上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」

(英文タイトルは訳すと「市民権とジェンダーフェミニズムナショナリズムは両立可能か」)
http://www.law.tohoku.ac.jp/COE/jp/symposium/20070729/index.html
 M1のN條くんが報告原稿を持って帰ってくれたので。マッキノンは原稿なし。朱暁青の「中国での法の支配におけるジェンダー平等」は「中国は男女間の平等に関して世界で第一位にあるといいうるだろう」とか書いてあって(以下略)
 さて上野報告だが

経験的には、フェミニズムナショナリズムとは、歴史的に連携することもあれば、対立することもあったフェミニズムナショナリズム両立可能か?という問いに対しては、経験的にはエス&ノーの両義的な答を出すしかない。だが、その連携もしくは対立は、強いられた/妥協的な/矛盾をはらんだ/ご都合主義的なものにすぎなかったのか?それとも論理内在的な必然性を伴っていたのか?解かれるべき問いはまだ残っている。(p. 43)

というのが途中で出てきてがっくりきた。連携したことがあるのであれば両立は可能に決まっているし、対立したことがあるのであれば両立は必然ではない。可能性は実現例が一つでもあれば実証されるし、必然性は反例が一つでもあれば反証される。こういう次第でいったい残っている「解かれるべき問い」というのが何であって、これ以降の文章が何を目指しているのかが不明だ。
 もう一点。

ナショナリズムを「国民国家という『想像の共同体』への同一化」とミニマムに定義するなら、同じようにフェミニズムを「女性という仮構された共同性への想像上の同一化」と、定義することができる。(p. 48)

ここで言われている「共同性の仮構」と「想像上の同一化」が一つのことなのか、まず前者があってそれから後者があるということなのかが気になる。すぐあとに

そのような想像上の同一化は、「女性」を差異化の記号として産出する当のジェンダー二元制を問題化するためにこそ、遂行されるのである。(p. 48)

とあって、フェミニズムにとって批判対象であるジェンダー二元制が、フェミニズム以前に「女性」という記号を産出することは明示されている。ではその記号によって表現される共同性を最初につくりだすのはジェンダー二元制の方なのか、それともフェミニズムなのか。

フェミニズムはカテゴリーの(1)多元性、(2)部分性、(3)相対性を前提にしている。そう考えれば、ナショナリズムに限らず、排他的・一元的な共同性を強要するあらゆるファンダメンタリズムフェミニズム相容れない、と論理的に結論することも可能である。もちろん経験的にはフェミニズムナショナリズムとも、コミュニズムとも、宗教ファンダメンタリズムとも、一時的・過渡的に同伴者となることが可能だろう。だがそれは同床異夢の野合にとどまるだろう。(pp. 48-49)

「結論することも可能である」っていうのはどういう意味なんだろう。結論しないことも可能なんだろうか。まあ文脈上、論理的に両立不可能であると結論したということなんだろうが。しかし、にもかかわらず経験的には可能らしい。常識的に考えて、論理的に不可能なら経験的にも不可能である(対偶:経験的に可能なら論理的にも可能である)。「論理的には可能だが経験的には不可能だ」みたいなのはよくあるし問題ないが、「論理的には不可能だが経験的には可能だ」というのは何を言っているのか全然わからない。
(だいたい、文章の最後に「定義」を持ってくるというのはルール違反だし、読者からすると、前の方で論じられていた「フェミニズム」が本当にこの定義に合致するのだろうかという疑問が発生する。)