作業メモ:『社会の社会』
コミュニケイションという一つのものがあるのでなくて、情報・発信・理解という三つのものがあると何で言ってはいけないのか、というのはルーマンのコミュニケイション概念において(少なくとも私には)よくわからんポイントなのだが。邦訳『社会の社会』にはこうある(「伝達」というのは私の言う「発信」のこと)。
われわれはコミュニケーションを、情報・伝達・理解という三つの構成要素からなる統一体として理解する。そしてこれら構成要素は、コミュニケーションによって初めて産出されるものと見なすのである。したがってこれらの構成要素に存在論的優位を認める可能性は排除されることになる。
この書き方だと、「構成要素」たる情報・伝達・理解と、「統一体」たるコミュニケイションが比較されて、構成要素の方に存在論的優位はない、と言っているかにみえる。ところが原文は、
Wenn man Kommunikation als Einheit begreift, die aus den drei Komponenten Information, Mitteilung und Verstehen besteht, die durch die Kommunikation erst erzeugt werden, schließt das die Möglichkeit aus, einer dieser Komponenten einen ontologischen Primat zuzusprechen.
Niklas Luhmann, Die Gesellschaft der Gesellschaft, S. 72
であって、「これらの構成要素のうちの一つに」と言っているのであって、存在論的優位を比較されているのは構成要素間であり、構成要素と統一性のあいだではないことが分かる(そのことは引用箇所の続きを読んでもわかる。)。
なお、Komponentを「構成要素」と訳すのはいかがなものかと思う。Element=「要素」と紛らわしいし、普通の読者は、訳者が両者を区別していることにすら気づかないだろう。componentといったら「成分」じゃないかなと思うのだが。