達意とか論理的

「達意の翻訳!」とかいって褒め(たつもりになってい)る人がいるが、「意味が相手に達する」などというのは文章を書く者にとって最低限の条件なのであって、達意でないということで責められたり貶されたりすることはあっても、達意だから偉いということには全然ならない。むしろ、「あなたが意味の通じる文章を書くとは思わなかった」という期待水準の低さを含意してしまっていて、ある意味馬鹿にしているとも考えられる。
「論理的」というのも同じであって、私は昔から「文章が論理的だ」と「褒められる」ことが多かったが、およそ学問の世界で論理的でない文章などというのはそもそも書いてはいけないものであって、やはり褒め言葉とはいえない。まあこちらの場合は、「〈論理的〉くらいしか褒めるところがない」という悲しい現実がある可能性もあって、これ以上掘り下げるのはやめにしたい・・・