畠山洋輔「社会学的機能分析の機能」

  • 畠山洋輔,2007,「社会学的機能分析の機能――Luhmann機能分析による経験的研究の可能性」,『現代社会学理論研究』1,pp. 44-56

入会したのにその年には送ってくれず(会費納入が遅れたというこちらの不手際はあるものの)、その旨メールしたけど届かなかったようで(笑)、昨年の日本社会学会の大会でようやく某Sさんから直接いただいた・・・まではよかったものの、その後、研究室の中で行方不明になっていたのを、先般やっと発見したのである。
さて、内容だが、ちょっと言葉遣いが緩い。分析、理論、仮説、これら三つの関係がよくわからない(というかきちんと区別していないように見える)。そのために、この論文が何を達成したのか、なんとなくぼやけている。Luhmann機能分析が仮説だというとき、「機能分析とはこれこれすることだ」という方法定義が仮説だといっているのか、分析の結果得られる命題が仮説だといっているのか、どっちなのだろう。
あと、私の名前も出してくれてありがたいのだが、

Luhmann機能分析については、彼が複要件理論を採用することによって理論要件を軽減させている(三谷2006)(中略)という指摘がある。(p. 49)

というのは、ちょっと違う。この三谷2006というのは、大会報告原稿で、このブログに掲載しているやつだが、そこで述べたのは、Luhmannの場合、理論に対して複数の要件を提供すること〈しか〉要求しない〈という意味で〉理論要件が軽減されている、ということである。「によって」ではないのだ。
ではその理論要件の軽減は「何によって」なされたのかというと、それは機能という概念の、システム理論からの独立によって、である。
畠山さんが詳論していることを、私なりに言いなおすと、比較というのは、「この点は同じだけど、こっちは違うよねー」ということであって、Luhmannの機能概念とは、「この点は同じ」というその点につけられた名前にすぎない。だから機能分析と比較は、厳密に同義である。ここが、従来の機能主義と全然違う。従来版では、そもそも機能という概念を理解するために、システム理論がきちんとできていなければならなかった。システム理論の一部としてのみ、機能概念が意味をもったわけだ。ところが、Luhmannの機能概念は、比較という営みの定義だけから理解することができる。そういう意味で、機能概念がシステム理論から独立した、といえるのである。
このように、機能概念がシステム理論の〈外部〉にあるものだとすると、システムの「機能分化」等の文脈で、Luhmannがなおも機能概念をシステム理論の〈内部〉で用いていることに対しては、その正当性を批判的に検討してやる必要があるだろう。つまり、システムが解決すべき問題とか、存立要件とかいえばいいところを、ついつい機能と呼んでしまっているだけではないのか。その語用に積極的な理由があるのか、といった観点からの検討が必要になる。
畠山さんは、LuhmannがParsonsらから機能概念を批判的に継承した、と述べているが、特に前段落のような事情については、むしろ、自らの定義と矛盾した、だらしない残滓的語用なんではないかというのが、Luhmannに対する私の印象。ただあくまで印象で、ちゃんと検討してやらないといけないと思っているけど。(他方で、比較の参照点という意味での機能概念は、Parsonsらから継承したもの〈ではない〉ので注意が必要。)
・・・いつもながら、ちゃんとした論評にはならず、随筆っちゃってすみません(あくまでメモということで)。