「この支配からの卒業」と「仕組まれた自由」

尾崎好きで『卒業』好きの私としては第4章「この支配から卒業せよ」の『卒業』解釈が平板すぎて耐えられない。管理社会から卒業できたら自由だうれしいな、って歌じゃない。
この歌の構造は、1番2番ともに「この支配からの卒業」で終わる本体と、2番終了直後に始まる「卒業していったい何解ると言うのか」からの尻尾の部分(専門用語でなんていうのか知らん)でできている。
で、本体はまさに、「管理社会から卒業できたら自由だうれしいな」という内容である。でもその後の尻尾の部分

卒業して いったい何解ると言うのか
想い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も縛られた かよわき子羊ならば
先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか
俺達の怒り どこへ向うべきなのか
これからは 何が俺を縛りつけるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業

これは、あきらかにそこまでの内容を相対化する歌詞である。「「本当の自分」をストレートに求める」(p. 165)人が、「あと何度自分自身卒業すれば、本当の自分にたどりつけるだろう」なんていう、諦念を含んだことを言うわけがない。
『卒業』の歌い手は、「仕組まれた自由」を享受して満足したのではない。「自由」が「仕組まれた」ものであることに気づかずに「あがいた」のである。ならば、その「自由」が、「支配」の内部にはないもの、「卒業」の後に手に入るものであることは明らかだろう。それを求めて「あがいた」のだから。しかし、その「自由」は「仕組まれた」ものなのだ。
要するに、「この支配からの卒業」を求めるあがき、それを支える魅力的な目標である「自由」こそが「仕組まれた」ものであり、つまりは「支配」の道具なのだ、というのが、この尻尾の部分のメッセージにほかならない。抵抗も込みでの支配なんだという気付き。
だからこそ、「この支配からの卒業」は最後に「闘いからの卒業」と言い換えられる。さらに言い換えるなら、尻尾での気付きによって、歌い手は「この支配からの卒業」から卒業することになる。「自由」から自由になると言ってもいい。そうやって得られたより高次の自由がいったいどんなものなのかということこそ、『卒業』に即しては、考えるに値するテーマではないのか。