死の直前のパーソンズ


http://www.soziologie.uni-rostock.de/berger/einfuehrung2/parsons_in_muenchen.jpg

[1979年、ハイデルベルク大学でのシンポジウムに参加した後、パーソンズは]さらにミュンヘンに向かっている。ミュンヘン大学では5月7日の昼に、「現代社会の構造における社会階級の意義の減少」と題して講演し、さらにその日の夕方、ミュンヘン大学マックス・ウェーバー研究所の図書館でも講演した。このとき彼は、ウェーバーの胸像を飾った部屋で、自己の理論形成にとってウェーバーのもった意義について語っている。その夜、彼は突然、心臓発作をおこして急逝する。ほとんど苦しむことなく、安らかな死に顔であったときく。享年76歳であった。
高城和義『パーソンズとアメリカ知識社会』,p. 337

後ろに見えるのがウェーバーの像かなあ。胸像じゃないけど。

追記

詳しい報告発見!

ミュンヒェンでのパーソンズ最後の日

 タルコット・パーソンズ(1902年12月13日〜1979年5月8日)がミュンヒェンに到着したのは1979年5月6日水曜日のことだった。夫人のヘレンとともに、ハイデルベルクから約4時間列車で揺られてきたのだった。パーソンズは1929年にハイデルベルク大学で博士号を授与されたのだが、今回それから50周年記念ということで大学から招待されていたのだ。記念式典は5月1日から5月6日まであって、もちろん彼も楽しんだことと思うが、齢76歳のことであるから、それなりに大変だっただろうとも思う。とはいえミュンヒェン中央駅で迎えたときは元気そうだったし、その足で同僚や学生らにも会ってくれた。
 というわけで夫妻は、その晩モンジュラ宮殿の一階に入っているレストランで我々と結構長い時間を過ごした後で、ミュンヒェンヒルトンホテルに引き上げていったのだった。1979年5月7日月曜日の午前、パーソンズミュンヒェン大学の由緒ある本棟の332番講堂で講演を行った。この棟はマックス・ウェーバーミュンヒェンで亡くなる前、生前最後の講義をした建物でもあった。午後には、コンラート通り6番にある社会学部棟でインフォーマルセミナーを持ち、午前中の講義に対する質疑応答の時間をもうけてもらった。
 その日の晩は、パーティの賓客ということで出席してもらう予定だったのだが、気分がすぐれずホテルの部屋で休むとのことで、夫人だけが出席することになった。パーソンズは月曜から火曜にかけて、つまり1979年5月8日の未明に亡くなったのだった。
 私がタルコット・パーソンズと個人的に知己を得たのは1967年のことで、ハーヴァード大学に伺ってのインタヴューに快く応じてくれたのだった。
  ホルスト・J・ヘレ
http://www.lrz-muenchen.de/~uf331af/www/parsonstxt.html

ということはミュンヒェンヒルトンホテルにはパーソンズが死んだ部屋というのがあるのか。

さらに追記

夫人のヘレンからヘレ教授への礼状も発見。1979年5月24日(木)の日付。

親愛なるヘレ教授
 タルコットの遺灰は昨日、無事に届きましたのでご安心ください。小包で戸口まで配達してくれました。ジャフリー墓地への埋葬は土曜日の予定ですから、まだしばらくかかります。息子のチャールズとその家族、それに近い親族が何人か来てくれることになっています。パーソンズ家の墓は松の大木の下の一画で、それは美しいところです。私どもの娘のアンをはじめ、タルコットの家族がすでに何人も眠っています。
 私どものミュンヒェン旅行があのような形で終わってしまったのは悲しいことですが、長い間病気で苦しんだり、徐々に頭脳が衰えていくよりは、タルコットにとってはるかに望ましい最期だったと思います。
 それにしても、その節は大変お世話になりました。なんとお礼を申し上げていいかわかりません。貴方のおかげで警察の質問にもあまり苦痛を感じずにすみましたし、またご手配いただいた火葬の儀は、おかげさまで荘厳で美しいものになりました。それにご家族でボストンまでお見送りいただくお手間をかけました。できましたら今後ともお付き合いを続けさせていただき、いつかまたお会いしたいと思っております。
 立て替え分のお支払いはあれで十分でしたでしょうか。不足の場合は、お知らせ願えれば幸いです。
 最後になりましたが、もう一度、心からのお礼を申し上げたいと思います。
  ヘレン
http://www.lrz-muenchen.de/~uf331af/www/parsonsashes.jpg