パーソンズとポッペ

デニス・H・ロング先生曰く、

ジョン・ウィーナーの論文が1989年3月6日刊行のThe Nationに載った当時、それを読んだ。政治的で下品な悪口雑言の類だと思った。「左翼マッカーシイズム」のいい例だといっている人がいて、私もそれに全面的に賛同した。
Dennis H. Wrong, 1996, "Truth, Misinterpretation, or Left-Wing McCarthyism?" Sociological Forum 11-4, pp. 613-621(613)

というわけで、
Jon Wiener, 1989, "Talcott Parsons' Role: Bringing Nazi Sympathizers to the U.S.," The Nation, March 6: 1, pp. 306-309
の全訳。

タルコット・パーソンズの果たした役割――ナチのシンパを米国に招聘
ジョン・ウィーナー


 タルコット・パーソンズといえば、おそらく20世紀で最も強い影響力を持った米国の社会学者であろう。その彼が、第二次世界大戦後、陸軍諜報部および国務省と協力して、ナチの協力者をソヴィエト研究の専門家として、米国に密かに招き入れていたのである。ロサンジェルスにあるカリフォルニア大学の大学院生チャールズ・オコンネルが発見した資料によると、パーソンズは1948年の夏に渡独し、ナチスのために働いていたロシア人亡命者にインタヴューし、陸軍諜報部員の協力の下、ナチ協力者への米国ビザ発券を禁止するという政府の政策をかいくぐるための方法をいくつか提案している。
 1948年当時、パーソンズはハーヴァードの教員だった。その年の夏、ドイツの米軍占領地域に渡った彼は、国籍剥奪の憂き目に逢い、何とか起訴だけは免れようと必死になっているナチ党員および協力者たちの中に入っていった。彼らはソ連に関する自分の知識を利用して、当時ロシアと冷戦状態にあった米国の保護を得たいと望んでいた。マルセル・オフュルスの映画『ホテル・テルミヌス』で描かれているとおり、「リヨンの屠殺者」クラウス・バルビーもその中にいた。これらナチ党員および賛助者の多くはすでに、陸軍諜報部や当時できたばかりの中央情報局に対して、米国にとっていかに自分が必要であるかを説いていた。タルコット・パーソンズは、ハーヴァード大学も彼らのうちの何人かを学内のロシア研究センターに受け入れる必要があると考えていた。1940年代と50年代を通じて彼の構造機能理論は学会を席巻していた。1927年から1973年の退職までハーヴァードの教壇に立ち、1979年に亡くなった。1949年には米国社会学会の会長に選出され、1946年から1956年にかけてハーヴァードの社会関係学部の学部長を務めた。彼の下からはロバート・マートン、キングズリー・デイヴィス、ロバート・ベラー、ニ−ル・スメルサーといった次世代の主導的な社会学者たちが巣立っていった。
 今回、パーソンズがナチ協力者のために尽力したことを示す資料が発見されたことで、彼の社会学理論の政治的な意義に関する論争に油が注がれる可能性が高い。パーソンズは価値から自由な社会学を提唱し、社会科学が科学としての地位を獲得するためには政治的価値から遠ざかる必要があると論じていた。彼の理論は非歴史的で極めて抽象的なものであった。1960年代には、「価値中立」を求めること自体が現状と冷戦イデオロギーへのコミットメントを隠蔽しているのだと論じる新世代の社会学者たちによって、彼の仕事は批判の矢面に立たされることになった。今回パーソンズがナチ協力者の勧誘を行っていたことが明らかになったことで、彼の仕事への批判が強まるだろう。
 パーソンズの戦後の活動を明らかにした資料は、ハーヴァードアーカイヴでオコンネルが発見した。彼の博士論文は、ハーヴァードのロシア研究センターがどうやってできたかに関する研究である。彼はアーカイヴで、パーソンズが同僚であるセンター長のクライド・クラックホーン教授に向けた10通の手紙を発見したのである。これらの手紙はパーソンズのドイツにおける勧誘活動について記したもので、彼が面会したロシア人の中で最も重要なのはニコラス・ポッペだと書かれていた。この人物はソヴィエトアジアの諸言語の専門家で、1925年から1941年にかけてレニングラード大学の教授を務めていた。パーソンズは自ら骨を折り、ポッペが米国の入国ビザをとり、ハーヴァードに就職できるようにしてやったのだが、これはなかなか困難な仕事だった。というのも、ポッペはナチの協力者であったというだけでなく、米国への入国も禁止されており、さらにその当時、ソ連への強制送還のためにドイツ国内で米軍によって指名手配されていたからである。
 ポッペは、クリストファー・シンプソンの近著『逆輸入――米国によるナチの勧誘と、冷戦に対するその影響』に登場する中心人物である。ポッペはカフカスで教職にあったが、1942年、ナチが進軍してきたその日にドイツに亡命した。シンプソンの報告によると、ポッペは少数民族地域の一つにおいて「傀儡政府の設立に積極的に協力した」という。この政権は設立後直ちに、ユダヤ人の財産を収用し、その土地に住むユダヤ人を殺戮したのだった。1943年、SSはポッペをベルリンに連れて行き、彼はそこのヴァンゼー研究所で働くことになった。これはSSのシンクタンクで、1942年1月に、「ユダヤ人問題の最終解決」のための計画を発表したところである。ヴァンゼーの研究者による報告書はナチ執行部の上位15名に配布された。その中には東部戦線の軍諜報部長であり宣伝局長でもあったヨーゼフ・ゲッベルスと、ヒトラーが含まれていた。シンプソンの研究によると、それらの報告書はソ連領内におけるユダヤ共同体の位置と規模を正確に指定するものであり、それゆえSSによる絶滅作戦を掩護するものであった。ポッペがもっていたソヴィエトアジアの諸言語や民族集団に関する知識は、この計画にとって有用であったに違いない。
 ポッペはのちに、自分のヴァンゼーでの仕事はSSの絶滅プログラムを掩護するものではなかったと述べている。彼の『回想録』によると、ヴァンゼー研究所の任務は「ソヴィエトの経済、政治、科学の様々な側面を研究すること」であり、彼自身が主に扱っていたのはシベリアの「歴史、民族誌、文化、自然資源」だったという。しかし、ポッペの専門がソ連の中でもカフカス地方、つまり彼がSSに雇用された当時の戦況において最も重要な拠点の一つであったという事実に鑑みると、この主張は「とても額面どおりには受け取れない」とシンプソンは述べている。
 SSの絶滅計画に手を貸したという非難に反論するために、ポッペはある事件について報告している。ところがこれが逆に、批判者の論拠を強めてしまう内容なのだ。ポッペは『回想録』の中で、カフカス地方の山岳民族であるタート族がユダヤ人であるかどうかをドイツ人に聞かれた、と書いている。これに対してポッペは、タート族はユダヤの宗教儀礼を実践してはいるが、民族としてはイラン人だと答えた、という。ポッペの言い分では、このおかげでタート族は絶滅計画の対象からはずされたということである。しかし、ドイツ人がポッペにしていたのがこの種の質問だったとすれば、それは彼がナチのユダヤ人絶滅計画に手を貸していたことの明らかな証拠であろう。
 ポッペについては、歴史に残る1985年米国会計検査院報告書にも言及がある。この報告書は、「ナチおよび枢軸国への協力者たちは、欧州における米国の反共政策を進めるために利用され、そのうちの何人かは米国に移住した」ことを認めている。この報告書は、クラウス・バルビーを米国が保護したことを記している点で最もよく知られているものであるが、ポッペについての記述もある。ただし名前は伏せてあり、「ナチないし枢軸国への協力者のうち、素性が望ましくない、あるいは怪しいにもかかわらず、何らかの個人的な支援があって米国への移民を許可された5人」のうちの1人となっている。
 終戦後、ポッペは英国の占領地域に避難を求めた。シンプソンは機密扱いを解かれた陸軍対敵諜報部隊の報告書を入手し、そこに、1947年5月の日付の入った最高機密メモを発見した。そこには、「ソヴィエト当局はポッペを戦争犯罪者として本国に送還するよう要請し続けており、それゆえ彼が英国占領地域にいることは英国軍政府にとって悩みの種である。英国はポッペ氏は情報源として価値があると考えており、……米国の情報当局が彼を引き取り、米国に移送し、米国内で彼が「行方不明」になるということが可能かどうか、打診してきている」旨書かれていた。パーソンズはこの1年後にポッペと接触し、クライド・クラックホーンに対して「我々の友人ポッペ」に関する事実を報告している。
 1948年4月の日付の入った、ポッペに関する国務省の機密文書では、フランクフルトのドイツ問題に関する米国政治顧問局に対して、「ポッペの保護体制を整え、太らせるよう」指示を出しており、「1〜2ヶ月以内に彼を拾い上げる準備ができている」旨書かれている。その1ヵ月後には、国務省の政策計画局員から、ハーヴァードが「ポッペの獲得に熱心」である旨国務省として承知していることを知らせる電報が打たれている。この、米国による最初のポッペ獲得計画は成功しなかった。この件については6月30日付のパーソンズの手紙で、欧州司令部の諜報指揮官ロバート・ウォルシュ将軍の要請にもかかわらず、国務省がポッペの入国を拒否したと報告されている。
 これに対してパーソンズは、別経路でのポッペの米国入国を提案している。当時ハーヴァードに、エドワード・メイソンという教授がいた。彼はロシア研究センターの執行委員会の委員で、国務省の政策計画局の顧問もしていた。パーソンズは、ポッペの入国許可にジョージ・F・ケナンの助力を得るためにメイソンの渡独を求めたのである。当時国務省の政治戦争局長だったケナンは、米国がソ連との冷戦に踏み出すきっかけとなった封じ込め政策を発表したばかりだった。パーソンズの戦略は成功した。ポッペの入国にケナンが直接介入したのである。この事実は昨年シンプソンの著書が刊行されるまで40年間も隠蔽されてきた。ポッペの『回想録』によると、彼は米空軍輸送機でドイツを発った。ワシントンD.C.に着陸したときには、「国務省から派遣された男が私に会うために着陸場に立っていた」とのことだ。
 パーソンズの助言に従って動いていたクラックホーンは、ポッペをハーヴァードの教員として採用するよう推薦したが、大学の役員はこれを拒否した。(ポッペはこの件について後に、「政治的その他の理由で」不採用になったと回想している。)しかし1949年の秋に、ポッペはワシントン大学に極東言語の教授としての職を獲得し、その後の学者人生をここで過ごすことになった。またシンプソンによると、彼の教え子からは多くの米国情報局員が生まれたという。
 しかしポッペの活動は学界に限られていたわけではない。1952年には、米国のモンゴル社会論の権威であったオウェン・ラティモアに関する議会調査において証言をしている。ラティモアはジョンズホプキンズ大学のウォルター・ハインズ・ペイジ国際関係学校の校長だったが、長年にわたり、左翼的な考えを持った国務省の顧問でもあった。ジョセフ・マッカーシーは、自分の反共産主義運動全体の成否が、ラティモアが太平洋研究所において「共産主義の細胞」を運営していたという告発の成否にかかっていると述べている。ポッペは、このラティモアを調査していた乗員の委員会に呼ばれたのである。彼は、ラティモアのモンゴル研究の多くは「非常に表面的」で、「現実を歪曲した」ものであり、「学問的な仕事ではない」と証言した。シンプソンによると、ポッペには、マッカーシーによるラティモア批判に自らも参加する個人的な動機があったのだという。1948年に最初の米国入国が国務省の拒否によって失敗に終わった際、そこにラティモアが一役買っていたとポッペは信じていたのだそうだ。結局、ラティモアマッカーシーの告発のすべてに対して身の潔白を証明したのだが、ポッペの証言はマッカーシイズムに学問的な体裁を与えるのに手を貸すこととなった。
 今日、ポッペは91歳になり、シアトルに住んでいる。彼がナチスの協力者だったというシンプソンの説に関するシアトルタイムズの記事に対して、先日、彼の同僚32人が抗議声明を出した。同僚らによると、彼らの知っているポッペは「紳士であり、慈悲心をもった人間であり、今世紀における真に偉大な学者の一人」だという。
 タルコット・パーソンズは、自分が「我々の友人ポッペ」と呼んだ人物が、ナチスの協力者であったことを知っていた。もちろん、ポッペがどんな役割をになっていたのか、特にヴァンゼー研究所での仕事の詳細について知らなかった可能性はある。しかし、ポッペに対する告発のために英国が彼の保護に難色を示していたこと、国務省がポッペの米国入国を拒否したこと、これらについては確かに知っていたのである。ポッペのためにパーソンズが果たした仕事は、ナチス協力に対する道徳的非難を、自らが宣言している科学的規範としての「価値中立性」とともに、冷戦アクティヴィズムの名の下で無化しようという気持ちの表れである。
 1948年の渡独の際にパーソンズ接触した元ナチ協力者はポッペだけではない。ケンブリッジを発つ前、パーソンズは陸軍諜報官のセッティングで、キエフ大学元言語学教授のレオ・デューディンと面会している。面会後のパーソンズによる説明によると、デューディンは1943年、「宣伝省でロシア向けの放送原稿を書く仕事をしていたが、ロシア軍の侵攻直前に脱出し、それ以降バイエルンで半隠棲生活を送っていた」という。またデューディンは、親ナチスのロシア人戦闘集団であるウラソフ軍でも働いていた。これもパーソンズの報告にある。
 ウラソフ軍を構成していたのは、その大半が捕虜収容所の囚人たちだった。ドイツ軍はソヴィエトの捕虜たちに一つの選択を与えたのである。すなわち、戦争特派員アレグザンダー・ワースの言葉を借りれば、「ウラソフ軍に入るか、餓死するか」の選択である。これには何千人もの志望があったというが、その大半は入隊を拒否され、200万人が収容所で死んだ。1945年には、ウラソフ軍の半分はSSのカミンスキー部隊の出身者で占められていた。これは、1943年のワルシャワ蜂起の際にナチスの絶滅計画の先鋒を務めたベラルーシ民兵部隊である。彼らの獣のごとき所業は、ドイツ軍のハンス・グーデリアン将軍をも怒らせ、将軍は彼らに戦場から撤退するよう要請したほどであった。かりにパーソンズがウラソフ軍の歴史を知らなかったとしても、自分が勧誘しているのがその元構成員である以上、その過程で知ることはできたはずである。
 パーソンズ接触したもう一人のウラソフ軍出身者として、元赤軍の中佐であるウラジミール・ポズドニャコフがいる。パーソンズの説明によると、ポズドニャコフはナチスに捕らえられ、「ウラソフ運動に参加して、そこで大佐になった」という。近年の研究によると、ポズドニャコフはウラソフ運動の親ナチ政治派閥であるロシア人民開放委員会の保安主任となっている。ソ連はポズドニャコフを73人の「戦争犯罪者および対敵協力者」のリストに加え、米国占領地域からの引渡しを求めていた。
 パーソンズはハーヴァードのクラックホーンに宛てて、面会したのはポッペ、デューディン、ポズドニャコフだけではなく、彼らを雇っていた米国陸軍諜報部員も二人いたと報告している。この報告によると、諜報部員はこれら亡命者たちの米国移住を強く勧め、それに対してパーソンズはハーヴァードでの就職の可能性について示唆したという。パーソンズはその可能性について、「ものすごく重要だ」と述べている。米国で「価値から自由な」社会学を主導する立場にある人物が、ここで、戦争犯罪者として指名手配中のナチ協力者をソヴィエト研究の専門家としてハーヴァードで雇用するという、陸軍諜報部の提案に賛同しているのである。
 デューディンとポズドニャコフはいずれも、結局は米国内でハーヴァードに就職することはできなかったし、米国入国もできなかった。しかし両人とも、ドイツ国内に連行されてきたロシア人からソ連に関する情報を収集するという目的でハーヴァードのロシア研究センターに雇用されることになった。しかし彼らの報告書は質が低く、契約切れの1950年になると契約更新はされなかった。デューディンは1987年に死亡したと報告されている。ポズドニャコフは1970年代に、ウラソフ軍の資料と回想録を2冊刊行した。彼の現在の消息は不明である。
 勧誘の任務についている間、パーソンズにも自分の仕事について疑問を抱いた時期があった。1948年6月の手紙で彼は、「デューディンのグループを推薦したのは少し急ぎすぎだったかもしれません……彼らの政治的傾向は極端に過ぎると見えることがあります。とはいえ、もうすこし広い視野に立って再度検討してみたいと思います」と述べている。この再検討はしかし、彼らの「政治的傾向」に関するものにとどまり、パーソンズは自分が推薦している人々の過去の行状については再検討していない。どうやら彼は、元ナチ協力者をハーヴァードのソヴィエト研究者として採用するに当たって、それに関する本質的な問題を無視することを、冷戦が正当化してくれると考えていたようである。しかし、彼らの戦争犯罪者としての訴追を回避する手助けをすることが、本当に正しいことだったのだろうか。彼らは本当に大学の職員としてふさわしい種類の人間だったのだろうか。ソ連に関する情報収集というのは確かに国務省や陸軍諜報部の仕事であろうが、それは果たして大学が担うべき仕事なのだろうか。ロシアから戦争犯罪者として指名手配されている元ナチ協力者が報告する内容が、ソ連に関する情報として本当に信頼できるのだろうか。パーソンズの手紙には、これら道徳的な論点について何も述べられていない。
 パーソンズによる勧誘活動は、冷戦を深刻化した二つの鍵となる事件の起こった直後に始まっている。それゆえこの二件の出来事により、彼の任務の緊急性が特段に高まったのだと考えざるを得ない。1948年2月、チェコスロヴァキア共産党が、赤軍の後ろ盾のもとに権力を掌握した。これにより、西欧に対してソヴィエト軍が攻撃を仕掛けてくる恐れが強まった。U.S. News & World Reportはこの年の4月、「ことここに到って、ロシアは世界一の軍事力となった」と宣告している。「ロシアの陸空軍は、ほとんど思うがままに欧州とアジアに襲い掛かることができるようになった。」6月には、ソ連が西側諸国からベルリンへのアクセスを断った。パーソンズがドイツで米国の諜報部員を訪問していたころには、物資は空輸されていたのである。
 おそらくパーソンズの勧誘活動を正当化したのは、ソ連の状況に関する信頼できる情報が欠如していたという事情なのだと思われる。それは米国の安全保障に対するソ連の脅威の程度を評価するために不可欠な情報ではあった。U.S. Newsの反ソ連ヒステリーが広まっていた時代だけに、ソヴィエトの意図と能力に関する正確な情報が特に重要だったのだ。とはいえ、パーソンズが採用した人たちというのは、情報源として望ましいものではなかった。彼らはみな、ソ連の脅威を誇張することでとてつもない個人的な利益を得る立場にあったからである。なにしろロシアは英国と米国に、彼らを戦争犯罪者として引き渡すよう圧力をかけていたのであるから。もちろん、パーソンズが採用した人たちが、国務省や陸軍対敵諜報部隊やCIAにソ連の脅威についてどのような報告をしたのか、我々は知らない。しかし、政府がこれらの人たちの報告を含む情報に基づいて、1948年以降、ソ連の危険性を過大に誇張していたことは、我々の知る事実である。この諜報過程に対して実質的に援助することで、タルコット・パーソンズは、戦後米国の政治生活において最も反民主的で反知性的な動向のいくつかに貢献したことになるのである。
 パーソンズの1948年の渡独は、学問としての社会学と、政治生活との間の関係について、いくつかの重要な問題を提起するものである。社会理論というのは、ナチスの犯罪の歴史の「忘却」を許すような非歴史的な代物なのか。また「価値から自由な」社会科学というのは、ナチ協力者を裁くことの価値を無視することを許すような代物なのか。結局パーソンズもまた、冷戦の名において政治的なコミットメントを示し、道徳的な争点には目をつぶることで、客観的な学問を目指すという自分の主張を裏切ることになるという、米国の主導的なリベラル学者の嫌になるくらい平凡な筋書の御多分に漏れないということが判明した次第である。
(訳了)

思わず注文してしもた(訳本のほう。ただしamazonではない)。

ニコラス・ポッペ回想録

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Reminiscences: Studies on East Asia Series (Studies on East Asia, V. 16)

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