憲法:生存権の法的性格  司法書士試験過去問解説(平成20年度・憲法・第1問)




平成20年度司法書士試験(憲法)より。各説についての正誤問題。

次のA説からC説までは,生存権憲法第25条第1項)の法的性格に関する見解である。次のアからオまでの記述のうち,誤っているものの組合せは,後記1から5までのうちどれか。



  • A説:  憲法第25条第1項は,国会に対してそこに規定された理念を実現するための政策的方針ないし政治的責務を定めたにとどまり,およそ法的な権利や裁判規範性を認めるものではない。

  • B説:  憲法第25条第1項は, これを具体化する法律の存在を前提として,当該法律に基づく訴訟において同条違反を主張することができ,その限りで法的権利を認めるものといえる。

  • C説:  憲法第25条第1項は,それ自体で裁判の基準となるのに十分に具体的な規定であり,その意味で直接国民に対し具体的権利を認めたものである。


  •   憲法第25条第1項が生存権保障の方法や手続を具体的に定めていないこと,資本主義体制の下では自助の原則が妥当するということは, A説の根拠となり得る。

  •   「憲法第25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるのかの選択決定は,立法府の広い裁量にゆだねられており,それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き,裁判所が審査判断するのに適しない事柄である。」との見解は, A説の立場に立ったものである。

  •   ある者が,生存権を保障する立法がされないため生存権が侵害されていると考える場合, B説及びC説のいずれの説によっても,憲法第25条第1項を直接の根拠として国の不作為の違憲性を裁判で争うことができる。

  •   生活保護に関する法律の下で何らかの給付を受けている者が,当該法律の規定では,自己の生存権の保障として不十分であり,生存権が侵害されていると考える場合B説及びC説のいずれの説によっても,憲法第25条第1項を根拠に当該法律の規定の違憲性を裁判で争うことができる。

  •   C説の立場に立っても,生存権の保障する具体的な立法がされない場合に,憲法第25条第1項を根拠として国に対して生活扶助費の給付を求めることまではできないとする結論を導くことが可能である。


生存権については、平成18年の設問の選択肢の一つとして出題されています。詳しくは、憲法:社会権としての生存権


憲法25条はこうです。

  • 25条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

  • 2  国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

いわゆる「生存権」の規定です。そして、A説、B説、C説は、それぞれ、おおまかに「プログラム規定説」、「抽象的権利説」、「具体的権利説」と呼ばれるものです。それぞれの立場がどのようなものであるかは、問題文中に説明してあるわけですから、各説の対立のポイントを把握すること、特に、各説がいったい何を軸として分類されているのかをざっくりと把握することがまず必要です。
そこで軸を設定すると、この規定は個々の国民に対して生存権という権利を保障しているのかどうか、をめぐる対立です。
A説の「プログラム規定説」は、いっさい保障していない、B説の「抽象的権利説」は、この条文だけじゃダメだけど、それを具体化した法律があればその法律が保障している限りで保障している、C説の「具体的権利説」は、この条文だけで保障している、というふうに立場がわかれています。
とりあえず以上のざっくりとした理解で、各選択肢を検討していきましょう。



  •   憲法第25条第1項が生存権保障の方法や手続を具体的に定めていないこと,資本主義体制の下では自助の原則が妥当するということは, A説の根拠となり得る。

不可能なもの以外は可能です。そして、可能であることを示すには、一例を挙げれば十分です。なので、この「なり得る」系の文は、往々にして正しいことが多いです。ここでも簡単に、可能な根拠づけの例を挙げることができます。
生存権保障の方法や手続を具体的に定めていない」、だから、「この条文は生存権を保障するものではない」。
「資本主義体制の下では自助の原則が妥当する」、だから、(自分の生活は自分で保障すべきであって)「この条文は生存権を保障するものではない」。
というふうに、それほど無理のない範囲で根拠づけができました。つまり「根拠となり得る」というのが正しいことがわかりました。
というわけで、選択肢アは正しいことを言っています。



  •   「憲法第25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるのかの選択決定は,立法府の広い裁量にゆだねられており,それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き,裁判所が審査判断するのに適しない事柄である。」との見解は, A説の立場に立ったものである。

文中の引用文は、「……場合を除き……適しない」という否定的な書き方ですが、立法府による立法措置の選択決定が、「著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用」であるなら、それは裁判所の違憲審査の対象となるということを言っています。ということは、25条1項に、すごく薄い感じではありますが、権利保障を認めているということになります。認めていないのであれば、「違憲」の問題が生じる余地がありません。だとすると、25条の権利保障をいっさい認めていないA説の立場からは、このようなことを言えるはずがありません。
したがって、選択肢イは間違いです。



  •   ある者が,生存権を保障する立法がされないため生存権が侵害されていると考える場合, B説及びC説のいずれの説によっても,憲法第25条第1項を直接の根拠として国の不作為の違憲性を裁判で争うことができる。

設定を正確に読み取りましょう。ここでは、「生存権を保障する立法」がまだされていません。現在の日本で25条を具体化するのは生活保護法ですから、生活保護法がまだできていない状態が、この選択肢の設定です。ということは、「生存権」については25条しかありませんから、これを根拠とせざるを得ませんが、そういうことができるかどうかという問題です。C説の具体的権利説は、読んで名のごとく、それができるという立場ですから、こちらはOKです。
問題は、B説の抽象的権利説です。これは、生活保護法がある場合には、この法律をいわば依代として、25条の権利保障がある、という立場なわけです。が、では生活保護法がない場合にはどうなるか。この説では、生存権は幽霊みたいなものです。依代があれば、そこに憑依して現世で大暴れすることができますが、依代がなければ何もできません。なので、生活保護法という依代がない状態では、生存権は現世=裁判で活躍できるための力を持てないということになります。なので、この選択肢の設定では、B説の立場からは、25条だけで裁判で争うことはできないと言わざるを得ません。
したがって、選択肢ウは間違いです。



  •   生活保護に関する法律の下で何らかの給付を受けている者が,当該法律の規定では,自己の生存権の保障として不十分であり,生存権が侵害されていると考える場合B説及びC説のいずれの説によっても,憲法第25条第1項を根拠に当該法律の規定の違憲性を裁判で争うことができる。

この選択肢は、上の選択肢ウと対照的に、生活保護法がすでに存在するという設定です。上述のとおり、C説の具体的権利説は生活保護法の有無にかかわらず、25条1項を根拠に裁判で争うことができるという立場ですから、ここでも問題はありません。他方、B説の抽象的権利説の方も、今回は生活保護法という依代がすでに存在しているので、これに憑依して裁判で権利としての力を発揮することができます。
したがって、選択肢エは正しいことを述べています。



  •   C説の立場に立っても,生存権の保障する具体的な立法がされない場合に,憲法第25条第1項を根拠として国に対して生活扶助費の給付を求めることまではできないとする結論を導くことが可能である。

選択肢アのところでも指摘したとおり、何かが「不可能である」ことを示すのに較べると、「可能である」ことを示すのは、それっぽいものを一例挙げればすむので、非常に容易であり、それゆえそういう文は往々にして正しいことを述べています。
先ほどから繰り返しているとおり、C説の具体的権利説は、生活保護法の有無にかかわらず、25条1項を裁判で争う際の根拠とすることができるという立場でした。
この選択肢の設定は、生活保護法がない状態ですが、C説なんだから大丈夫だろう、と思ってしまいそうになります。しかし「可能である」という語尾に注目しなければなりません。
そう思って注意深く読み直すと、選択肢ウや選択肢エでは、「違憲制を裁判で争う」という一般的な表現になっていたのに、この選択肢では、「生活扶助費の給付を求める」とかなり特定的な表現になっています。
さて、何かを一般的に「できない」と否定することと較べると、特定の事柄を「できない」と否定する議論をでっちあげることは容易です。つまりこの場合、「裁判で争う」ことは可能だが、しかしどんな裁判が可能かについてはできるのとできないのがある、という議論をでっちあげればいいわけです。
例えば、立法府生活保護法をつくらない立法不作為の違憲性を主張して、国家賠償請求を行うことは可能だが、個別に生活扶助費の給付を求めることは不可能だ、とか。わかんないですけど。
でもまあ、いずれにしても、そういう理屈をこねることは「可能」なのだから、この選択肢オは正しいことを述べていることになります。
(やはり、語尾が「可能である」系の選択肢は、わからなければ「正しい」に推定しておくのが得策ですね!)


以上により、誤っている選択肢はイとウでした。



憲法 第四版
生存権は、先に述べたとおり(略)、国の積極的な配慮を求める権利であるが、「具体的な請求権」ではない。そのため、25条は、国民の生存を確保すべき政治的・道義的義務を国に課したにとどまり、個々の国民に対して具体的権利を保障したものではない、と説かれることが多い。この見解を一般にプログラム規定説と言う。
たしかに、生存権の内容は抽象的で不明確であるから、憲法25条を直接の根拠にして生活扶助を請求する権利を導き出すことは難しい。生存権は、それを具体化する法律によってはじめて具体的な権利となる、と考えざるをえない。しかし、そのような内容の権利であっても「権利」と呼ぶことは可能であり、少しも差しつかえない(こう考える説を一般に抽象的権利説と言う)。抽象的権利説によれば、25条は、国に立法・予算を通じて生存権を実現すべき法的義務を課していることになる。この考えを推し進めれば、25条の生存権生活保護法のような施行立法によって具体化されている場合には、憲法生活保護法とを一体として捉え、生存権の具体的権利性を論ずることも許されるであろう。
このように、25条は、立法府に対して生存権を具体化する立法を行うべき法的義務を課していると解されるが、それならば、かりに国会がその義務を履行することを怠った場合、裁判所に対して不作為の違憲確認を求める訴えを提起できるかどうかと言えば、それには訴訟的に難しい多くの問題点がある(略)。



芦部信喜 『憲法 第四版』 254-255頁

憲法〈1〉
A説(プログラム規定説)は、憲法25条1項は単なるプログラムであり、国家に対する政治的義務以上のものは定めていないと解する(略)。これに対してB1説(抽象的権利説)はこれは立法者に対して立法その他の措置を要求する権利を規定したものであり、それに対応して固に法的義務を課していると解する。この説のなかにもさまざまなニュアンスのものがあるが、生存権憲法上すでに具体的権利として認められている権利ではないから、直接憲法25条1項を根拠として国の立法や行政の不作為の違憲性を裁判で争うことまでは認められないが、この規定を具体化する法律の存在を前提として、その法律に基づく訴訟において、憲法25条1項違反を主張することは許されると解する点で共通する(略)。またB2説(具体的権利説)は、憲法25条1項の権利内容は、憲法上行政権を拘束するほどには明確ではないが、立法府を拘束するほどには明確であり、その意味で具体的な権利を定めたものであり、これを実現する方法が存在しない場合には、国の不作為の違憲性を確認する訴訟を提起することができると主張する(略)。
これらの諸説のうち、まず初期の頃に最も有力に唱えられた説は、A説であった。プログラム規定説とは、もともとはワイマール憲法の各種の社会権憲法規定の解釈として通説の立場を占めてきたドイツの学説の呼称であったが、日本国憲法の解釈論として主張されたものであった。その論拠としては、権利の具体的内容とその影響を強く受け、その実現方法が明確でないこと、資本主義体制の下ではそれを実現する実質的な前提を欠いていること、具体的な実施に必要な予算が国の財政政策等の問題として政府の裁量等に委ねられていること、などが挙げられた。しかしその後、特に初の生存権訴訟として有名な朝日訴訟を契機に、B1説の立場が次第に有力になり、今日では最有力説となっている。最後にB2説は、少数説ながら有力に主張されてきた説であるが、これにも独自の立法不作為違憲確認訴訟が認められるべきだとするもの(略)と、行政事件訴訟の一つとして無名抗告訴訟が提起できるとするもの(略)とがある。
学説は一応は以上のように分類できるが、実は、B1説とB2説の実質的内容には大きな違いがあるわけではない。両説は、直接25条1項に基づいて、具体的な生活扶助の請求をすることはできないと解する点、同条項は立法その他の措置を要求するという点、具体的に制定された法律について憲法25条違反を主張できるという点で一致する。それから先、立法不作為についての訴訟が成り立つかどうかの点だけが異なるが、それは生存権に固有の実体問題ではなく、訴訟手続上の問題であろう。他方A説の立場を純粋に固持する学説は今日ではほとんどみられない。だから少なくとも今日の時点では、生存権の法的性格について学説の基本的な対立はなく、訴訟手続や審査基準の問題だけが残っているといってもよいであろう(略)。



野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利 『憲法I 第4版』 478-480頁

憲法
25条1項の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の法的性格をめぐって憲法制定当初からさまざまな議論があった。まず、最初に説かれたのは、25条は、国民の生存を確保すべき政治的・道義的義務を国に課したにとどまり個々の国民に対して法的権利を保障したものではないというプログラム規定説である(略)。たしかに、生存権は国の積極的な配慮を求める権利であると解したとしても、その内容は抽象的で不明確であるから、憲法25条を直接の根拠にして生活扶助を請求する権利を導き出すことには困難が伴わざるをえない。そこで、生存権を法的権利と解しつつ、これを具体化する法律によってはじめて具体的な権利となる、と考える抽象的権利説が通説となった。抽象的権利説によれば、25条は、国に対して立法や予算を通じて生存権を実現する法的義務を課しているが、生活保護法のような法律が存在しない場合には憲法違反を論じることができないと解される。
これに対して、生存権の具体的権利性を論ずることが求められ、何らかの法的権利(国の法的義務)を認めようとする具体的権利説が出現したが、実際には、この立場でも、法律が存在しない場合に直接25条を根拠に国に対して給付を請求する具体的権利があると解するわけではなく、立法不作為の違憲確認訴訟にとどまる(略)か、あるいは行政事件訴訟の一つである無名抗告訴訟が提起できるとする(略)。
そこで、近年では、プログラム規定説にかわって立法裁量説(後述の堀木訴訟最高裁判決のように25条1項の権利の内容は国会の裁量で決まると解する立場)が出てきた後は、抽象的権利説と具体的権利説の区別は「法実践的にほとんど無意味となった」として従来の学説分類に疑問が提示されている(略)。また、法的性格について学説に基本的対立はなく、訴訟手続や審査基準の問題だけが残っているという指摘もある(略)。このように両説間に訴訟手続問題を除いてほとんど差異がないことが最近の生存権論の停滞の原因といえようが、憲法上に明示された権利の内容が法律によって確定され、法律の内容を憲法が拘束しえないという理論や運用には、根底的な再検討を加える余地があると思われる。



辻村みよ子 『憲法 第3版』 303-304頁

憲法 (新法学ライブラリ)
1項の定める「健康で、文化的な最低限度の生活を営む権利」は,通常,生存権といわれるが,これがいかなる性格の権利であるかについて従来から学説の対立があった。
まず,プログラム規定説によると, 25条1項は,国民一般が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができる条件を整える責務を政府に課したものであって,その意味では国政の綱領(プログラム)ないし指針を宣言するにとどまる。このため,本条項は個々の国民に,健康で文化的な最低限度の生活を営むに足りる具体的な給付を求める権利を直接保障したものではないし単なる国政の指針の宣言にすぎない以上,裁判所による裁判の基準として機能する余地はない。何が健康で、文化的な最低限度の生活であるかは,一義的に明らかとはいえないうえ,生存権の具体的な実現にはさまざまな手段がありうるし,さらに予算上の制約が存することから,生存権をいかに具体化するかは立法府およびそれを受けた行政府が専門的・技術的知見に基づいて判断すべきことがらであるというのがその根拠である。プログラム規定説によれば,憲法25条1項は立法および行政のあり方を統制する法的基準とはなりえないことになる。
次に,現在支配的な学説である抽象的権利説によると,たしかに生存権の内容が抽象的で不明確で、あることから, 25条1項から直接に具体的給付を求める権利が個々の国民に認められるわけではないが,同条項は政府に生存権を具体化する施策を行うよう義務を課していると考えることはできる。これは抽象的な義務ではあるが,なお法的義務ということを妨げない。また,たとえば生活保護法のように,国会が生存権を実現するための立法を行った場合には,25条1項は当該立法の解釈基準として機能することになり,したがって,立法が存在する限りでは,25条1項は具体的給付の内容をもある程度までコントロールすることができる。さらに,裁判所は,具体的に制定された法律の内容が25条1項に違反するという判断をもなしうる。
抽象的権利説からすると,具体的な立法が存在する限りでは憲法25条は裁判上の基準として働くことになる。残る問題は,具体的な立法が存在しない場合についていかなる救済がありうるかである。
具体的権利説と呼ばれる学説は,生存権を実現する義務を国会が果たさない場合(具体的立法が存在しない場合)には,国民は立法の不作為の違憲確認を求めることができるとする(略)。この説は,具体的権利説という名称にもかかわらず,25条1項からただちに個々の国民に具体的給付を求める法的地位が導かれると主張するわけではない。具体的請求権が憲法から直接導かれないにもかかわらず,具体的請求権を設定する立法の不作為の違憲確認を求める訴訟が果たしていかなる場合に認められるか(訴えの利益がどのような場合に認められるか),そして誰に訴えを提起する適格が与えられるかなど訴訟制度上の論点について学説および実務による模索がなされている(略)。



長谷部恭男 『憲法 第4版』 278-280頁

憲法
憲法25条1項の定める生存権の法的性格について,当初はいわゆるプログラム規定説が支配的であった。すなわち,「いわゆる生存権は一般私法でいうような具体的な権利,いいかえれば, これに対応する国の『法律上』の義務があるところのものではない」とし,「国が常に,そのことにつき努力すべきであるという,将来の政治や立法に対する基本的方向を指示したもの」であり,「このような努力を国が怠った場合」に,「特別の法的救済は予定されていないことから,それは法律的にはプログラム的意義のものである」とする。この説は,この権利の妨害排除請求権(自由権)的側面についても否定するのである。朝日訴訟・上告審判決もこの立場をとったと考えるのが一般的である。確かにこの判決は法律によってはじめて具体的権利が与えられるとしたものの,法律の委任を受けた命令で設定される保護基準が「現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し,法律によって与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には,違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない」としている。生存権を具体化した法律がある場合には,憲法の規定も行政立法裁量の違法性を判定する基準として機能する,つまりその限りで法的効力をもつことを示唆しており,法的効力を一切否定する純粋な意味でのプログラム規定説は採用していないと考えられる。
朝日訴訟・上告審判決は,25条が法律の規定とともに行政立法裁量の統制として機能することを判示したので,25条が少なくとも客観的法規範としての法的効力をもつことを認めたものと考えられる。この立場は,堀木訴訟・上告審判決において, 25条がそれ自体客観的法規範として機能すると明言されるようになる。すなわち,「憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は,立法府の広い裁量にゆだねられており,それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き,裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない」とした。
憲法25条の法的性格論は,究極的には,裁判所で救済されるのか, という問題に集約される。プログラム規定説は法的効力を否定するので,裁判所は救済に一切関与できないことになる。客観的法規範説は,法的効力を認めるので,立法部・行政部の活動の拘束を承認するが,立法部・行政部に大幅な裁量を認めるので,救済を受けることは実際には困難である。抽象的権利説と具体的権利説はともに生存権の主観的権利性を認めるので,その侵害があったとき訴訟を提起して救済を求めることができることになる。
抽象的権利説も様々に分かれるが,代表的な学説は以下のように説く。すなわち「25条は,国に立法・予算を通じて生存権を実現すべき法的義務を課していることになる。この考えを推し進めれば,25条の生存権生活保護法のような施行立法によって具体化されている場合には,憲法生活保護法とを一体として捉え,生存権の具体的権利性を論ずることも許される」とする。この説は,朝日訴訟・上告審判決の趣旨を踏まえて,権利の観点から再構成するものである。つまり. 25条の政府に法的義務を課す段階ではなおそれに対応する権利は抽象的であるが,法律制定によってそれは具体的権利となるとする。法的効力を認める点では,客観的法規範説と同じであるが,主観的意味ももたせる点が異なる。ただ,この義務を国会が履行しなかった場合,立法不作為の違憲確認訴訟を提起できるかというと,「広汎な立法裁量が認められるので」訴訟的に難しいとする。
結局,この説は主観的権利性を肯定するものの,その権利の実現は法律の整備にかかるという限界をもち,生存権を具体化する法律が制定されない場合は,そもそも訴えを提起できないことになる。法律ができたときのみ裁判所における判断基準として憲法25条が働くとするのみであるから,実質的に客観的法規範説と同様の機能を果たすにすぎない。
抽象的権利説は,法律の無い場合に裁判的救済を認めないことになる。法律が無い場合に対応するため,いわゆる具体的権利説が唱えられた。この説は,憲法25条1項の権利内容は,憲法上行政権を拘束するほどには明確ではないが,立法部を拘束するほどには明確であり,その意味で具体的権利を定めたもので,その実現方法が存在しないときには,国の不作為の違憲性を確認する訴訟あるいは無名抗告訴訟が提起できるとする。
この説は,立法不作為の場合でも,その不作為自体が違憲か否かを争う訴訟を認め,その合憲性を裁判所が判定できるので,抽象的権利説よりも主観的権利性をより強く認めたことになる。ただ,訴訟のできる要件が不明確であり,また仮に救済が認められても,結局問題解決は再び、立法部の手に委ねられ,迅速な救済を求める困窮者の直接の救済とはならない点に問題を残した。



渋谷秀樹 『憲法』 255-257頁

日本国憲法 第3版
(A)プログラム規定説によれば,生存権は法的権利とはいえず,25条はプログラム規定だとされる。その根拠は,日本国憲法が資本主義経済体制をとっていること,労働の意欲と能力のある人に労働の機会を必ず与えるという社会主義的な生存保障の考え方の根幹について,その前提となる基礎が欠けていることである。そして,生存権保障には財政的裏付けが必要であり,予算に関する財政問題は立法裁量と考えざるをえないし裁判所がそのような権利を認めて執行することは権力分立原則の問題を生じさせるともいわれる。これに対し,(B)具体的権利説によれば,生存権は具体的権利であり,健康で文化的な最低限度の生活を営むことができない人は,国の不作為の違憲確認を求めて出訴できるという。この説は,プログラム規定説に対して,憲法上の権利が下位法である法律によって左右されるのはおかしい,権利侵害には救済が与えられるべきであると批判し,国の立法不作為が違憲となると考え,無名抗告訴訟として不作為の違憲確認訴訟が可能だと考えるべきだと主張する(もっともこの説にあっても,直ちに給付を求めて出訴しうるとは考えられておらず,その意味ではこの説を具体的権利説と呼ぶことが適切かどうかやや疑問もある)。(C)抽象的権利説によれば,国民は,国家に対し健康で文化的な最低限度の生活を営むために,立法その他の国政の上で必要な措置を講ずることを要求する抽象的権利をもっているという。生存権は,それ自体では,裁判所に出訴して健康で文化的な最低限度の生活に見合う生活保障を求めることのできる権利とはいえないが,法律によって具体化されれば,25条違反を主張できるというのである(この場合,法律違反ではなく憲法違反を主張することにどのような意味があるのか,必ずしも明確ではない)。最近の学説の支配的な立場は(C)である。
しかし, この生存権の法的性格をめぐる争いには,あまり意味があるとは思われない。確かに生活保護法がない状況で,健康で文化的な最低限度の生活保護を求めて裁判所に出訴することまでは認められないという点では,生存権を具体的権利ということは困難かもしれない。その場合に,生活保護法の不存在を立法不作為の違憲確認という形で争うことも困難であろう。それゆえ生存権は権利であるが立法府に向けられた権利であり,その意味で抽象的権利といわざるをえない。しかし,現在では生活保護法がある以上,実際に問題となるのは保護の不開始決定,保護の具体的内容あるいは保護廃止決定である。そしてこれらについては,当然25条違反として争うことが認められよう。その意味では,25条には裁判規範性があるのである。