von Neumann-Morgenstern効用関数は基数的か?
三谷武司,2006,「von Neumann-Morgenstern効用関数は基数的か?」,盛山和夫(編),『高齢化社会の公共性に関する社会学的研究』,pp. 153-166
(PDFはこちら)
1. 基数的効用関数、序数的効用関数、NM効用関数
John C. Harsanyiは、von Neumann-Morgenstern効用関数(以下、NM効用関数と略記する。)を用いることで、全員の効用値の総和を最大化するような選択が倫理的に正しい選択だとする効用総和主義を復活させたとされている。少なくとも、本人および彼の支持者の多くはそう考えている。まずはこの「復活」ということの意味を確認しておく。
1.1. 基数的効用関数と効用総和主義
効用総和主義というのはもともと、ある状況で個人が体験する一種の心理状態を倫理的判断の基礎に据えようとする立場であった。たとえば快感、たとえば幸福がそれに当たる。もう少し規範的な色彩の強い倫理学の場合、「真の」快感、「真の」幸福という言い方で、倫理的判断の基礎とすべき心理状態とそうでない心理状態とを区別することもある。いずれにしても、ここで判断の基礎として採用された心理状態が効用と呼ばれる。この効用概念には二つの特徴がある。一つは、効用の増大は当該個人にとっても望ましいことであり、理想型においては彼の具体的な行動はつねに効用の最大化として説明されることになる。これは経験的社会科学、特に経済学の分析概念を倫理学が採用したということであり、個人の外部から押し付けられる旧習や、あるいは宗教的な規範に対して、個人の合理性に基づいた批判を投げかけることを目的とした戦略であった。
もう一つは、効用には単位があるということであり、これは先の点と密接な関係がある。つまり、効用とは心理状態という形で存在し、一定の単位によって原理的には測定可能な自然量だという考え方である。単位があるとはどういうことかというと、二つの状況の間の効用値の差が、一方が他方よりもどの程度望ましいかを表すということである。これは言い換えると、状況変化の望ましさを量的に表現できるということである。ある状況Aから別の状況Bに移行することで効用が1単位増加し、またある状況Cから別の状況Dに移行することで効用が2単位増加するならば、CからDへの変化はAからBへの変化よりも2倍望ましいということになるわけである。このように、単位を持つことによって差の比が意味を持つような効用のことを基数的と形容する。
基数的効用を、貨幣量のようなやはり単位を持った客観的尺度とは独立に概念化する必要を最初に指摘したのはDaniel Bernoulliだといわれている。Bernoulliは有名な「サンクトペテルブルクの逆理」において、貨幣取得から人間が得る効用の増分は貨幣量の増加に伴って減少していくという仮説を立てたのである。これは次のような議論である。コイントスで最初に表が出たのが 回目なら 円がもらえるギャンブルがあったとして、参加料は何円までなら合理的かを考える。1回目に表が出る確率は 、2回目なら 、. . . 、 回目なら である。ということはこのギャンブルの獲得賞金の期待値は、
となる。賞金の期待値が無限大ということは、参加料は100億円でも安いくらいだということになるはずである。しかしこの賭けは、50%の確率で賞金2円、75%で4円以下、約88%で8円以下、. . . 、約99%で128円以下、. . . 、つまり、200円以上当たる確率は1%未満という恐るべき代物なのである。こんな籤に100億円も払ったら馬鹿だが、期待値理論に従えば払った方が合理的である。この逆理をどう考えたらよいか、ということで、Bernoulliは、人間の効用増加は金額に正比例するわけではなく、単調増加ではあるが限界増分が減少するのだと考えた。そこで効用を金額の対数で表してみた。つまり 円得たときの満足度を と書く。この場合、満足度の期待値は、
となる。これは収束するため、参加料がいくらでも参加するのが合理的という結論は回避される。
もちろん効用を取得金額の対数関数で表すというのは一つの例であって、本質は限界増分が減少するという議論にある。これは同じ1万円でも貧乏人と金持ちとでは価値が全然違うとか、喉がカラカラのときのビールとか、我々の経験や直観と合致することが多いため、限界効用逓減則と呼ばれて19世紀の経済学の基礎となった。もちろん限界効用が逓減するといってもその逓減の仕方が全員にとって同じだと考える根拠はないため、個人ごとにそれは異なると考えるのが自然である。これは要するに、各人がそれぞれ独自の効用関数を持つということである。ただし、個人間で異なるのは効用の増え方であって、効用の単位は同じである。これはたとえば、時給が違えば単位労働時間における給料の増え方は異なるが、貨幣単位が異なるわけではないのと同じである。考え方の本質は、効用と呼ばれる同種の自然量を、各人が別様に獲得するという点にある。
個人間で増え方は違っても単位は同じということは、ある状況変化に伴うある個人の効用減少を、別の個人の効用増加によって相殺するという考え方が(必然ではないが)可能だということである。たとえばAからBへの状況変化によって、個人1は効用が10単位増えるが、個人2は4単位減るとしよう。このとき全体としては6単位増えているのでこの変化は望ましいという議論が可能である。これは、各状況で各人が得る効用の総和を比較するという効用総和主義とまったく同じことである。なぜなら、各人の効用関数をそれぞれ 、 とすると、上の例は
と、左辺が正になるがゆえにこの変化が望ましいというものであったわけだが、この条件を書き換えると
となって、先の条件がBにおける効用総和がAにおける効用総和よりも大きいという条件と同値であることが分かるからである。このように、個人間での効用単位の共通性、およびそれに基づく個人間での相殺可能性が、効用総和主義の基礎になっている。
1.2. 選好と序数的効用関数
さて、効用総和主義の「復活」ということは、以上のような議論が一度「死んでいる」ということである。これは基数的効用の概念が「死んだ」ことの結果である。このことはたとえばHarsanyiが最初の論文の最初の部分で指摘している。
基数的効用の概念は、それと同じ働きをさせるなら序数的効用で十分だということがわかって以来、こんな概念は余計だというわけで経済学のほとんどの分野で使われなくなってしまった。(Harsanyi [1953: 3])
つまり、より前提の弱い序数的効用を用いるだけで同じ説明力が得られるため、より前提の強い基数的効用は使われなくなったという事情である。本節ではこの序数的効用について簡単に解説する。
序数的効用とは、その名のとおり、数値の大小関係で順序だけを表す効用概念である。数値の大小関係にしか意味がないということは、その絶対値や数値間の差には意味がないということである。たとえば でも、 でも、 でも、すべて同じ順序を表しているため、その順序を表すという働きからいうとどれを用いてもよいということである。これは単位が存在しないということであり、それゆえ序数的効用は基数的ではない。単位が存在せず、したがって基数的でないということは、相殺可能性がないということで、したがって序数的効用を用いるなら効用総和主義は不可能である。これが効用総和主義の「死」である。
では序数的効用はどんな順序を表しているのかというと、それは選好順序である。選好とは、ある個人に二つの選択肢を示したときにどちらを選ぶかということであり、当該個人の行動傾向のことである。選択肢というのは多数存在しうるが、そこから二つだけを取り出して当該個人に選択を求め、その結果を表した二項関係を、選好関係という。全選択肢についてこの作業を繰り返すことで、その選択肢集合で可能な二項の組み合わせのすべてについて選好関係を記述することができるが、これらの選好関係が互いに循環していない場合、つまり推移的である場合、この選好関係の集合を選好順序と呼ぶ。このとき、すべての選択肢は一列に並べることができるわけだが、これを選択肢の絶対的位置や選択肢間の距離は無視して、相互の相対的な位置(つまり左右)だけを考えて数直線上に並べてやれば、絶対値や差には意味がないが大小関係が選好順序を表すような数値指標が得られる。序数的効用はこのようにして構成される。
基数的効用と序数的効用は、その数学的性質も全然違うのであるが、そもそも発想がまったく異なる。基数的効用が表していた快感なり幸福なりといったものは、個人の行動選択の原理という位置を与えられていた。個人は快感や幸福を最大化するような行動をとるのだ、という理論がまずあって、それゆえそれらを効用指標で数値化した場合には、効用の数学的最大化がその個人の行動を記述すると同時に説明するのである。これに対して序数的効用が表す選好というのは、個人の行動それ自体であって、その行動の理由とか選択基準といったものについてはまったく不問である。序数的効用の存在条件である選好の順序性というのは、要するに個人の行動の一貫性ということである。基数的効用の場合は、快感や幸福を最大化するという一貫的な原理に従って行動するがゆえに行動に一貫性が伴うと考えるのに対して、序数的効用の場合は、なぜ行動が一貫的なのかについてはブラックボックス化してしまう。なぜそうなるのかは知らないが、ともかく行動に一貫性があれば序数的効用で表せる、というだけのことである。したがって、行動と効用の関係という観点からいうと、基数的効用は行動を説明するのに対して、序数的効用は行動を表現するだけである。表現するだけということは、序数的効用は純粋に理論家の構築物であって、いかなる意味でも自然に存在するものではないということである。それゆえ、序数的効用で個人の行動を記述するときには、当該個人は序数的効用関数を最大化するかのように行動する、という言い方がなされることになる。
さて、個人の行動選択原理について想定する基数的効用と較べて、外面に現れる行動を記述するだけの序数的効用は、より前提が少ないといえる。もし両者の説明力が変わらないのであれば、前者は捨てて後者を採用することが、科学の基本である節約原理に合致した考え方である。これは、個人の主観的な精神状態のごとき観察不可能な領域を切り捨てて、観察可能な、あるいは調査可能な行動水準に議論の基礎を求めるという、科学主義的な近代社会科学の王道であって、現代の経済学の発展はその基礎の上に成り立っている。これが、本節冒頭で引用したHarsanyiの言葉の意味であり、効用総和主義の「死」の元になった基数的効用の「死」の意味である。
1.3. von Neumann-Morgensternによる期待効用特性の復活
前段の議論で、効用総和主義の「死」は基数的効用の「死」によるものであることがわかった。しかしということは、基数的効用が「復活」すれば効用総和主義にも「復活」の希望が出てくるということである。そしてHarsanyiその他の人々は、NM効用関数こそが、「復活」した基数的効用関数だと考えている。ではNM効用関数とは何か。von NeumannとMorgensternはどうやって基数的効用を「復活」させたのか。
彼らが注目したのは期待値計算である。期待値計算の可能性は基数的効用の重大な特性の一つである。Bernoulliのサンクトペテルブルクの逆理の話も、獲得金額の期待値ではなく、基数的効用の期待値を考えようという提案であった。以下、効用の期待値のことを期待効用と呼び、期待値計算が可能であるという性質のことを期待効用特性と呼ぶことにする。
ところがこの期待効用特性は、選好理論、したがって序数的効用の採用に伴って失われることになった。von NeumannとMorgensternの試みは、選好理論の枠内で、期待効用特性を復活させることを目標にした、とまずは確実にいえる。
選好理論の枠内であるから、個人内部の選択原理について仮定するところから始めるわけにはいかず、あくまでも選択肢間の選択行動についての一貫性の仮定から始めなければならない。そこで彼らは、個人の行動選択の定義域を、現実に成立する状態の集合から、それらの状態を賞とする籤の集合へと拡張した。たとえば 個の状態があるとすると、一つの籤というのはこの 個の各状態に対する確率分布、すなわち (ただし各成分は非負で、各成分の和は1)という 次元非負実数ヴェクトルという形をとる。このヴェクトルの各成分が各状態の生起確率を表す。確率は連続変数であるので、有限個の状態を賞として作られる籤は無限に存在することになる。
彼らはこの籤集合上の選好(つまり選択行動)が、次のような意味での一貫性を示すと仮定する(ただしこれらのうちのいくつかは他の条件から導出できるため、公理系はもっと単純でよい)。
(1)すべての籤に何らかの選好(無差別を含む)がついている。
(2)推移性を満たす。
(3)賞が籤であるような複合籤は、確率計算で単純籤にした籤と無差別である。
(4)複合籤の賞になっている籤をそれと無差別な籤と入れ替えた複合籤は元の複合籤と無差別である。
(5)選好順位が高い賞が高確率である籤ほど選好される。
(6)任意の賞に対して、それより選好順位の高い賞と低い賞、および適当な確率を定めることで、それと無差別な籤を見つけることができる。
彼らは、このように定められた籤間選好の条件に基づいて、期待効用特性を持った効用関数を構成していく。以下、その作り方を見よう。
最も選好順位の高い賞を とし、同様に最も選好順位の低い賞を とする。この中間にすべての賞が含まれるが、その中から一つを取り出して とする。これらの間の選好順序を表す(序数的)効用関数 を考えると、 は となっていれば でも、でも、何でもよい。
ここで、 (最上位)と (最下位)だけを賞とする(他の賞の生起確率が の)籤 を考える。 ならこれは と同じであり、 ならこれは と同じである。 の値が から へと増加していくに従って、この籤の選好順位も上昇していく。さて、 と の間には がある。 の値が から へと増加していくとき、籤 は をいわば「通過」する。つまり が と無差別になるような の値 が存在する。これを の特性確率と呼ぶ。 以外の賞についても同じことが言え、 よりも選好順位が高い賞は特性確率が より大きく、低い賞は特性確率が より小さい。当然、 、 である。仮に、 だったとしよう。これは賞 が籤 と無差別だという意味である。
次に、 、 、 を賞とする籤を考えよう。たとえば と が半々で当たる籤 を取り上げる。ところが、 は と無差別なので、この籤は複合籤 と無差別である。確率計算により、これは単純籤 と無差別である。このようにして、各賞の特性確率が分かれば、確率計算により任意の籤の特性確率を算出することができる。各籤の特性確率の大小は、選好順位の高低に対応している。したがって、各籤の特性確率は、この籤集合に対する選好順序を表す効用関数である。これをNM効用関数と呼ぶ。
このNM効用関数 について、期待値計算ができることを確認する。先ほどの籤 について、今見たように であった。ところが、各賞の効用値 、 、 を用いた期待値計算によれば、
となって、合っている。つまりNM効用関数は期待効用特性を持つのである。
このように、von NeumannとMorgensternは選好理論の枠内で、期待効用特性を見事に復活させたのである。しかしここで考えるべきことは、それが基数的効用の復活を意味するかどうかである。
2. 期待効用特性の復活は基数的効用の復活を意味しない
さて、前節最後の問いに答える前に、このNM効用関数を用いて効用総和主義を復活させたとするHarsanyiの議論と、それに対する批判を紹介しておく。
2.1. 倫理的判断の等確率モデル
まずHarsanyiは倫理的判断とは不偏的で共感的な判断だとする直観的定義を示す。これはつまり、利己主義とアプリオリ主義の否定である。次に、具体的な判断において不偏性と共感性を保障するための技術的な操作として、選択肢となる状態において自分が等確率で誰でもありうると想定し、この想定において得られるデータだけを判断の基礎とすることを判断者に命じる。等確率性が不偏性を、各人になるということが共感性を保障する。さて、ここまでは一貫した議論であるが、想定上「各人になる」というのは何をすることかという点で、Harsanyiは二つの道を示している。(ただし、本人は両者は同じことだと思っていて、そう思えるための条件が本稿第3節の主題となる。)この条件をHarsanyiは受容原理とも呼んでいて、これは各人が備えているものを受容することが「各人になる」ということだ、という議論なのであるが、何を受容すると考えるかで道は二つに分かれるのである。
Harsanyi [1955]は、各人のNM効用関数を受容すると考えている。つまり 人の個人がそれぞれ効用関数 , . . ., を持っているとき、倫理的判断者は、 の確率で を、 の確率で を、……、 の確率で を受容すると考えなければならない。このとき、選択肢 と の間の倫理的な望ましさは、各選択肢における不偏共感的想定で得られる期待値の大小比較によって決まるという。つまり、
, ,
のどれが成り立つかによって、 の方が望ましい、無差別である、 の方が望ましい、のいずれかの判断が得られるという。
ところがこの議論は、各人の効用関数が別個に定義されている場合には成立するとは限らない。言い換えると、各人の効用単位が共通でないと成り立たない。しかしNM効用関数は、あるいはすべての基数的効用関数は、特に個人間で調整しない限り、単位の設定については任意であり、それゆえ倫理的判断者が想定上受容すべき効用関数は、あらかじめ個人間で単位を調整したものでなければならない。
これに対してHarsanyi [1977]は、籤集合上の選好を受容すると考え、倫理的判断者は各人の選好を組み込んだ拡張選好を形成し、それを一つのNM効用関数で表すという議論に転換している。一つのNM効用関数の内部での期待効用計算は正当であるため、この工夫は上の問題を解決しているといえる。拡張選好とは、要するに状態と人の組み合わせ(から作られる籤)の間の選好のことである。これらの籤の中にはある人の関わる賞だけに正の確率がついていて、他はすべて生起確率が0のものが含まれるが、それについてはすべて当人の選好と対応するようにするのである。このようにして作られる判断者の拡張選好は、各人の選好が期待効用公理を満たすなら、やはりこの公理を満たすようにすることができる。それゆえこの拡張選好を表す拡張NM効用関数を定義することができる。これで共感性は確保できたので、あとは不偏性であるが、これは各状態間の比較を、状態と人の組み合わせを賞とし各賞が等確率で当たる籤同士の比較として実行することで保障される。このとき、各人のNM効用関数を、個人特定的な籤に関わる限りでの拡張NM効用関数によって定義すると、結局は個人効用の総和(正確には平均)の比較によって倫理的な望ましさを決めていることになる。
2.2. Harsanyiモデルへの批判
ところがこの議論に対しては、すでに決定的な批判が提出されている。これらの批判は、基本的に上記の選好受容論に対するものであるが、それはこの解釈の方がNM効用関数の理論に適合したものであるため当然である。
これはWeymark [1991]やRoemer [1996]による、Harsanyiの定理は表現定理にすぎないというものが代表的であるが、同じことを、倫理的判断者に対する制約力の弱さ、つまり判断者の恣意性をあまりにも大きく許容してしまうという観点から詳細に論じたのが三谷 [2006]である。ポイントは、Harsanyiの拡張選好の議論は、個人特定的な籤間選好については受容原理を課しているが、個人横断的な籤間選好については判断者の恣意に任せているために、判断者はつねに自分の私的判断を倫理的判断と称することができる、あるいはHarsanyiの議論はそうした欺瞞に手を貸してしまう、という点にある。
これは、実はNM効用関数が、籤間の選好を表現するだけの序数的効用関数にすぎず、基数的でないことに由来する問題である。以下、期待効用特性と持つということと、基数的であるということの異同について確認する。
2.3. 基数性と期待効用特性の異同
効用関数が基数的である場合と、期待効用特性を持つ場合とで共通する性質は、正の線形変換を除いて一意であるということである。これは、 という効用関数があり、もう一つの関数 が に正の線形変換を施した関数であった場合、 と が効用関数として完全に等価であるという意味である。等価であるとは、両者の間で表現している情報が同じであるということ、つまり変換によって失われる情報がないということである。先に、基数的効用関数の本質は単位が存在することであり、したがって効用差の比が変化の望ましさを表していることだと述べたが、正の線形変換によってはこの比は変化しない。つまり変化の望ましさの情報が保存される。他方、期待効用特性もまた、その本質が確率加重平均という線形の特性である以上、正の線形変換によってこの性質は変化しない。このように、基数的効用関数と、期待効用特性を持った効用関数の間では、許容される変換の種類が同じであるという共通点が見られる。
しかし、許容される変換の種類が同じであるということから、基数的であることと期待効用特性を持つことが論理的に同値だと考えると間違いである。まず、ある効用関数が基数的であるならば、その効用関数は期待効用特性を持つ。これは確実にいえる。実際Bernoulliは基数的効用関数を用いて期待効用計算をしていた。しかし逆はいえない。つまり期待効用特性を持っているから、基数的であるとはいえない。言い換えると、期待値計算ができるからといって、効用差の比が変化の望ましさの程度を表しているとはいえない。
許容される変換の種類が同じというのは、たまたま両者の本質的特徴が、同様の数学的性質を持っていたという偶然に由来するものであって、両者の存在論的な性質が同一であることをまったく意味しないのである。ここで再度、NM効用関数の意義が、基数的効用を用いない選好理論の枠内で期待効用特性を確保したことにあるという点を繰り返し強調しておきたい。先に、この期待効用特性の「復活」によって、基数的効用関数も「復活」したといえるかという問いに対しては、いえないと確言できる。
3. NM効用関数が「選好の強さ」を表現しているという誤解
ところが、多くの論者はNM効用関数が基数的効用関数だと考えている。あらかじめ快感や幸福のような、個人駆動的な自然量を想定しない選好理論の枠内で、効用関数が何らかの単位をもった量を表現しているという解釈をするためには、選好概念に依拠した形でそうした量を概念化しなければならない。そのため、NM効用関数が基数的だと考える人たちは、そろってそれが「選好の強さ」を表現するものだと考える。強さというのは単位のある量であるし、それが選好の強さである限り、選好理論とも適合するという発想である。
本節では、彼らの主張と、それがかなり以前から否定されている考え方であることを確認したうえで、「選好の強さ」解釈が成り立つための条件を明らかにし、それが個人行動の合理性条件としては不適当であることを示す。
3.1. 「選好の強さ」による解釈
さて、この解釈をとっている論者は枚挙に暇がない。Harsanyiもそうであったし、Harsanyiに依拠しているHare [1981]もそうである。Hareから引用しておこう。
批判的思考の水準で道徳的決定を行おうとしている私は、「Jonesは結果 よりも を選好し、Smithは結果 よりも を選好するが、前者の選好の方が後者の選好よりも強い」と言えれば十分である。どのくらい強いまで言う必要はない。これは、我々の批判的思考の方法が、効用を合計するのではなく、Jonesの選好とSmithの選好を同等に扱うという不偏的な観点から、我々自身の結果間選好を形成するという方法だからである。/ところが、Griffin氏とHarsanyi教授の教示により、このやり方によって基数性が裏口から導入されることが分かった。選好の強さの単位を導入することが可能になるのである。二つの選好の強さを比較することができるならば、互いに強くも弱くもない二つの選好、つまり同等な選好を見つけることができる。もし「BよりA」の選好と「CよりB」の選好が同等であるならば、「CよりA」の選好は「BよりA」の選好の2倍だと言っていいだろう。このとき「BよりA」の選好を選好の強さの単位として用いるなら、この種の比較をいろいろ繰り返してみることで、選好の強さに関する基数的尺度と、0点(どちらも選好しない)を定めることができるようになる。(Hare [1981: 123])
さて、この「選好の強さ」解釈が支配的であることの理由は、おそらく何よりもまず、それが本家のvon Neumann and Morgenstern [1953]の解釈でもあるからだと思われる。彼らは次のように述べていて、これは「選好の強さ」解釈をする論者がよく引く箇所でもある。選好がC、A、Bの順になっているとき、
BとCが半々で生起する組み合わせよりもAを選好する場合、これは、「BよりA」の選好が「CよりA」の選好を上回っているという数値的評価の基礎となるだろう。/この立場が認められるなら、「BよりA」の選好と「CよりA」の選好を比較するための基準が存在することになる。このとき効用が数値的に可測となることは周知のとおりである。(von Neumann and Morgenstern [1953: 18])
ある個人が紅茶1杯を珈琲1杯より、珈琲1杯を牛乳1杯より選好していると仮定する。後者の選好(つまり効用の差)が前者を上回っているかどうかを知りたいなら、彼に、珈琲1杯と、中身が紅茶か牛乳かが50%-50%のコップ1杯のどちらを選好するか決めさせればいい。(von Neumann and Morgenstern [1953: 18, n. 1])
この実験が、先に見た特性確率を用いたNM効用関数の定義と対応していることは容易に見て取れるだろう。
3.2. 「選好の強さ」解釈に対する批判
この解釈に対しては、かなり以前から批判がなされている。たとえば、決定理論の古典的入門書であるLuce and RaiffaのGames and Decisionsは、1957年にすでに、この種の議論を「よくある間違い(common fallacy)」の一つとして挙げている。
【間違い3】 であり、効用関数が となっていたとする。このとき、 から への変化の方が、 から への変化よりも、より強く選好される。(Luce and Raiffa [1957: 32])
これが間違いだと主張する傍証として、彼らは次のような例を挙げている。
たとえば、ギャンブルが嫌いな人がいて、 ドル払うか全然払わないかが半々なら、 ドル払うのと無差別だと言っているとする。このとき、彼の効用は ドル、 ドル、 ドルが、それぞれ , , だと言える。しかし我々としては、 ドルから ドルへの移行が、 ドルから ドルへの移行と「同じくらい嬉しい」とは言いたくない。(Luce and Raiffa [1957: 22])
彼らの批判は、当該個人によるリスク評価をどう処理するかという論点に関わるものであり、これは節を改めて議論する。
3.3. 「選好の強さ」解釈の成立条件――リスクに対する中立性
von Neumann and Morgensternの議論は、リスクを含んだ選択状況を用いるものである。このことはそれ自体としては、彼らの理論が、当該個人によるリスク評価を組み込んだものだということを意味しない。これはしばしば見落とされがちであるが、非常に重要な点である。
Luce and Raiffaの例に即して考えよう。 ドル、 ドル、 ドルという三つの賞があって、 ドルと ドルが半々の籤が、 ドルという賞(が必ず当たる籤)と無差別だというのが、観察される事実である。Luce and Raiffaが指摘するように、「選好の強さ」解釈では、 ドルから ドルへの ドル増が、 ドルから ドルへの ドル増と、同じ強さで選好されていることになる。これは不合理だというのが彼らの批判である。
ではどうであれば不合理でないのかというと、たとえば(限界効用逓減などを考えなければ)、 ドル増は ドル増よりも 倍の強さで選好されるべきだということになるだろう。これがリスク状況での観察によって確認されるためには、 ドルという賞は、 ドルが 割、 ドルが 割で当たる籤と無差別でなければならない。
以上の議論が示しているのは、「選好の強さ」解釈をとる限り、個人の籤間選好は、専ら賞の間の「選好の強さ」によってあらかじめ規定されているということである。つまり、賞の間の「選好の強さ」が異なる個人間で同じであるならば、リスク状況においても両者は同じ行動を示さなければならない。ここではリスクに対する好き嫌いのような要素は入ってこれないのである。これは、「選好の強さ」解釈をとる論者が、当該個人についてリスクに対する中立性の仮定を置いていることを意味している。
Luce and Raiffaの例は「ギャンブル嫌いな人」の例である。したがってこの個人はリスクに対して中立的でない。だからこの例は「選好の強さ」解釈をする人にとってはirrelevantなのである。つまりLuce and Raiffaの批判に対して、「選好の強さ」解釈をする人は、「そんな人はいない」と応答することが可能である。
しかし明らかなように、リスクに対する中立性というのは個人に課すべき要件としてはあまりにも強すぎて非現実的であるし、そもそもそれが合理的といえるかどうか疑問である。だから批判すべきポイントは、そもそもこの仮定を置くことの是非であるべきなのである。
以上の議論は、期待効用の大小関係と籤間選好関係との間の論理的な先行関係の問題として定式化できる。
たとえば、 となっていれば、 は籤 と無差別である。 だからである。ではなぜそうなるのか。この、リスク状況での個人の行動の説明において、「選好の強さ」解釈をとる場合ととらない場合では正反対の議論になる。「選好の強さ」解釈をとる人は、これは期待値が同じだから無差別なのだと考える。つまり、賞の効用値が、それらの賞を用いた籤の選好に論理的に先行すると考える。そしてこの賞の効用値の差が「選好の強さ」を表していると考える。
これに対してこの解釈をとらない場合は、、無差別だから期待値が同じになっているのだと考える。つまり籤間選好が賞の効用値に論理的に先行する。籤間の選好順序がまずあって、それを表わすためにNM効用関数が定義されるのである。
本節の議論は、von Neumann and Morgensternの理論は、個人のリスクに対する態度を議論に組み込むことによって期待効用特性を復活させたものである、というよく見られる理解が間違いであることを示している。彼らはただ、籤間選好というリスク状況での個人行動を観察することを提案しているだけであり、かつ彼ら自身がとっている「選好の強さ」解釈が成り立つためには、個人のリスクに対する態度は中立的でなければならないのである。つまり個人がリスクに対してどのような態度をとるかということを変数化してしまうと、この解釈は成り立たなくなってしまうのである。
4. 基数的効用関数の存在論的困難と認識論的困難
では、von Neumann and Morgensternはリスクを含んだ選択状況という舞台設定をすることで、何に貢献したことになるのか。以上の議論に従えば、答えは一つしかない。彼らは、「選好の強さ」という自然量が存在することを仮定した上で、その測定技法を開発したのである。
個人は、量的に測定可能な「強さ」を持った選好に従って、自分の行動を決めている。そして、リスクを含んだ選択状況では、個人はこの強さの期待値の大小に従って自分の行動を決める。これは彼らにとって疑問視されない理論的前提なのである。ではどうすればその値を測定することができるか。ここで彼らは、リスク状況での個人行動を観察することで、特性確率によって定義されるNM効用関数が個人の「選好の強さ」の測度となることを発見したのである。
こう考えてくると、彼らが解こうとした問題が分かってくる。彼らは、人間の行動原理については一定の(かなり強い)仮定を置いた上で、それは疑問視していない。その上で、どうやったらそれを測ることができるかということを考えたわけである。つまり彼らの問題は認識論的なものである。
基数的効用関数に基づいて理論構築する際の困難には、認識論的なものと存在論的なものがあるということができる。認識論的困難とは、要するに人の心の中は覗けないので、基数的効用と呼ばれる自然量(快感とか幸福とか、あるいは選好の「強さ」とか)を直接観察することができないという、測定上の困難である。リスク状況に着目するというvon Neumann and Morgensternの工夫は、まさにこの困難を克服するものであったのである。
これに対して、存在論的困難とは、そもそも基数的効用によって表される自然量の存在、およびそれに基づく人間の意思決定メカニズムを仮定すること自体の非現実性に由来するものである。そして本稿前半で論じてきたとおり、20世紀に入ってからの序数的効用の擡頭と基数的効用の「死」は、まさにこの存在論的困難に基づくものだったのである。先にHarsanyiを引いたときに、彼は基数的効用が「余計」だといっていた。これは、まさしく存在論的困難を簡潔に表現した言い方である。
さて、重要なことは、認識論的困難を解決しても、それがただちに存在論的困難の解決にはならないということである。あると仮定されているものを見つける方法を開発したからといって、ないとされているものをあるとすることはできない。そういう意味で、NM効用関数は、いったん死んだ基数的効用関数を復活させたものではありえない。NM効用関数が基数的効用関数であると主張するためには、それが「選好の強さ」を表現しているという解釈をとらねばならないが、この解釈をとるということは、基数的効用の「死」を認めていないということを含意する。したがって、この解釈に基づくNM効用関数の採用は、基数的効用から序数的効用へ、という経済学の行動主義化への流れには棹差していない。
もちろん、NM効用関数の形式的な定義には、そのような解釈をとるべき必然性は含意されていない。それゆえ、序数主義の流れに棹差した上で、NM効用関数というのは期待効用特性を持った序数的効用関数だと捉え、序数主義の枠内に期待効用特性を導入したという点で、(本人たちの自己呈示とは異なるが)NM効用関数の開発を評価しなおしてやることは可能であるし、当初からこの概念の評価には以上の二重性が、明確に区別されない形で含まれていたといえるだろう。
ただし、Weymark [1991]やRoemer [1996]や三谷 [2006]が指摘しているように、NM効用関数を序数主義の枠内で捉える限り、それによって効用総和主義の復活を図るHarsanyiの試みは成功しない。とはいえ、したがって効用総和主義はやはり不可能であると結論するのはこれもまた安易な道である。分かったことは、序数主義の枠内ではやはり効用総和主義は不可能だということ(だからHarsanyiの議論は、それが序数主義の流れに棹差すものであって、基数的効用を密輸入するものでないならば、いわば手品に過ぎなかったということ)にすぎない。倫理学のごとき規範的命題の導出を目指す学問においても、序数主義のような行動主義的で経験科学的な経済学の前提を採用しなければならないものかどうか、その根本的な水準からの問い直しがまず必要だろう。本稿は、そのような問いが可能となるための準備作業の一つとして位置づけることができる。
文献
Hare, R. M., 1981, Moral Thinking, Oxford University Press
Harsanyi, John C., 1953, “Cardinal Utility in Welfare Economics and the Theory of Risk-Taking,” Journal of Political Economy 61, pp. 434-435
Harsanyi, John C., 1955, “Cardinal Welfare, Individualistic Ethics, and Interpersonal Comparisons of Utility,” Journal of Political Economy, pp. 309-321
Harsanyi, John C., 1977, Rational Behavior and Bargaining Equilibrium in Games and Social Situations, Cambridge University Press
Luce, R. D. and Howard Raiffa, 1957, Games and Decisions: Introduction and Critical Survey, John Wiley and Sons
三谷 武司,forthcoming,「効用の論理――ハーサニ型効用総和主義の失敗」,土場学・盛山和夫(編),『正義の論理――公共的価値の規範的社会理論』,勁草書房
Neumann, J. von and O. Morgenstern, 1953, Theory of Games and Economic Behaviour, 3rd ed., Princeton University Press
Weymark, John A., 1991, “A Reconsideration of the Harsanyi-Sen Debate on Utilitarianism,” in: Jon Elster and John E. Roemer (eds.), Interpersonal Comparisons of Well-Being, Cambridge University Press, pp. 255-320