新しい上司:第一節




  • Niklas Luhmann, Der neue Chef, Verwaltungsarchiv 53 (1962), S. 11-24




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第一節

どんな社会的秩序であっても、その機能分析はつねに可能である。その秩序の安定性を問題とみなし、その秩序の構築と維持に貢献しているものが何であるのか、と問うだけでいい。では社会生活が安定性をもつのに必要なことは何か。それは、他人の行動が予測できるということだ。互いに、相手に対する行動期待がつねに充足されていて、その期待に対する疑問が湧いてこない。そういう条件が満たされていてはじめて、社会生活は安定する。ではさらに、そのために必要なことは何か。それは、その行動期待が、様々な点で一般化していることだ。つまり、多種多様な事例に適用できるように複雑に類型化されていること、反復可能であること、合意されていること、規範的な意味を有しており、そのために期待の内容と異なる事態に直面した場合でも維持されるようになっていること、こうしたことが必要である。このように一般化した行動期待のことを、今日では一般に役割と呼ぶ。

社会的秩序は、複数の役割から成り立っている。ある役割と別の役割は、互いに前提しあうこともあれば、互いに補完しあうこともあり、また互いに排除しあうこともあれば、場合によってある程度の困難を伴いつつ互いに結びついていることもある。役割と役割のあいだの連関、役割と役割のあいだの分離、役割と役割の間の対立が、それぞれどのような形をとるかということは、人間の共同生活の秩序にとって中心的な主題である。ある社会的秩序において役割の交代が起こったとき、それによってどのような問題が発生するかは、この基本構造がどうなっているかによって決まる。その意味で、上司の交代によってどんな困難が生じるかを知るには、その組織の労働連関の構造がどうなっているかをまず知る必要がある。

分化の度合いが小さい原始的な社会的秩序では、一人の人間が引き受ける役割の組み合わせが、社会的な慣習として決まっている。ある人が家長であるなら、同時にその人は生産責任者でもあるし、戦闘の指導者でもあるし、踊り手でもあるし、部族会議の構成員でもある、という具合だ。この人から家長の役割を引き継ぐ者は、これらの役割をすべて引き継ぐことになる。そのため、原始的な秩序では、人が代わっても社会的な役割構造は変化しない(4)。そのため役割の組み合わせは細かく定められ、決して疑問視されることなく前の世代から次の世代へと継承されていく。原始的な社会的秩序では、人々の生活史は驚くほど均質的で互いに類似しているが、それはまさに、一人の人間が担うべき役割の組み合わせがこのような形であらかじめ決まっているからだ。

  • (4) この点については Fortes [1953: 36] を参照せよ。また Nadel [1957: 68 f.] ではこの考え方がさらに展開されている。

しかしこの種のシステムでは、役割の数自体はあまり多くできない。一人の人間が引き受ける役割には限度があるからだ。それゆえ、一つ一つの役割が専門特化して、役割分化が進むと、一人の人間が複数の役割を組み合わせて引き受けるという体制から、複数の役割がその内容に応じて互いに連関するという体制へと変わっていかざるをえない。そうなると、一人の人間がどんな役割を引き受けるかは、次第に偶然にゆだねられるようになってくる。役割同士がその内容に応じて組み合わさるようになるには、役割と役割のあいだの分離可能性が高くないといけない。たとえば、家と仕事と政治と休暇が、互いに分離できる必要がある。この種の秩序が成立するためには、人間の流動性が求められる。その結果、人生は人それぞれ、そして一人の人間が引き受けていく役割の組み合わせも人それぞれとなる。大会社の社長が既婚でも未婚でもかまわないし、社長をやりながらダンサーになることもできればならないこともできるし、教会に所属することもしないこともできるし、猟師になってもいいしならなくてもよい。そういうことだ。一人の人間がどんな役割を組み合わせて引き受けなければならないかを定める社会的規則はもはや存在しない。そして、それゆえに、ある役割と別の役割が衝突したときにどうすればよいかを教えてくれる、社会的に認められた解決法というのも、やはりもはや存在しない。だから、ある人がある役割を引き継ぐと、そこに今までになかった新しい役割の組み合わせが誕生し、それとともに新しい問題も発生することになる。そのため、役割の分離可能性が高く、役割分化の進んだシステムでは、役割の交代が起こると必ず構造の転換が起こる。だから、新任者の性格を把握すればそれで十分というわけにはいかない。交代が起こるたびに、人々がつくる社会的な連関それ自体が変化してしまうからだ。

ところが公式組織の場合は、もう少し話がややこしいのだ。組織が、不断に追求すべき何か特定の目的を持っている場合、そこには必ず、公式な期待のシステムというものができる。公式な期待というのは、管轄の範囲や、コミュニケイションの経路や、意思決定において満足すべき条件などの大枠を定めるもので、たとえば公務員の日常の生活や行為を縛るものではない。明示化の程度が高く、成文化するのに向いており、それゆえ何かを公的に議論したり正当化したりするための論拠となる。この期待を受けいれることが、組織の成員となるための条件であり、それゆえ組織の内部では、この期待のことを誰でも明確に理解している。だから組織の成員同士で話をする際には、この公式期待が共有されることを前提に会話を始めることができる。つまり、公式期待はいわゆる「意味論的防壁」なのだ(5)。何か言われそうになったら、公式期待を盾にして切り抜ければいいわけだ。とにかく、以上のような意味で、公式期待は一般に公開したり、文書化したりするのに適した期待だといえる。

  • (5) これは Dalton [1959: 234] が用いている言い方である。

会話の途中で、この公式期待に言及すると、どんないいことがあるのだろうか。まず、その場の状況が公共的な性格を持ち始める。会話の相手は特定の個人ではなく、「任意の人」、あるいはもしかすると敵になる可能性のある人、として扱われるようになる。こうして一切の親密さが排除される。公式期待を拒否することはできないので、これに言及する人は、その議論の中で優位に立つことができる。状況を冷却し、不要な馴れ馴れしさを排除し、敵対する人や知らない人とも円滑に会話を進め、嫌いな相手に対しても敵意を表に出すことなく、しかし相手からの反論は不可能な形で議論をすることができる。また、オフレコのつもりで話したことが公式に記録されてしまう、という事態を避けることもできる。

以上の分析から、二つのことがわかる。一つは、公式の期待や公式の役割定義といったものは、組織全体のシステムからいえば、一つの機能を担っているにすぎず、それだけで現実のすべてが汲み尽くされるわけではない、ということだ。組織は公式期待だけでできているわけではないのだ。もう一つは、しかし公式期待は期待としての正統性を独占するものであって、それゆえその期待に反するような期待を表明することは必ずしも容易ではない、ということだ。公式期待というのは、様々な目的追求行為からなる無矛盾なシステムの存在を示すものであって、それに適合しない事柄は、ないものとされるか、一握りの信頼できる人間のあいだだけの秘密とされるしかない。

そのため、どんな組織でも、公式の秩序の下に、非公式な秩序ができる。この非公式秩序では、独自の役割構造がつくられ、個人個人の性格に即して期待が形成され、小集団や派閥ができて、その内部ではある程度までの逸脱行為は正統とみなされ、その内部でのみ通用する権力関係と相互扶助の体制が形成される。この非公式秩序に特徴的なのは、特定の目的を掲げるのではなく、あくまでもそこにいる個人の性格を重視することだ。非公式秩序は、公式組織によっては充足できない要件や、公式組織の一面性のために発生する問題を中心として成立することになる。

つまりこういうことだ。「主題」を決めるのはあくまでも公式組織である。しかし、公式組織によっては一意に定められない部分で、独自の規範や制度が非公式領域において成立するのだ。ではこのこと自体は、公式組織にとっていいことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか。実はこの問いに対しては、この20年間における社会学社会心理学の組織研究で、定説となる答えが出ている。それは、いいことでもあるし、悪いことでもある、というものだ。

さて、公式秩序と非公式秩序は相対的に独立である。ただしこれは、両者がまったく切り離されているとか、因果的な相互作用が存在しない、ということではない。相対的に独立ということの意味は、この二つの秩序が、互いに他から相対的に独立に変更可能であるということにほかならない。変化のあり方が違うのだ、といってもいい。非公式の期待は、経験によって、違背によって、他人の期待との合致や食い違いによって、連続的に、ゆっくりと、いつの間にか、変化していくものだ。その内容、確実さ、規範としての強さ、合意の程度は、つねに一定ではない。そのつどそのつどの解釈が可能であり、そうやって解釈し直されていくことで、その歴史、その根拠、他の期待との関係も変化していく。これに対して、公式の期待は、明確な同一性をもっていて、それが妥当するかしないかのどちらかでしかない。だから公式組織には、その環境に対して連続的に適応していく、ということができない。公式組織のあり方を変更するには、どこかの時点でそのように決定をする必要があり、そのため環境への適応は断続的なものである。つまり、ある時点で決定が下されると、その後しばらく変化のない期間が続き、またある時点で決定が下されるというふうに、公式組織の変化は断続的に行われるのだ。

このように変化の仕方に違いがあることによって、この二つの秩序のあいだには必然的に齟齬と矛盾が生じてくることになる(6)。上司の交代に対して、非公式組織の側では瞬間的に適応することができず、そのため感情的な反応が先行してしまう。非公式組織では、適切な期待が形成され、それが確実さを備え、みんなの合意を得られるようになるまでには、相応の時間がかかるからだ。

  • (6) まさにそのために、公式組織の水準での変更にとって、非公式秩序が障害となることについては、 Roethlisberger and Dickson [1939: 567] の時点ですでに指摘されている。この主題については、それ以来多くの議論がある。

だから、人事異動が公式に発令されたからといって、それだけで後任者が、前任者が担っていた非公式機能をすべて引き継げるわけではない。そもそも上司が担う非公式機能というのは、知らない間に、いつのまにか担うことになっていた、というような種類のものなので、後任者にとっては、いったい前任者がどんな非公式機能を担っていたのかすら、まったく明らかではないのだ。たとえば、組織内の各派閥のあいだで調整役になって、対立が顕在化するのを防いでいたかもしれない。あるいは、自分自身がどれかひとつの集団に所属していて、その内部情報を組織運営に利用していたかもしれない。あるいは、外部や上との関係を良好に保つことで、組織を保護していたかもしれない。あるいは、上司は部下のやり方に口を出さない、ということが、そこでの非公式秩序にとって最も重要な期待になっていたかもしれない。しかしこうしたことを、着任してすぐの後任者には知るすべがないのだ。

我々の分析からいえるのは、非公式秩序では、前任者がどんな機能を担っていたとしても、それがそのまま存続すると考えるわけにはいかないということだ。公式と非公式をあわせた労働連関全体からすると、後任者が着任後に何をどうすべきかということは、あらかじめ定めておくわけにはいかない。後任者がなすべきことを、正統な期待として明示することも不可能である。非公式秩序には、正統な期待というものを表現する言語が存在しないからだ。非公式秩序では、前任者から後任者への交代のあり方が制度的に定まっていないため、交代後しばらくは不安定な期間が続く。この不安定状態は、上司として担うべき非公式機能のあり方自体が、前任者のものから後任者のものへと変更され、それによって非公式秩序が改編されて落ち着くまで、続くことになる。

この問題は、前述した言語上、コミュニケイション上の困難をも含めて考えると、さらに厄介なことになる。相手に面識がない場合、特に、初対面の新任上司の場合、公式で正統な状況定義と期待を示す以外にやりようがないのだ。面識もないのに非公式な期待を表明するなどというのは失礼な態度であって、相手を怒らせてしまうことにもなりかねないからだ。

このように、非公式期待は明示的に表現することができない。しかし、それは必ずしも悪いことではない。明示できないことで、公式組織に対する保護機能を担っているという面もあるからだ。非公式期待が明示されないということは、公式組織が掲げる組織目的との齟齬もまた明示されないということであり、それゆえ組織目的が明示的に否定されることはなくなるというわけだ。また、役割分離のメカニズムとしても有用である。つまり、部下が上司に対して、また上司が部下に対して、職務外の事柄について情報を明かすように求めることはできなくなっているわけだ。

他方で、人と親しくなるために用いられる通常の社交の方法は衰退することになる。もちろん、通常の社交でも、旅行者として、釣り人として、観客として、招待客として、など、特定の役割を担った者として他人と知り合うというのはそのとおりだ。しかし、これらの役割が、専門役割と大きく異なるのは、交際範囲の拡張が禁止されていないことである。人が他人と知り合いになる過程においては、自分の素性は小出しにしていくのが普通である。そうすることで、その関係において互いに同意できる自己呈示と状況定義を見つけ出し、そこで互いの地位を固定する、ということが可能になる。自分の素顔は、関係が良好に保たれる程度にだけ出しておき、もし相手が危険な地帯にまで足を踏み入れてきたら、そこはやんわりと警告してあげるのだ。このような過程を踏むためには、初対面時の役割に固執するのではなく、相手が担っている他の役割についても知ろうとすることが大切である。つまり、相手が亡命者なのか、戦闘員なのか、二児の父親なのか、教会長なのか、菜園主なのか、決闘のある学生組合に所属しているのかどうか、こういったことを知っていくことが大切なのだ。そして、相手がどんな役割を担っているかだけでなく、さらにその役割に対してどのような態度をとっているかを知ることも重要である。

以上の議論を要約しておこう。公式組織、とりわけ分化の進んだ大規模なシステムでは、その構造秩序のために、指導者役割の交代に際して問題が発生する。公式組織によって正統化できる期待というのは、機能上必要な機体のうちの一部にすぎず、そのため後任者の振舞い方に対しても、部分的にしか制御がきかない。また人事異動は瞬間的に生じる変化であるため、非公式機能がどのように改編されるかは、後任者の着任時点では未定のままである。そのために生じる緊張状態の緩和、それから、上司と部下が個人的に親しくなる過程は、公式組織に必然的に伴うコミュニケイション制約によって阻まれ、遅滞することになるのである。


  • Fortes, Meyer, 1953, "The Structure of Unilineal Descent Groups," American Anthropologist 55, pp. 17-41



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