「コミュニケイションは後部から可能にされる」
佐藤俊樹『意味とシステム』では、「コミュニケーションはいわば後部から可能にされる」というのが索引の見出しになっているくらい重要な位置を占めている。そしてこの本では、それが、先行するコミュニケイションの意味は、後続するコミュニケイションにおいて決まる、という意味で用いられている。また同じことを「事後成立性」という言葉でも表現している。
件の言い方は、『社会的システム』に出てくる。
Die Kommunikation wird sozusagen von hinten her ermöglicht, gegenläufig zum Zeitablauf des Prozesses.
Niklas Luhmann, Soziale Systeme, S. 198
ところがこれは、先行するコミュニケイションの意味が後続するコミュニケイションにおいて決まるという、いわゆるコミュニケイションの事後成立性ことを表した文ではない。その前の部分を訳してみると、
コミュニケイションというのは、出来事からただ情報を知覚すればよいというものではない。自我が二つの選択を区別し、両者の間の差異を自ら操作できてはじめて、コミュニケイションは成立する。この差異が組み込まれてはじめて、コミュニケイションはコミュニケイションとなる。つまり、情報処理の一特殊事例となるのである。この差異は、まずは自我による他我の観察の中で成立する。このとき自我は、発信行動と、発信される情報を区別することができている。他我の側で自分が観察されていることに気づいた場合は、その観察に含まれる情報と発信行動の差異を、他我の側でまた受け継ぎ、コミュニケイション過程を制御するのに利用することができるようになる(制御に成功するかどうかはまた別問題であるが)。コミュニケイションは、過程の時系列とは逆に、いわば後部から可能にされるのである。
Niklas Luhmann, Soziale Systeme, S. 198
ちょっと表現が難しいが、要するにここでは、他我=発信者の情報発信を、自我=受信者が理解するという話である。『社会の社会』にも似たような言い回しがあってそこでは理解の話であることが明示されている。
Erst das Verstehen generiert nachträglich Kommunikation.
Niklas Luhmann, Die Gesellschaft der Gesellschaft, S. 72
さて、ルーマンのコミュニケイション概念は、発信・情報・理解の三段階の選択の綜合として定式化されている。つまり理解は、コミュニケイション単位の一部を占めるものである。だから、コミュニケイションの単位性が、理解によって/理解において、後部から可能にされるのだとしたら、それは後続のコミュニケイションとは独立に、そのコミュニケイションの内部で成立すると考えるしかない。佐藤の言う事後成立性は、すくなくとも「後部から可能にされる」という議論とは関係がない。
ではなぜ佐藤がそう考えてしまったのかというと、それは先に述べたように、佐藤は「理解」を、後続コミュニケイションにおける「理解」としか捉えていないからである。つまりこうだ。
先行するコミュニケイションをc1、後続するコミュニケイションをc2とする。するとそれぞれについて、c1には発信1/情報1/理解1があり、c2には発信2/情報2/理解2があるわけだが、佐藤は、発信1/情報1についての理解2という議論を立てることで、ルーマンのフレーズがあたかも「事後成立性」論の話であるかのように論じているわけだ。佐藤の議論は一般論であるから、一般に、理解1と発信2/情報2は無視されることになる。やっぱり、かなり変な話だ。