more or less 〜

「more or less」を「多かれ少なかれ」と訳すのは手抜き翻訳の典型である。例はいくらでも転がっているが、やはり『未開社会における構造と機能』から(別にこの訳書に恨みがあるわけではないが、いま読んでいるので)。

社会生命と有機体生命の類比にもどって、我々は有機体は多かれ少なかれ効果的に機能するだろうということを承認し、その上で機能に反するあらゆる現象を取り扱う病理学という特殊科学を作り上げている。(p. 251)

(・・・まあなんというか、ここは特にひどくて、はっきり言ってむちゃくちゃなのだが・・・)
 さて、「多かれ少なかれ効果的」という表現は、「程度の差とは関係なく、効果的であるというまさにそのことを言いたい!」という気持ちを表す日本語である。「more or less」でそういう気持ちを表現する場合もある(と思う)が、そうでない場合もあって、上記の箇所はまさにその典型例である。
 原文はこう。

To return to the analogy of social life and organic life, we recognise that an organism may function more or less efficiently and so we set up a special science of pathology to deal with all phenomena of disfunction. (p. 181-2)

 ここで言わんとしていることは、有機体が「more efficient」に機能することもあれば、「less efficient」に機能することもある(分配法則!)ので、後者の場合=「disfunction」(「機能に反する現象」って・・・とほほ)を対象とする科学が必要となり、それが病理学ですよね、という話。社会も同じだから社会病理学も必要ですよね、と続く。
 というわけで私ならこう訳す。

社会の生命と有機体の生命の類比にもどろう。ご存知のとおり、有機体はうまく機能するときもあればしないときもある。だから、そういう機能不全的な現象をまとめて扱う特別な科学として、病理学というのがある。

という感じ。
 えー、もう一つ手抜き翻訳の典型として、「may」を「かもしれない」と訳すのがある。上記訳書にも頻出する(上記引用箇所では「〜だろう」という表現にされている)。「かもしれない」というのは「話者はこの点であまり自信がない」という気持ちをあらわす表現だが、「may」が使われている箇所の9割以上(「非常にたくさん」の意w)は単に「可能である」ということをいっているだけで、話者の不安などはあらわしていない。文脈から「かもしれない」とするのが明らかに適切な場合を除いて、「可能である」「できる」「ありうる」などの表現にしておくのが安全である。