『社会学評論』58巻4号「特集・社会学教育の現代的変容」

社会学評論 2008年 03月号 [雑誌]

社会学評論 2008年 03月号 [雑誌]

社会学には教科書がない」と明後日のパワポに書いてしまった私ですが。
教科書をめぐる問題の大きな一つに、社会学研究者になる人の大半は教科書で社会学入門とかはしていないということがあるだろう。いまの自分がそうだが、授業で「社会学」を教えないといけなくなってから読むのが普通では(そして、講義自体もそうなのだが、教科書とか講義とかを一番楽しめるのはそういう人たち(=若手教員)ではないかと思う)。
あと、マーケットが世界に広がっている英語圏と、日本では、教科書作成に対する費用便益関係もだいぶ違うだろうとも思う。
ブログがどの程度、授業の補完になるのかはよくわからない。研究者のブログって、学生が見に来ているのだろうか(もちろん自分がが学部生だった頃にそういうのがあったら毎日楽しみに見ただろうが)。明後日(というか明日か)、学生に紹介してみてアクセス数がどのくらい増えるか調べてみよう。

英語導入は不可避だが、英語が支配する市場競争での勝ち抜き(これはもちろん英語ネイティヴに有利)よりは、むしろバイリンガルであることのメリット(つまり英語=共通語以外に、研究対象とする現地語=母国語に堪能であること)を活かすことを目標とすべきという話。
ところで話はずれるが、

そもそもドイツ型の大学院教育のもとでは,学位はアカデミック・キャリアのライセンスとして必須とすら見なされてこなかった.現在の大学教員の多くが博士号未取得のまま,大学院課程で教えているのはそのためである.
(p. 531)

この話は(「博士号がキャリアの到達点であるドイツ型と、出発点であるアメリカ型」のような言い方で)直接聞いたこともあるのだが、前から疑問に思っている。ドイツだと、博士論文を書いて博士号をとったあと、さらに教授資格論文を書いて教授資格をとらないと大学での教職につけず、さらに正教授になるまでは私講師として給料をもらえないという仕組みのはず(最近は知らないが)。到達点であるどころか、出発点よりさらに手前であるとすらいえ、当然相対的価値も低い。
実際パーソンズは、ハイデルベルク留学時に簡単に取れるからという理由(?)で博士をとったものの、米国に帰ると(PhDより価値が低いから・・・かどうか定かではないが)なかなか昇進できなかったらしいし。