作業メモ:『意味とシステム』

家族などとはちがい、日常会話では頻繁に人が入れ替わりうるので、人の集まりの形ではうまく一つに特定できない。相互作用システムでも人の出入りは起こりうる。「ちょっとした出会いでもそうである」。むしろ「高い入れ替わり可能性、すなわちその場性の不確定性Kontingenz der Anwesenheitが相互作用の維持に役立っている。だから、「人として」の形ではこのシステムは同定できない。



佐藤俊樹意味とシステム』83頁

まず、「ちょっとした出会いでもそうである」というのは、「Dies gilt auch für einfache Systeme und selbst für ganz flüchtige Begegnungen.」というところだと思う(佐藤本では参照が旧版の頁数で、私は新版しか持っていないので、ちょっと確かなことはいえないが)。だとすれば、ここでdies=「そうである」と言われているのは、「人の出入りは起こりうる」ということではなくて、ルーマンの文章におけるその直前の文、「社会的システムで社会的制御のために用いられる、通常かつ主要な手段は、参入・退出過程である」ということだ。佐藤の「そうである」とは違う。
そもそも、佐藤が準拠してるこの部分というのは、論文「単純な社会的システム」の第五節「社会的制御」であり、その主題は、相互行為への参加者というのは人間で、人間はいらんことまでしちゃうから、何らかの制御(Kontrolle)がないといかんよね、でも相互行為システムではどうやって制御をしているのかな、ということである。
参入・退出過程による制御(つまり、うわー変な奴につかまっちゃったー、どうしよう、みたいな不安が相互行為に現れないないようにすること)には二つあって、一つは、参入過程を厳しくして、変な奴とは最初からお近づきにならないようにするとか、「かくれんぼする者この指とーまれ」的に、鬼ごっこしたいやつまで来ないようにするといったこと。
で、もう一つが、佐藤が依拠している話で、ルーマンはこう書いている。

もう一つのやり方としては、流動性それ自体を用いるものがある。つまり、参入・退出の容易さを用いるのだ。参入・退出に対する制約が弱いほど、また参入すべき・退出すべき外的理由がはっきりしていないほど、臨在性を合意の存在の指標として用いることができるようになる。つまり互いの相手に対する合意想定がうまく機能するようになる。このように、流動可能性、つまり臨在の偶然性が、違背の危険性に対する、つまり行動の偶然性に対する予防手段となるのである。



Niklas Luhmann, Soziologische Aufklärung 2, p. 37

要するに、「嫌なら帰れ!」といえるなら、「帰らないということは嫌じゃないんだな」と思える、という話だ。佐藤は、Kontingenz der Anwesenheitを、人が実際に入れ替わり立ち替わりするから、誰がその場にいるのか決まらない!という意味に解して「その場性の不確定性」と訳しているわけだが、それは全然違う。きちんと文脈を把握するなら、これは「その場にいないこともできたにもかかわらず、その場にいるということは・・・」という話なのだから、つまりその場にいることが必然的じゃないんだから、という話なので、Kontingenzは「偶然性」と訳すのが正解である。参入退出が容易であることと、参入退出が実際に頻繁に行われることとは、別のことだということに注意しよう。
そもそも、

おしゃべりや話しあいでは、まずAさんとBさんとCさんがいて、次にAさんがいなくなって、その後Dさんがきて、といった人間の入れ替わりが頻繁におこる。



佐藤俊樹意味とシステム』83頁

というのが経験的事実として間違っているだろう。それはむしろ例外的な事態であり、しかも相互行為進行中に誰かが新しく参入してきたり、退出していく場合には、相応の社会的作法に基づいた何らかの儀礼(「おっーす」とか「じゃあねー」とか)が行われることによって、そのつど参加者の再確認が行われているはずだ。しゃべっている途中で、「いったい俺は誰としゃべってるんだ!?」みたいなことは、滅多に起こらない。