まっていく。米国では、アイゼンハワー政権が成立した際、この新しい指導者について「hostile native complex」という言い方がなされた(16)。ただ、上司の側ではこれで手詰まり、というわけではない。公式に与えられている権限を強調したり拡張したりすることで支配を強めるとか、一般的な規則に従い、自分に与えられた指示を粛々と実行していくとか、制裁によって抵抗を封じる、といった可能性がまだ残っている。あるいは、重要なポストの配置転換や新設によって、自分にとって信頼できる職場環境を自らつくり、それを利用して組織を操縦する、という手もある。

  • (16) Henry [1960: 541 f.]。

組織の内部から後任が選ばれる場合は、状況がまた変わってくるので、利点と欠点の分布も違ったものとなる。まず後任者の初期役割が異なる。後任者が組織内部の出身だということは、彼は個人的な期待の網の中に、最初から組み込まれているということだ。つまり、彼はすでに「社会化」されており、私的な側面を部下たちに見せてしまっている。そのため、部下たちの側からすれば、彼は自分がどのような振る舞いを期待されているのか自覚しているはずだ、と想定することができる。その職場でしか通用しないような表現でも通じるし、いちいち話の背景について説明する必要もない。好きな話題や、どんな先入観をもっているかについてもわかっているので、会話で失敗する危険も少ない。よそ者ではないから、情報源も十分だ。公式の権限に訴えなくても、ちゃんと部下が従ってくれる。

しかし、いいことばかりではない。部下が従ってくれるのは、以前に世話をしてやったことがあるからだったり、個人的に好かれていて、現在の関係が良好だからである。よそ者役割がもっている自由が、内部出身者にはないのだ。とはいえ、新しい地位に就いたからには、それにともなって、以前とは異なる新しい振る舞いをせざるをえない。なので結局、就任当初は、それまで自分に向けられていた期待に背くような行動をとることになってしまう。このような食い違いは、就任以前から非公式秩序のなかで高い地位を占めていて、非公式の指導者機能を担っていて、次の後任はあの人だろうと期待されていたのが、実際そのとおりに指名された場合には、特に生じやすい。

米国の企業では、後任を内部からとるのが普通だが、その際、後任者が自分の派閥も一緒に引き上げることが多い。出世の単位が、個人ではなく派閥全体なのだ(17)。これには明確な利点がある。つまり、新任であるにもかかわらず、それまでの指導体制を引き続き利用することができるし、また同時に、派閥の構成員たちは自分たちの出世を感謝してくれるので、その派閥内での個人的地位も強まるのだ。ただその代償として、組織内での派閥対立が先鋭化するということはある。他の派閥に属する人たちは、彼の就任によって自動的に劣位に立たされるわけで、それに対する不満を抱くようになるからだ。特に、前任者の派閥の構成員たちは、上司の交代によって集団として取り残されてしまい、社内の秩序の中に居場所を失うことになるため、新体制において彼らを利用することは難しくなる。前任者の支持者が、後任者への対抗組織をつくってしまう場合すらあるのだ(18)

  • (17) 例として Dalton [1959: 28, 62]; Ginsberg [1955: 156]; Martin and Strauss [1956: 106] を参照せよ。
  • (18) この「古参兵」の問題については Gouldner [1954a: 74 ff.] を参照せよ。

このように派閥をまるごと引き上げる、というやり方は、行政分野では容易ではない。行政においては、人事の決定手続がかなりの程度公式化されているからだ。とはいえ、後任を内部から選ぶ方式のところでは、新任上司がそれまでの人間関係を保持し、それを体制強化に利用する傾向が強くみられる。

さて、では一般に、後任人事は組織の内部と外部、どちらから採ればよいのだろうか。残念ながら、以上の考察からはどちらがいいとも言いきれない(19)。どちらの方式にも長短があって、引き起こされる結果の優劣比較が不可能だからだ。だから、学問的分析に対して期待できるのは、それぞれの方式を採用したときに、それぞれどんな派生問題が生じるかを明らかにしておくことだけである。とはいえ、実務家にとっても有用な科学的知見というのは、何が理論的に正しい解なのかを示すものではなく、どれか一つの解を選択したときに、どんな派生問題が生じるかを明らかにしておくような形のものではないだろうか。

  • (19) Grusky [1960: 108] は、一般に組織内から採る方が問題が少ないと考えている。これに対して Stewart [1955: 580] は、どちらが優れているかは決められないとしている。






4. 後任者の状況を決める最後の要因は、前任者がどんな人だったのか、どんな機能を担っていたのか、いまどこで何をしているのか、といったことだ。部下からしてみれば、ポストは同じままで人が代わるわけだから、どうしても前任者と後任者を比較してしまう。そして、その比較が、後任者に対する期待にある種の影響を与えてしまうことになる。

前任者と考え方や習慣が似ていたり、所属政党が同じだったり、卒業した学部が同じだったり、経歴が似ていたりすると、後任者への移行は比較的容易である。しかし、あえて前任者とまったく正反対な人を後任に選ぶ場合というのもある。実業家の後任に大学教授を据えたり、政党政治家の後任に法律家を据えたりといった具合だが、こういう場合には、状況はその困難さを増すことになる。後任者に対して、何かにつけ、前任者とは正反対な振る舞いが期待されることになるからだ。後任者にとってみれば、これは非常にやりにくい状況だ。部下たちは当然、自分の行動期待にしたがって新しい上司に接しようとするわけで、新任上司がこのステレオタイプ的な先入観から抜け出すためには、多大な労力と長大な時間がかかってしまう。少なくとも、まずは部下と個人的に親しくなり、個人的な期待を向けられるようになる必要がある。

さらにいうと、この前任者と正反対な期待は、往々にして一般化されることになる。つまり、この新しい上司は、何についても前任者と正反対の決定をするだろう、という期待である。その結果、前任者のもとで冷遇されていた人たちが新たな希望を抱くようになり、前任者のもとでは通る見込みのなかった要望がもう一度提出されることになる。この図式は、前任者その人までもを飲み込んで、その在任中の体制が、現体制のもとで生じている問題と対照的なものとして再解釈されることになる。こうして、前任者の評価が死後に上昇するという現象が発生する。 Gouldner がいう「レベッカ神話」だ(20)

  • (20) Gouldner [1954a: 79-83]。

もう一つ重要なのが、前任者がまだ舞台の上にいるのか、それとももう退場してしまっているのかの違いだ(21)。前任者が同じ組織の中で、前職よりも高い地位に就いている場合、そのことの重要性は明らかだろう。しかし、つねにそういう事例だとは限らない。たとえば、政権交代が起こっても省内の勢力図が劇的に変化することがないのは、以前の上司が議員となってまだ活躍していることによる部分が少なくない。ところが米国の政治権力ゲームにおいては、こういう条件が存在しない。米国では大統領が代わると行政府においてかなり大規模な人事異動が組まれる。このように、政治的な変化が行政に対してそのままフィードバックするのは、まさに上のような条件の不在によるところが大きいのだ。

  • (21) Grusky [1960: 107] を参照せよ。



  • Carlson, Richard O., 1961, “Succession and Performance among School Superintendents,” Administrative Science Quarterly 6, pp. 210-227

  • Ginsberg, Eli, 1955, What Makes an Executive?: Report of a Round Table on Executive Potential and Performance, Columbia University Press

  • Grusky, Oscar, 1960, “Administrative Succession in Formal Organizations,” Social Forces 39, pp. 105-115

  • Henry, Laurin L, 1960, Presidential Transitions, Brookings Institution

  • Martin, Norman H. and Anselm L. Strauss, 1956, “Patterns of Mobility within Industrial Organizations,” The Journal of Business 29, pp. 101-110

  • Somers, Herman M., 1954, “The Federal Bureaucracy and the Change of Administration,” The American Political Science Review 48, pp. 131-151

  • Stewart, R., 1955, “Management Succession,” The Manager 23, pp. 579-582, 676-679

  • Trow, Donald B., 1961, “Executive Succession in Small Companies,” Administrative Science Quarterly 6, pp. 228-239



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