人文総合演習A 第10回
- 郷原信郎,『思考停止社会――「遵守」に蝕まれる日本』,講談社現代新書,2009年
いや、レジュメよく書けてました! と、わざわざ言うのはなぜかというと、報告時のパフォーマンスがそれにつり合ってないからで(笑)。独りで考えて文章を組み立てるのと、人前でいろんな人の思いもよらない指摘を受けながら、なおも議論を維持することは、エネルギーの使い方というか、求められる能力が全然違うことが、体験的に理解できたのでは? もちろん、全部できるとは思っていません。いくつかの点では、1年生ゼミとしては、日本で、というか世界でもトップレベルの要求水準の演習だということは、自覚しておいてよいでしょう(私はこういうところ謙遜しないで書いちゃう素敵人格なのですw)。
報告の趣旨は、著者は思考停止を批判してるけど、思考停止しちゃいけないのは(つまり考えないといけないのは)「誰なのか」が不明だから、俺が考察して、その理由も含めて著者に教えてやんよ! ということですね。「社会的要請に応えたいという意志」から社会における成員性を条件として析出するところなんか、ちょっと政治哲学の論文にあってもおかしくない雰囲気でした。
「社会的要請に応えたいという意志」がどのように発生するのか、なにを契機として生じるものなのか (中略) この意志は社会から独立した完全な個人からは生まれえない (中略) つまり、社会的要請というものが前提とされた時点で、個人ではなく社会の中の一員という視点が必要になる。
とかね。なかなか立派です。米国のコミュニタリアンの論文からの引用です、とか言っても騙される人いそうでしょ(笑)。
さて、最後の方に私がややこしいことを言ったので補足をば。言いたかったのは、「社会的要請」というのは、「法令」がすでに存在していて、それが人々のフェティシズムの対象になっているとき――つまり、法令遵守それ自体に価値があると(誤って)思い込んじゃってるとき――には、法令よりも上位の審級としてその相対化に役立つ、という面が確かにあるけれど、まだ法令が存在しないときに用いると、特定の人間集団の私的な要求にすぎないものを「社会的」要請として(不当に)正当化しかねない危険があろうことよな、ということでした。・・・えーと、やっぱややこしいですねすいません。
司会者は、事前にレジュメの内容を知ることができなくて仕方ない面もありますが(そしてそれは報告者が悪いんですが)、自分が事前に準備したフレームに回収しようとするのが少し強引でしたかね。この辺は加減がなかなか難しくて、報告内容が薄くてしょうがない場合には、司会者が濃度を増してやるのが有効なんですが、今回は、レジュメで実質的に新しい議論が出てきていたので、まずはそれに乗ってあげるというのが正解だったと思います。と、こんなことを書いておりますが、私だってちゃんとできるわけではありませんのでまあその辺は。
以下、出席者のコメント。
- 今日は時間が経つのがはやかった気がします。
- 情報社会の今、1人1人がよく考えることは重要なんだなと思いました。
- 法令遵守する人は、罰を受けることを恐れているのだとしたら、制裁を下す人が柔軟な思考を持つことが大切ですね。下の人より上の人がよく考えるべきだと思いました。そういう面で悪い教師はたくさんいます。
- サイバンインコは風刺がきいてて面白いと思った。人の言葉を繰り返すだけという・・・
- 「貧困」「経済」「社会」は例え話で、その背後(これが本題)の話がしたかったが焦点が合わなかった。という感じがした。
- 難しい内容だなあと思った。報告者が確認しながら話していたのは良い。司会者も小ネタを出そうとがんばっていてよかった。
- 最後の方、貧困問題にとらわれすぎて話がややこしくなったと思う。
- 報告者の感想 きついんですね。
- 司会者の感想 司会がダメダメでした。皆に助けられてばかりでした。話すのが上手な人間になりたいです。