作業メモ:『意味とシステム』

私見ではMitteilungは「発信」が好ましいが、以下では「伝達」と書いておく。

伝達、情報、理解が関わるのは、作動の閉鎖性そのものではなく、この「コミュニケーションである」という同一性の区別がどこで成立するかである。この同一性の区別は必ずしもそのコミュニケーションの内部で成立しなくてもよい。



佐藤俊樹意味とシステム226-227頁

ふんふん。

具体的にいえば、少なくとも三つの可能性がある。?接続されるそのコミュニケーションの内部で成立する。?それに接続するコミュニケーションの理解の内部で成立する。(中略)?と?のちがいは、あるコミュニケーションでの情報/伝達の区別が、後続するコミュニケーションの理解によって変更できるかと同義である。(中略)あるコミュニケーションのどこが情報でどこが伝達かの区別が後続するコミュニケーションの理解に依存しないのが?、依存するのが?である。



佐藤俊樹意味とシステム』227頁

ここはすごく変なことを言っている。コミュニケイションは情報/伝達の差異の理解として、この三成分の統一体として成立するはずだ。逆に言うと、コミュニケイションにおける「理解」とは、そのコミュニケイションにおける「情報/伝達」についての理解のはずである(つまり先行するコミュニケイション内の「情報/伝達」についての理解ではない)。
ところが佐藤は、前のコミュニケイションにおける「情報/伝達」と、次のコミュニケイションにおける「理解」とを結びつけて論じている。これはどういうこと?
ところが、次のページに進むと、やっぱり一つのコミュニケイション内部の話のような感じになっている・・・いや違うのか? 要するによくわからん議論になっている。

?では伝達/情報の区別が理解に依存するので、三つは同水準ではなく、(伝達/情報)/理解の形になる。(中略)ルーマン自身は、定義?を採っていると考えられる。あるいは、試行錯誤を重ねながらも、定義?を公理として主題化することはなく、伝達と情報と理解の関係を明示的に定義できなかった、といった方がいいかもしれない。



佐藤俊樹意味とシステム』228頁

うーん、こうして見ると、この点(前のコミュニケイション内の「理解」を無視していること)は、佐藤のルーマン解釈がおかしなことになっている結構重要なポイントかもしれない。
続きはエントリを改めて。