システムがコミュニケイションの連鎖の別名にすぎないとすると
コミュニケイションの自己再生産過程、接続過程、連鎖がシステムなのだとすると、つまりそういう過程・連鎖があるというだけで十分であり、「システムがある」というのは省略表現にすぎないのだとすると、たとえば
相互行為システムでは、コミュニケイションしないでいることができない。
Niklas Luhmann, Soziale Systeme, p. 562
という命題は、トートロジー、つまり「システム」という言葉の定義に依存した分析的真理だということになる。
しかし我々は、この命題や、その直前に書かれている、
他人が目の前にいるのに、一心不乱に爪を切るとか、窓の外を見るとか、新聞で顔を隠すとかするには、一般に、それらが制度的に許容されている必要がある。
Niklas Luhmann, Soziale Systeme, p. 562
といった記述に接して、「確かに」とか「あるあるwww」とか思うわけで、そこで与えられる「気づき」というのは、「そういえば独身者は結婚していないんだった!」といった、言葉の使い方についての反省ではなくて、言葉によって指示される経験的対象についての、自らの経験に基づく反省的発見なのだ。
「システム」という言葉は、そういった経験的知見を帰属される場として、つまり経験的研究の対象を指示する概念として有意に使うことができるのであり、いやそうではなくてコミュニケイションの自己再生産過程の別名にすぎないんだと言ってしまうなら、それはこうした経験的知見の可能性を、ひいては経験的研究の可能性を閉ざすことになる。