「批判する」ことと「失敗の原因/理由を教えてあげること」は違う

あるいは、失敗していると指摘することと、その原因/理由を指摘することは違う、といってもいい。いずれにしても、この点について無自覚な人が多すぎる。
ルーマンは、因果論的機能主義を「批判」して等価機能主義を提唱したのではない。「説明」を目標とする機能主義が、すでにいろんな人から批判されて失敗を宣告されていたので、なんでそうなるかというと君たちが因果論にとらわれすぎているからだよ、ちょっとそこから離れてみようよ、と教えてあげたのだ。
同様に、目的合理性を「批判」してシステム合理性を提出したのではないし、理性啓蒙を「批判」して社会学的啓蒙を説いたのでもない。
他方、ルーマンは、そうすることを通じて、社会科学における、機能主義不要論を、合理性不要論を、啓蒙不要論を「批判」している。言い換えると、機能主義を、合理性を、啓蒙を、「救出」したのだといえる。あるいは、すでに死んでいたそれらを「再生」したのだといえる。当時の社会科学に欠けていると彼がみなしたもの、彼が救出ないし再生しなければならないと感じたものを、こうやって眺めてみれば、ルーマン社会学が、経験科学の枠内に収まりきれないものをもっているのは、あるいは、その枠内で捉えていたのでは捉えきれないものをもっているのは明らかだろう。