ハーサニ「最小値最大化原理は道徳の基礎を提供できるか――ジョン・ロールズ理論の批判」

  • John C. Harsanyi, 1975, “Can the Maximin Principle Serve as a Basis for Morality?: A Critique of John Rawls’s Theory,” American Political Science Review 59, pp. 594-606, reprinted in: Essays on Ethics, Social Behavior, and Scientific Explanation, D. Reidel, pp. 38-63

最小値最大化(マキシミン)原理は意思決定ルールとして不合理、格差原理は倫理的ルールとして不合理。前者は期待効用原理で代替し、それに伴って後者は平均効用原理で代替すべきというのが批判の主旨(ごく前の方だけだが)。追記で、ロールズはハーサニの反例は小規模だが自分のは大規模な話、という反論をしているが、大規模な反例もすぐ作れると返す刀でばっさり。

1.「導入」
2.「最小値最大化原理とそのパラドクス」
3.「原初状態における最小値最大化原理」
4.「反例は有効か?」
5.「代替的な道徳的価値判断モデル」
6.「「原初状態」での確率使用に反対するロールズの議論」
7.「フォンノイマン・モルゲンシュテルン効用関数は倫理学で使えるか?」
8.「個人間効用比較には意味があるか」
9.「効用主義と義務ではないが望ましい行為」
10.「道徳哲学における曖昧さと単純さの対立」
11.「将来世代への道徳的義務としての貯蓄」
12.「正当な社会の安定性」
13.「結論」
「追記」

 vNM効用関数に対するハーサニの誤解を指摘しておこう。vNM効用関数はリスクに対する態度を表すものだから倫理学と関係ないというロールズの議論に対して、ハーサニ曰く

たしかに、任意の個人のvNM効用関数は、リスクや不確実性の下での彼の選択行動から算出されるものではある。しかしだからといって、vNM効用関数が彼のリスクに対する態度を表す指標でしかない、ということにはならない。というか名前を見ればわかるようにvNM効用関数は効用関数なのである。もっというと、経済学者のいう基数的効用関数なのである。ということは、vNM効用関数の第一義的な課題は所与の個人のリスクに対する態度を表すことではなく、彼がそれぞれの帰結に対して割り当てている効用の大きさを、つまりは主観的な重要度を表すことなのである。(p. 49、太字は原文強調)

 この解釈は、倫理学功利主義を称する多くの人々に共通する間違いである(ただ本家のフォンノイマンとモルゲンシュテルンが間違えているのでしょうがないといえばしょうがないが)。間違いを指摘する前に具体例も載せておこう。先の引用部に続けてハーサニ曰く

たとえば、ある個人がひどい確率の賭博に参加しようとしているとする。1000分の1の確率で1000ドルが当たる籤を5ドルで買おうとしているとしよう。ここから、彼のvNM効用関数は1000ドルに対して5ドルに割り当てる効用の(少なくとも)1000倍の効用を割り当てていると推定することができる。このように推定することで、vNM効用関数理論は、なぜこの個人がこんなひどい確率の賭博に参加したがるのかという問いに対して、以下のような説明を与えることになる。すなわち、彼がそのような行動をとるのは、1000ドルを得ることに尋常でなく高い重要性を割り当て、5ドルを失うことに尋常でなく低い重要性を割り当てているからである、と。もっと一般的にいうと、多額の金銭がひどく必要だと感じる(が小額の金銭を失うことについてはあまり気にしない)場合に、人々はひどい確率の賭博に手を出すのである。

 vNM効用関数が重要度(でも快感の大きさでも何でもいいが)を表す(基数的である)という解釈は実は不可能ではない。しかし決定的に重要なのは、vNM効用関数がリスクに対する態度を表すという解釈もまた可能であり、かつこの二つの解釈は両立不可能だという点である。
 リスクに対して無関心であることをリスク中立的と呼ぶ。これは、(2万円は1万円の2倍の効用をもたらすとして)たとえば確実に1万円もらうのと、2万円か0円かが五分五分の賭けをするのが無差別だという態度である。これが当然に仮定できる個人の性質でないのは明らかだろう。
 さて、vNM効用関数が基数的であるという解釈は、このリスク中立性を仮定して初めて成り立つ解釈である。あるリスク状況で個人がある行動を示した場合、リスク中立性を仮定すると、あたかも個人が基数的効用と確率を用いて期待値を算出し、それを最大化しているかのように記述することができる。vNM効用関数による説明というのはこうしたものにすぎない。
 これに対して、vNM効用関数の大きさが、リスクに対する個人の態度を表していると仮定すると、前段のような推定は不可能になる。二つの解釈が両立不可能というのはそういう意味である。
 ハーサニをはじめとする論者たちの間違いは、リスク中立性(という非常に非現実的な)仮定の下でしか成り立たない「あたかも〜かのように」の中身を実体視してしまったことにある。行動の説明において効用関数を用いるのは、数値計算ができるという便宜上の利点に基づくものでしかなく、便宜的だから、一定の仮定をおいて「あたかも〜かのように」記述することに問題はない。しかし、その中身を実体視して、それを基礎に倫理的判断を行うのはまったく間違いである。