第一回新潟哲学思想セミナー  早尾貴紀「ディアスポラの思想は「国民国家」に何を提起するのか」

非常勤の帰りでへろへろになりながら駆けつけました。
主催者によるまとめエントリはこちら。(写真の右端の白いシャツの人の右隣に私は座っているんですが・・・)
基本的には以下の著書について、それをめぐる著者の研究経歴や内容の論点についてのお話でした。

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

ユダヤとイスラエルのあいだ―民族/国民のアポリア

質疑応答は、院生が数人、事前に質問を渡していて、それに対するリプライが中心。なかなか教育的。院生はみなさん、すこしおとなしかったので、もっと挑戦的な質問とかしてもいいんじゃないかとは思うけど。でもいい経験になったでしょうね。
時間が押しているにもかかわらず、私も質問させていただきました。それは上掲書以降のお仕事について触れられた部分で、レジュメから引用すると次の箇所。

近代シオニズム運動の領土主義国家における国民化の過程で、終末論・贖罪論的なガルートは、世俗国家建設によって解消される地理的離散としてのディアスポラにすり替えられた。新たなディアスポラ主義の立場は、ディアスポラ状態でこそユダヤ人のアイデンティティと文化は発展してきたという点を強調。ディアスポラのもつ歴史性・政治性の負荷もふまえつつ、国民国家に対する批判的視点を提供。

ディアスポラギリシャ語で、ヘブライ語ではガルートというそうだ。で、ガルートがディアスポラと言い換えられるのとともに、神罰的な含意が抜け落ちて、(シオニストにとって)シオニズムによって克服されるべき状態を指す言葉となったと。
で、ちゃんと理解できているか自信がないのだけど、新しいディアスポラ主義は本来のガルート的な(神罰的な)含意を取り戻すという感じなのかなと。それで、質問したのは次の二点。

  • イスラエル国民(である具体的な個人)に対して、本来のユダヤ人性というような民族的・宗教的アイデンティティへの気づきを求めて、それを行動の規準としてpreeminantなものとすべきだという議論なのか。そうだとしたらその倫理的正当化はいかなるものか。それを要求できるのは誰か。


もちろん、こんなにきっちりと訊けたわけではなく、上に書いたのはこういうことが訊きたかったんです、という半分言い訳みたいなものでしかないです。早尾さんには、懇親会も含めてたくさん答えていただいたのですが、よくわかりませんでした(すいません)。
いずれにせよ、この議論は、以下の二つの著書で議論されているらしいです。余裕ができたら読んでみたい(←こればっかりwww)。

ディアスポラの力―ユダヤ文化の今日性をめぐる試論

ディアスポラの力―ユダヤ文化の今日性をめぐる試論

ディアスポラから世界を読む

ディアスポラから世界を読む