履修許可について

今年度、初めて講義をもたされてもたせてもらって、いろいろと思うところがあったり、勉強になったことがあったりして、講義というものに対する自分なりのポリシーとか戦略ができてきた。そうしたものを書いておきたいのだが、結構長くなりそうで、でもまとまった時間がないので、少しずつ書いていってあとでまとめようと思う。
まず、講義の目標だが、これは今のところ「読むレポートのうちで質の高いものの割合が大きくなること」である。母集団が「履修登録者」ではなくて「レポート提出者」であるところが、とりあえずの特徴だろう。これでいくと、提出者が質の高いレポートを書けるように教育することはもちろんとして、質の低い、やる気のない、とりあえず文字だけ埋めました的なゴミレポートを出すくらいなら「提出しない」=履修放棄の方が合理的だと履修者が判断できるような仕掛けが有効である。その仕掛けを書いていきたいと思っている次第。
さてとりあえず今回は、履修登録の許可について。
昔話をすると、自分が学部の頃は(ということなのか東大はということなのかよくわからないが)、履修というのは基本的に自由、登録し放題だった。なので、1日5コマ×週5日の25コマを登録することもできた。まあ20コマくらい登録しておいて、あとから切っていくという感じだった。
ところが、ここは(少なくともうちの学部は)、半期で22単位(つまり11コマ)までしか登録できないという制限があってまあ不自由である。そのうえ授業に定員があって、履修希望を出しても抽籤などで落とされる可能性がある。学生たちは学期初めに結構悩んでいるようだ。
履修上限については私にはどうしようもないので、せめて自分にできることとして、履修登録をした人は全員履修許可することにしている。今回の「社会システム論」では定員150名のところ165名が登録した。
さてこれは学生へのサービスという面もあるが、むしろ、上の目標に近づくのに合理的な選択だと思っている。
第一に、抽籤では、潜在的上位者(つまり優秀なレポートを提出するかもしれない人)が落ちて、潜在的下位者が残ってしまうかもしれない。もちろん、不許可ゼロなら、潜在的上位者が落ちない代わりに潜在的下位者も確実に残るわけだが、これはその後の対応で、選択的に履修放棄に誘導してあげればよい。
第二に、抽籤に限らず選抜をすると、残った人が「選ばれた」感を持ってしまう。この感覚はさらに、「せっかく選ばれたのに提出しないなんて!」という不合理なもったいない感を導き、あるいは「せめて何か提出しないと落ちた人に申し訳ない!」という義理感を導いてしまう。もちろん、そういう感情に後押しされて努力をしてくれれば問題なのだが、そんなふうに事が運ばないのは教員なら誰でも、というか大学生を経験したことがある者なら誰でも知っている。結局、レポート提出間際に、急にこれらの感情を覚えて、とりあえず何か書いてみました的なレポートを書くことになる。これは本人にとっても、読まされる教員にとっても不幸なことだ。
最後の点をちょっと敷衍する。これは講義の中でも言ったことだが、ゴミレポートを書くくらいなら何も書かない方がましである。そのくらい、「書く」という行為は書き手の人格に影響する。いいかげんな文章を書くと、それはかなり長いあいだ書き手の精神にとって枷となる。他方、文章の端々にまでコントロールをきかせ、緊張感をもった文章を書けば、書くたびに新しい視界が開ける。これらは私の体験に基づいた印象論でしかないが、同じ経験を持つ多くの人と共有されるだろうとも思っている。
・・・今回はとりあえず以上。